建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

病人の希望(三)

1999講壇2(1999/10/31~1999/11/14)

病人の希望(三)
 彼女の次の行動「群衆の中で(交じって)」は、先のレビ記の箇所をふまえると、自分が交わりを締め出されている、人中に出た彼女の必死の大胆な行動である。
 「後からイエスの衣に触った」は、彼女の密かな思いを示唆する。まず「後から」はおずおずとしたためらいを、また長血の女が「他の人に接触すること」は、汚れを引き起こす(タブーを破るもの)敢然たるものであった。
 さらにこの「イエスの衣に触れる」は「イエスにさわること」で自分の病気が癒される(三:一〇)。病気の人がイエスの「上着のふさに触れさせて」ほしい願い、触った者はみな癒された(六:五六)などとあるように、二八節ーー彼女は「イエスの衣に触れるだけで自分の病気は癒されると信じた」のだ。
 古代における癒し奇跡では、癒しを行なう人と病人との間に神的力の働きが起こる、その起こり方について独特の考えがあった。《癒しを行なう人は病人に触ると、癒しの力がその接触をとおして高まり癒しの作用をする》。ルカ六:一九「群衆は皆イエスに触ろうとした。イエスから力が出てみんなの者を癒したからだ」。そこで病人は癒す人の存在(三:一〇)衣(マルコ三:一〇、ここ)、汗ふき(行伝一九:一一)「人々がパウロの汗拭きや前かけをとって病人にあてるとその病気は除かれ…」)などに触れることで、その神的癒しの力に触れ病が治ると考え、信じていた。
 三〇節でも「イエスは自分の中から力が出ていったのに気づかれて」とある。イエスにおける癒しの神的力(デュナミス)は、イエスの衣への女の接触をとおして、その女性の体に伝わり(二九節)、その女性の体に直接、癒しの作用した。ここでの「力」はマタイ一二:二八によれば、悪霊を追放する「み霊の力」であり、ルカ五:一七によれば「主の力がイエスに(臨んで)病気を治させた」(ジュールマンの訳)つまり「神の力」である。神の力は、イエスをとおして、イエスの存在、その体をとおして病める人々に働く。ここでは、イエスはこのような「主・神の力」を所有する方、神の力はこの方をとおして働く、そのようなお方である。
 二九節「たちまち、彼女の血の源がかれて、彼女は自分の病気から癒されたのを、体に感じた」。ここでの「病気・マスティゴス」は、病気の苦しみ、「宿痾」。
 三〇節「たちまち、イエスは、自分自身から力が出ていったのを身に感じられて、群衆の中で振り向き、云われた『私の衣に触ったのは誰か』」。
 二九、三〇節の「たちまち」は、原文でも文頭にあって、強調されている。また癒し奇跡の記事では当然のことながら、この女性が病が癒されたことを「体(ソーマ)に感じた」(二九節)とイエスご自身「彼自身・彼の体から力が出ていったことを体で感じられた」(三〇節)は、癒しが、イエスの体とこの女性の体との間に、神の癒しの力・ディナミスが作用し、それが女性の側では病が治ったことを「体で感じたこと」イエスの側ではご自分の力が出ていったことに「体で感じられたこと」として記されていて、印象的である。この「神の力」を衣に触った者には誰にでも作用する「魔術的なものと解釈する」のは、正しくないし、この箇所の内容からのはずれる。多くの人々がイエスに触ったのであるが(マルコ三:一〇)、信仰をもってイエスの衣に触ることだけが癒しの力を呼び起こしたと解釈すべきである。これは「奇跡と信仰」というテーマである。後述。神の国・神の支配の到来は、ここでは癒し奇跡、つまり人間の存在の身体性を包括する《体の救いに関わるもの》であることを示している。他方「体の救いのポイント」は、パウロにおいては、究極的希望であった。「私たちは体の贖い・救いを待ち望んでいる」ロマ八:二三。したがって、神の支配を「人間の魂の救い」の問題に限定することは誤りである。この女性においては、イエスによる癒しが「体で起り、体で体験された」点はその意味できわめて重要である。
 三四節「イエスは彼女に云われた『娘よ、あなたの信仰があなたを癒したのだ。さようなら、
平安あれ。あなたの病苦から解き放されて、達者でいなさい』」
 「娘よ」との呼び掛けは、彼女の三三節の説明や態度をふまえた、信頼の表現である。神に祝福された女性よ、のニュアンス。
 「信仰」という言葉は、冠詞がついていて絶対的用法で強調されている。何を信じているかは問題とされず「あなたの信仰」とだけ言われている。「あなたの信仰があなたを癒した」との言葉は、他にルカ一七:一九(一〇人のらい病人の癒し)など。ただ、イエスは病人を連れてきた人々の信仰(マルコ二:五)、自分の子の癒しのためにイエスに取りすがる母の切望・信仰(カナンの女、マタイ一五:二一以下など)、部下のための切願(マタイ八:五以下の百卒長など)も、このポイントに関わっている。
 「あなたの信仰があなたを癒した」をどのように解釈するかについて。第一に、この信仰は病気の癒し手である「イエスその人でなく、イエスの中に働く神の力に向けられている」(フラー「奇跡の解釈」)がある。これはうがった見方であるが、この女性の信仰「イエスの衣に触るだけで自分の病気は癒される」は、イエスの中に働く神の力ばかりでなく、イエスご自身にも向けられていた、と解したほうがよい。先述の、信仰をもってイエスの衣に触ることのみが、イエスの内にある神的癒しの力を呼び起こしたとの見解である(ぺシュの注解)。第二に。ここでの「信仰と癒し奇跡との関連」はこうなる、癒しの神的力は、一方的にイエスから出て行くのではない。また、イエスが単純にそうお望みになる時に作用するような働きでもない。むしろこの神的な癒しの力はイエスという存在とイエスの中にその力を求めて押し迫ってくる人々の間で出来事として起こるのであり、それゆえ、イエスの存在と人々のイエスへの信仰とがあいまって、相互関連の中で一つになるところで起こるのだ(モルトマン「イエス・キリストの道」)。長血の女性のイエスへの信仰が、イエスの中にある癒しの力を呼び起こしたのだ。
 第三に、ここでの信仰は、この女性のようにけして受け身的な態度ではなく、精力的に執拗にひたすらに神の助けをつかみとろうとする行動である。万策つきてもあきらめない態度である。(完)