建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

弟子たちの派遣2 マタイ10:9~15

2003-5(2003/2/2)

弟子たちの派遣2 マタイ10:9~15

 「(旅には)金貨も銀貨も小銭も帯の中に入れていくな。旅にはリックサックも、二枚の下着も靴も杖もいらない。働く者は食べ物をもらう値うちがあるからだ。町や村に入った時には、ふさわしい人を捜して、そこを去るまでその家に泊まりなさい。家に入ったらその人に挨拶しなさい。その家がその挨拶にふさわしい時には、あなたがたの(祈る)平安はその家に必ずやもたらされる。しかしふさわしくない時にはその平安はあなたがたのもとにもどってくるはずだ。 あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けない時には、その家、その町を去りなさい。そして足のちりを払いなさい。アーメン私はあなたがたに言う、最後の審判の日には、ソドムとゴモラの地のほうがその町よりもはるかに耐えやすいであろう」
 この箇所は、伝道旅行に出る弟子たちの取るべき行動をイエスは説いておられる。9,10節は持ち物について。彼らを「放浪のラデカリスト」だとして、眼目となっているのは自分が自由に使えるようなものを所有するかどうかでなくて、むしろ宣教活動には見返りを求めることは許されない点である(8節)。その場合食事は別であり、神が教会や他の人々をとおして弟子たちのために配慮してくださるからだ。そう理解する場合にのみ、金銭や持ち物をもつな、との命令が理解できるようになる。「二枚の下着」の箇所には、野宿に欠かせない外套についてはしるされていない。並行記事ルカ9:3には「杖も旅行袋も、パンも金も持つていくな」とある。
 12節以下の「家に入ったら挨拶しなさい」はその家、その人々の「平安・シャロームを祈る」ことで、弟子たちが彼らのために平安を祈ると、彼らに平安がもたらされる、「その家がその挨拶・シャロームにふさわしい時にはあなたがたの唱える、祈るその平安は必ずやその家にもたらされる」12節。なぜこのようなことが起こるのか、それは弟子たちに与えられたイエスの全権によって起こる出来事である。弟子たちによる「平安の到来・臨在」にはもう一つの側面を持っている、13節「もしその家が平安を受けるのにふさわしくない場合には、その平安はあなたがたのもとにもどってくる」。宣教者、弟子たちはしたがってこの平安、救いの担い手である。伝道者の挨拶・シャローム・平安に対するその家々の対応で救いにあづかるかどうかが決定される、このポイントは14節で展開されている「あなた方を受け入れず(歓迎せず)あなたがたの言葉に耳をかたむけない時には、その家その町を去りなさい。そして足のちりを払いなさい」。
 「足のちりをはらう」は町や村の人目にたつ公共の場でこれをなす場合には、その者がその土地と一切の関係を絶つ、縁切りの意思表示の行動である。行伝13:51など。言い換えると、その場所は神の審判のままに渡されるとの、布告の行動である。むろん宣教者この行動はイエスに授けられた全権に裏打ちされたもの、彼らは神の審判の通告者である。宣教者はイエスの代理者として救いの告知者であるが、同時に審判の告知者である。並行記事ルカ10:11にはこうある「私たちは足についたこの町のほこりをふいてあなたがたに返す。しかし(恐ろしい審判である)神の国が近づいたことを知れ」。「足のちりをふく」と神の国、審判の接近が堅く結合されている。つまり「あなたがたの言うことを聞く者は私のいうことを聞くのであり、あなたがたを排斥する者は私を排斥するのである」ルカ10:16。弟子たちがイエスに与えられた全権にはこのように二重の権能という特徴をもつ。 マタイ16:19では「結ぶ一解く」、ヨハネ20:23では「罪を赦す一赦さない」権能である。弟子たちの宣教活動はイエスの全権委任をとおして地上でイエスの業を継続するのだ。