建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

自然的・被造物としての死

2005-7(2005/5/22)

自然的・被造物としての死
 バルトは「イエス・キリストの死においてのみ、私たちの死からの解放が起きたのだ」(748)について、こう述べた、「《死からの救済》は、人間が死ぬことを免れて、死なない存在へと救われるということではありえない。むしろ〔実際に死んで滅びとしての〕死の中からの救済〔第二の死から自然的な死への解放〕を言っているのだ」(732)。
  バルトは、「罪の報酬としての死」(ロマ6:23)ーーすなわち「しかし戒めが来た時、罪は生き返り、私は死んだ」(同7:9)、「もしあなたがたが肉に従って生きるならば、あなたがたは死なねばならない」(同8:13)、「自分の肉に蒔く者は肉から滅びを刈り取るであろう」(ガラテヤ6:8)、「罪が熟して死を生み出す」(ヤコブ1:15)などを根拠にして、述べている、
 「《罪と死の関連》は『必然的、普遍的な関連であり、すべての人間』〔二重かっこバルト〕がこの関連の中で既に生きつつ死ぬのであって、彼が現に死の手に陥っており、死に向かって進みつつ、各人は当然値した『神の裁きのしるし』のもとに立っている。《死のことを自然的な現象として、あるいは親密な、少なくとも中立的に解釈されなければならない運命とみなすことは、ここでは著しく相違した〔非聖書的な〕見解であるばかりでなく、原則的に〔聖書とは〕無縁な見解でもある》(731。バルトはここでは自分が他の箇所で強調した人間の有限的な生命の終わり、自然的な死のポイントを度外視している)。
 旧約学者ヴォルフは述べている(「旧約聖書の人間像」第2部11章)生と死)、
 「老人がついに死んだという場合、罪と無常性〔罪の結果としての死と人間の被造物性としての死〕との関連はほどんと表面に出てこない。この場合旧約聖書が想起させるのは、人が十分生きたのちに死ぬことが『人間の被造物性』であるということだ。すでに(ヤハウイストの)創世記第2、3章の楽園物語の中でも、罪によりひき起こされた死と被造物としての死との間には《微妙な区別》がなされている。
 2:16、17『ヤハウエは人に命じて言われた。あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪の知恵の木からは食べてはならない。その木から食べるとあなたは死ぬであろう』。2:17は知恵の木に手を伸ばすことを死の刑罰によって脅している。ところが蛇との対話(3:15)や禁断の木の実を食べたことで(3:6)受けるはずのものとなったにもかかわらず、その死刑はついに執行されなかった。むしろ一転して労苦に満ちた人生を送るようにとの命令に変わったのである(3:17以下「ヤハウエは人に言われた、あなたは私が食べてはいけないと命じておいいた木から取って食べたから、あなたは一生の間労しつつそこから食物を獲ねばならない」)。けれども結局死は起こる。そしてその死ははっきり人間の創造を想起させる言葉で説明されている。
 19節後半「(「あなたあなたは顔に汗してパンを食べる)ついにあなたが畑の土に帰るまで。あなたはそこからとられたからである。あなたはちりだから、ちりにかえるのだ」について、ヴォルフはこう解釈している、この箇所では創世記2:7「ヤハウエは地の土くれから人を創造し、彼の鼻に生命の息を吹きこまれた。そこで人は生きた者となった」が厳密に引用され、しかも《2:17にある死刑の命令とは全く関連づけがなされていない》。3:22では《『永遠に生きる』のは神であって人間には許されない》とある。人間にはそれ〔永遠に生きること〕は越権や略奪によっても自分のものとすることはできない。ヤハウイストは人間がちりからつくられた《死すべき被造物である》とみなしたのだ。