建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの十字架と絶望(三)

1999講壇3 ( 1999/11/14~1999/12/26)

エスの十字架と絶望(三)

十字架上の叫び
 このへプル二・九の読み方は「カリス・テウー・神の恵みで」(「キリストは神の恵みで私たちすべてのために死を味わわれた」)とハルナックらの「コーリス・テウー・神から離れて・神に見捨てられて」(「キリストは、神に見捨てられて私たちすべてのために死を味わわれた」)の二つがあり、ミヘルのへブル書註解も二つの読み方を「並記」している。モルトマンはハルナックらの読み方を採用にしている。
 イエスの十字架におけるあの叫びは、周知のように詩篇二二:一にある言葉であるが、これをどう解釈するかが眼目となる。
 メシアであるイエスの苦難と十字架の死を《美しく気高い死》《その時点において贖罪の死であった》として理解することは(ルカ、ヨハネのように)それでかまわないが、いくつかの問題も起きてくる。
 第一に、「十字架のつまずき」(ガラテヤ五:一一)とは何を意味するのかが、わからなくなる。「十字架にっけられたキリストはユダヤ人にはつまずきである」(第一コリント一:二三)。パウロは十字架のイエスを「キリストは私たちの呪いとなりたもうた」と述べ「木に架けられた者はすべて神から呪われる」(申命記二一:二三)を引用した(ガラテヤ三:一三)
 さらに「呪いの死を意味する《木に架けられた死》」については「あなたがたが木に架けて殺したイエス」(行伝五:三〇、一〇:四〇「木」を協会訳にように「十字架」と意訳すると、十字架の「呪いの意味」は減殺される)、「キリストは木に架けられて私たちの罪を負われた」(第一ペテロ二:二四)などはみな「呪われたイエスの死」のイメージを表現しておりヘブル書もイエスの十字架が「神から見捨てられたもの」であることを強調する「イエスは《神から遠く離れて、神に見捨てられて》すべての人のために死を味わいたもうた」(へブル二:九)、「キリストの嘆願と懇願とは《聞き入れられなかった》」(へブル五:七)。「イエスは十字架を恥辱と思われないで耐え忍ばれた」(同一二:二、ここでは十字架は恥辱とされている)。
 このように十字架におけるイエスの死については、マルコ、マタイ以外の文書も、神から見捨てられた者の死と強力な表現をしており、これを無視することはゆるされない。
 第二に問題となるのは、イエスの美しい死《贖罪死》によっては弟子たちの逃亡、信仰の喪失、挫折は起こらないだろう、という点である。イエスの死に対する弟子たちのつまずき、絶望という現実は弱められたり、度外視されてはならない。イエスの苦難、捕縛、審問、十字架、死は現に弟子たちの絶望を引き起こした。
 第三に、イエスが絶望なさる、というのは冒涜だと考える人もいようが、絶望した信仰者には、イエスの絶望の叫びは、ぐいぐい惹きつける力をもっている。私たちの救い主は神に見捨てられ、絶望の叫びをあげて息絶えたお方なのである。
 第四に、贖罪死したお方の十字架がそれ自体で「完結・完成」した出来事となる(ヨハネ)とすれば、十字架と「復活の出来事」とのダイナミックな関連が弱くなってしまう。マルコ、マタイのイエスのあの叫びに対する神の回答がイエスの復活である。十字架の叫びという《未決の問い》と神の回答、復活とはもっと緊密に結合するはずである。それに「贖罪死した方の復活」は考えられない自己矛盾である(モルトマン)。
 イエスのあの叫びに神の前で絶望した者は真に共鳴する。この絶望の体験は「神の日蝕」(マルチン・ブーバー)、遠藤周作「沈黙」などのほかに、エリ・ヴィーゼル「夜」に見出すことができる。
 ヴィーゼルの「夜」は彼自身が一五才の時、アウシュヴィッツ強制収容所に入れられそこでの体験を三〇才過ぎに書きしるしたもの。
 収容所でユダヤ人の囚人の脱走があった。
 「親衛隊は懲罰としてユダヤ人の囚人を集合させて彼らの目の前で、つかまった二人の成人男子のユダヤ人と一人のユダヤ人少年を絞首刑にした。二人の成人男子はすぐに死んだが、少年のほうはすぐには死ねずに、痙攣が半時間ほど続いた。『神はどこにおられるのか』と私の後の者が問うた。かなりの時間がたっても、少年は絞首の縄で苦しんでいたが、その時私は再びかの者が叫ぶのを聞いた。『神は今どこにおられるのか』。そして私は一つの声が私の中で答えるのを聞いた。『神はどこにおられるかだって?神はここにおられる。神は絞首台のあそこにつるされておられる』」。ヴィーゼルによれば、アウシュヴィッツにおいても神は存在したもうた、絞首台でつるされた姿において。
 しかしこの絶望は、人間一般の絶望の形ではなく、神信仰をもつ者の絶望の形である。イエスの十字架の死についても「イエスの死は弟子たちの希望や期待を証明するものではなく、むしろ弟子たちを失望させ全くだめにしてしまった。メシアや救い主が苦悩したり死んだりすることは、旧約聖書ユダヤ教においては先例がなかった」(W・シュラーゲ「新約聖書におけるイエス・キリストの死の理解」)。

エスの十字架上の叫びの解釈
 第一に、イエスのあの叫びを絶望そのものとの解釈がある。
 「キリストは、二つの重要な問題、二つとも反抗の問題なのであるが、悪と死の問題を解決するために来られた。彼の解決は二つの問題を自ら引き受けることにあった。神人もまた苦しみを受け、それを忍ばれた。悪も死と同様に完全には彼にその責めを帰すことができない。なぜなら彼もまた引き裂かれて死んだからである。
 ゴルゴダの夜はまさしくそのことのために人間の歴史に多くの意味をもっている。なぜならその暗闇の中で彼は従来の持っていた特権を放棄して、その終りまですべての絶望に取り囲まかれて死の不安を体験されたからである。これが『ラマ、サバクタニ(どうして私を見捨てられたのですか)』と苦悶におけるぞっとするような絶望の説明である。もしキリストが永遠の希望に支えられていたとしたら、苦悶はずっと軽かったにちがいない。神が人間になるためには彼は絶望しなければならなかったのだ」(カミュ「反抗的人間」佐藤朔訳)。
 カミユは、イエスの味わった「終りに到るまですべての絶望に取り囲まれて死の不安を体験された」点、「ゴルゴダの夜」が人間の歴史にとってもつ多くの意味を把握したが、十字架のイエスのあの叫びを「ぞっとする絶望」の表現とのみ理解し、それのもつ「神学的次元」(さしあたり神に見捨てられたとの解釈)には考えが及ばなかったようだ。
 第二は、イエスの叫びを「絶望と祈りとの逆説」としてみる解釈。これはイエスが単純に「絶望して死んだ」との解釈ではなく、むしろ「絶望しながらも神に身を委ねた」「絶望しながら神に祈った」との逆説的解釈である。
 「この世の主、救い主は、とりもなおさず十字架で処刑され神に見捨てられたかたである」「十字架でのイエスの最後の言葉は、信仰的な信仰者の表現として理解することはできない。…神が姿を隠されたこと、イエスが神から見捨てられたことの謎は、《わが神、わが神》とのはっきりした言葉によって解けはじめたのではなく、むしろますます逆説が深くなっている。十字架でのイエスのあの言葉は単なる絶望、あるいは全く無意味なものであったのではない。というのはイエスは絶望にではなく、神の腕に身を投じていたからである。しかもまさに絶望しつつ神の腕に身を投ぜざるをえなかった」(シュラーゲ、前掲論文)。
 イエスの叫び「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」は、むろん人間的絶望一般を表現したものではなく、神を信じる者の絶望、神に見捨てられたことへの嘆きを表現している(ローマイヤーのマルコ伝註解)
 「この言葉は底の知れない絶望について語っている。そしてまさしく神に語りかけたものでもある。死の瞬間には砕くことのできないこの支えも砕け、神によるこの世も空しいものとなる。しかしこの絶望の叫びは同時に詩篇の言葉にある《わが神》への祈りでもある。この絶望の表明と祈りという二つは、さらに別のモチーフを開示している。神への近かさ、いわば神を所有することが、このように深い絶望の言葉によって表現されたことは、これまで一度もなかった」(ローマイヤー)。ローマイヤーはイエスのこの叫びを「絶望と祈りとのアンヴィバレンツ・逆説的共存」として把握した。
 アウシュヴィッツにおいてエリ・ヴィーゼルが味わった「夜」のような体験、あるいはすべての絶望体験も自分の神に見捨てられた体験もイエスの叫びの中に自分たちの絶望体験が吸収されるように感じられて、それによってカタルシス(浄化作用)を味わう。それは実質的に絶望の癒しである。続