建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

エジプトへの避難と帰還  マタイ2:13~23

1998講壇ー1(1998/1/4)

エジプトへの避難と帰還  マタイ2:13~23

 まず16~17節のへロデの幼児殺害について。このへロデの大量殺裁が実際あったかどうか《疑わしい》という根拠として(1)幼児期に通害を受けて逃亡する例として、モーセ、キロス(祖父による暗殺計画)などがあり、幼児イエスの場合も特に《エジプトのパロによるイスラエルの幼児殺害》との対比で形成された伝説ではないか。(2)へロデの残忍さから幼児殺戮を説明できるのか。このような疑念が起きて論議されてきた。
 13、14、15節の「エジプト」は古来からイスラエルの迫害された者たちにとって避難の地であった。問題となるのはモーセとの関連である。モーセも幼児の時期、パロによるイスラエルの幼児殺害から逃れた。出エジ1:15~2:10。幼児イエスがへロデの幼児殺害から逃れて、エジプトへ、の背景にはこのパロのイスラエルの嬰児殺害の物語があるであろう。
 しかしながら、モーセと幼児イエスのエジプト逃亡の間には《大きな相違点》もある。幼児モーセがパロの殺害から逃れられたのは、モーセの母の知恵による、出エジ2:1以下。しかし幼児イエスを救うのは、神の働き(み使いのお告げ)によっている。また成人したモーゼは《エジプトから逃れた》のに対して、幼児イエスは《エジプトへと逃れる》。
 「ヘロデによるべツレヘムの二才以下の幼児の大量殺害」16節は《ヘロデ自身の残忍さ》から説明できるのか、という問題を提起する。シュタウファーは、ヨセフス(後1世紀のユダヤの歴史家)の「古代史」に依拠してへロデが行なった「流血事件」をしるしている。ハスモニア家の前王とライバル、アンチゴノスをローマ人によって殺害、ハスモニア家の出身である自分の妻マリアンネの殺害、ハスモン党の信望のあったブネ・パパとその一門の殺害。さらに妻マリアンネとの間に生まれた自分の王子、アレキサンデルとアリストブールスとアンティパテルを大逆罪で処刑。反逆者集団やバリサイ人の反乱にも断国たる対応をし、大量殺害で報復した。死の床においては、ユダヤの指導者たちをエリコで大量殺害するように命じて、実行させた。
 新約学者はシュタウファーは、マタイ伝二章におけるべツレヘムの幼児殺害はへロデの残虐から十分説明できるという。
 しかしながら、ヨセフスがへロデの流血的行為をさまざまに述べながら、肝腎のこの《ベツレヘムの幼児大量殺害に言及してない》ので、ヨセフスがこの大量殺害の歴史性を疑っているとE・シュヴァイツァーの注解(信徒向けの注解書NTD)は述べている。また大した事件ではないとして黙過したとも考えられる。
 アリソンの注解はいう、ヘロデがどのように残忍な王であったにしても、そのことは、マタイにおけるその事件が史実であったことを証明するものではない。この15~16節がモーセの幼児期についての話と一致している理由は、これが資料的に歴史の分野のものではなく、むしろ律法解釈論(ハガタ)の想像力に基づいているからだ、という。
 他方「エジプト滞在中のイエス」に関する伝承がユダヤ教のラビ文献にあって「成人したイエス」はその地で魔術を教えられたとあるという、ルツの注解。ルツは「この物語(2:13節以下)はほどんと確実、に《非歴史的なべツレヘム伝承》に依拠して形成されたものであって、またルカに並行記事がない」という立場をとっているが、ユダヤ教が知つている先の「イエスのエジプト滞在につての伝承」の背後に《真の歴史的な核》が潜んでいないかどうかを真剣に問題にする必要がある、という。言い換えると《エジプトへの避難を全く史実ではない》と言い切れない、キリスト教に反対する立場、ユダヤ教の見解であるから、ということになる。
 マタイ伝がこの簡所でへロデ批判をしている点は確実である。イエスのゆえにイスラエルの子供たちを殺害する王は、決して真のユダヤの王ではないし、この事件はイエスに対するへロデの決定的な拒絶を意味する。
 17~18節。ベツレヘムで起きた《ラケルの嘆きの声》の記憶は、ルカの描くべツレヘムのイメージ(牧歌的?)と決定的に異なるものである。
 17節ではただ預言者エレミヤ31:15の言葉が「成就された」とだけ語っている。「ラマ」はエフラタ、すなわちべツレヘムと同一視されている(創世48:7)。ここはヤコブの妻ラケルが理葬された地として知られている(サムエル上10:2)。ラケルは北王国イスラエルの生みの親で「そこ子らがもはやいなかった」は職乱と捕囚によってその地からいなくなったこと。ベツレヘム、すなわちこのラマの地に、捕囚の民は集結させられてアッシリアバビロニアにひかかれて行ったという《ラケルの嘆きは苦難のメシア・イエスの運命に対する暗示である》ザントの注解。
 22節の「アケラオ・アルケリウス」はへロデの長男、王の称号は名のれずに「領主」にとどまり、ユダヤサマリアを支配したが(在位前41~後6年)、後6年に皇帝によってガリアに追放された。
 23節の引用「彼はナザレ人と呼ばれるであろう」は「解釈上の十字架」つまり難解な箇所で典拠もよくわからないとされている。マタイはすでに15節のホセア11:1の引用において幼児イエスを「わが子・息子」すなわちメシア称号である「神の御子」と呼んだ。「ナザレ人」を「ナジル人」士師13:5、7と関連づける解釈がある。現在ではイエスを「ナジル人」と関連づける解釈はほどんとない。
 「ナザレ人」の起源は、イザヤ11:1のメシア預言「エッサイの株から一つの芽が出てその根から《一つの若枝》が生える」に由来し、この「若枝・ネゼール」がメシアの存在を象徴すると解釈できる、アリソン、ザント、ルツの注解。