建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

バルトの死の見解2

2005-5(2005/5/8)

バルトの死の見解 2

 5、バルトは述べている、人間存在に終わりがあるということは、事実人間が咎あるものであるという影の中にあることを示している。私たちは死においてただ死と対峙するだけではなく、また《神とも対峙させられる》。この神は私たちに義をもち、私たちのほうはこの方に不義しかもっていないのだが。神は死において私たちが神に対して負うたままになっていることの回収をなされること、私たちがもうけたものの支払うようにと脅したもう。死によって私たちが脅かされいるのは、無害な中立的な、うれしい無によってではなく、むしろ神の前での私たちの苦悶にみちた無価値さといった無によってである。

  6、死は決してそれ自身の力をもった主権者ではなく、神がその被造物に相対して正しくありたまい、被造物が神に相対して正しくない場合にのみ支配する。神が人間と、人間が神と争う空虚な領域で死は支配する。したがって私たちは死の支配においても、神の支配と関わりをもたねばならない。
 私たちが終わってしまうところで、私たちを待っているのは、死ばかりではなく、神もまた待っておられる(740)。真に恐れるべき存在についても、死の中で死そのもではなく、むしろ死の中で神こそ恐れられるべきである。「そこのところで、私たちは死とだけ関わり合うのではなく、神とも関わりあうようになる」(740)。

  7、「イエス・キリストなしには、私たちは死の中で神の審判のしるしの中に立つばかりでなく、神の審判そのもののもとに立つことにもなろうし、救いようもなく、滅び失せることになろう」(748)。もし私たちの罪と咎がイエス・キリストの上に負わされなかったとしたら、私たちの罪咎はなおも私たちが負わされるであろうし、また《私たちの死の中で神に出会うとの慰め》は全くなくなってしまうことになるであろう。ただ《イエス・キリストにあってのみ、神は私たちの救助者、救済者でありたもう。なぜなら《イエス・キリストの死においてのみ、私たちの罪と咎からの無罪放免、また私たちの死からの解放が起きたからだ》」(748)。ただイエス・キリストにおいてのみ、死が身にこうむられるばかりでなく、また克服されたということが出来事として起こった。イエス・キリストにおいてのみ、死は私たちにとってすでに克服された敵として問題になってくることは真実である。イエス・キリストにおいてのみ、《神は私たちを限界づける死の限界》でありたもう。《イエス・キリストの中にのみ、私たちの希望、私たちの死の中でも、私たちの死の彼岸においても、私たちがもはや存在しなくなる時にも、すべてのことを期待することがゆるされるとの私たちの希望は基礎をおいている》。まことにイエス・キリストが、私たちの希望であり、私たちの未来であり、〔死にたいする〕私たちの勝利であり、私たちの復活であり、私たちの生命でありたもう。