建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ルターの「キリストの受苦の考察についての説教」

2005-2(2005/3/10)

ルターの「キリストの受苦の考察についての説教」
テキスト:第一ペテロ2:24
 この説教は1519年に出版された。日本語訳は1949年に藤田孫太郎訳が出た(ルター選集Ⅱ所収)。翻訳で17ページのもの。印象に残った箇所を取り上げたい。
 ルターは述べる、「キリストの受苦」を正しく考察することは、彼の受苦に心から驚き〔驚愕し〕良心を絶望させる人のみである。そこでこの驚きがどこから来るのか、罪人に対する《神の怒り》と動かしえない彼の真剣さを見ることからだ、という。
 「彼はわれらの咎のために砕かれた」(イザヤ53:5)とあるように、神の最愛の独り子が罪人のためにこのような重い贖罪を成就するまでは、最愛の独り子に対してさえ、神は罪人を赦したまわないのである。
 キリストをこのような受苦の中へと入れた者は《あなた》である、とルターは強調する。「あなたがキリストの手を貫く釘を見る時、それはあなたがなす業であると確信せよ、またあなたがキリストの棘の冠を見る時、それはあなたの悪しき思い〔がなせる業〕であると信ぜよ」。
 そればかりではない。「キリストの受苦を考えさせてくださるように、あなたは神に祈願すべてきである。《なぜならキリストの受苦はもし神がこの受苦を私たちの心の中に沈めたもうのでなければ、私たち自身によっては徹底的に考えられえないからだ》(この説教の中で、一番心に残った箇所)。神の受苦についての省察は、人間を根本的に変え、人間を新たに誕生させる、とルターはいう。キリストの受苦は、正しい真の高貴な業をなす、すなわち古きアダムを窒息させる、すべての快感、喜悦、信頼を追い出す。
 キリストの傷と受苦はあなたの罪であり、キリストはこれらの傷と受苦を負い、その代償を支払いたもうことをあなたが固く信ずる時、《あなたは自分の罪を自分自身からキリストの上に転嫁する》だろう。
 イザヤ53:6は述べている「神はわれらすべての者の咎を彼の上に置きたもう」。ペテロも語る「キリストは木の上にかかり、自らわれらの罪を負いたまえり」(Ⅰペテロ2:24)。さらにパウロも言う「神はキリストによってわれらを義とせんがために、キリストをわれらの代わりに罪人となしたまえり」(Ⅱコリ5:21)。
 確かに罪を自分の心の中で見るなら、罪は私たちにとってあまりに強く永遠に生き続ける。しかし罪はキリストの上に横たわり、キリストはよみがえりによって罪を克服したもうたことを、私たちが見るなら、またこのことを大胆に信ずるなら、罪は死に無となる。罪は彼の復活に飲み込まれている。パウロはこのような意味で述べている、「主はわれらの罪のために渡され、われらの義とせらんためによみがえらせられたまえり」(ロマ4:25)。すなわちキリストはその受苦によって私たちの罪をあばき、こうしてこの罪を窒息させたもう。しかしキリストはその復活によって私たちを義となし、すべての罪より免じたもう。
 ルターはキリストの受苦の出来事を、あくまで神ご自身の主動の業とみている。
 「神が永遠の愛においてキリストの心を持とうとしたまわなかったとしたら、キリストはあなたにこの愛を示すことができなかったであろう。キリストはあなたに対する愛をもって神に服従したもうのである。あなたはここに神の善良な父としての心を見い出すであろう。そしてキリストが言われたように、あなたはキリストによって父のもとに引かれるのである」(ヨハネ14:6以下)。