建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの十字架と絶望(四)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26) 

十字架上の叫び
 それゆえ十字架のイエスの叫びのもつ「絶望、神に見捨てられること」要素は決して除去されても薄められてもならない。
 第三に、イエスの叫びを父なる神と御子・子なる神との壮絶なやりとりとみる解釈。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」の解釈としてモルトマンはこう述べている「この言葉によってイエスの神についての宣教全体が賭けられている。それゆえイエスが神に見捨てられたことをもって、結局、イエスが人間に近づけたところの、イエスの神の神性とイエスの父の父性とが賭けられている…」。
 したがってこの言葉は父なる神への子なる神による渾身の問い「あなたはどうして《あなた》をお見捨てになったのですか」となる(モルトマン「十字架につけられた神」)。父なる神はなにゆえ子なる神を見捨てられるか、結局この問いが答のないままにおかれる、これがマタイ伝の十字架の表現である。その答はイエスの復活をとおして出される。十字架は復活の光を当てなければ解明できない出来事である。

女性の弟子たち
 イエスの十字架においても、マグダラのマリアはその場に居合わせている。男性の弟子たちと違;って、彼女らは絶望しなかったからである。
 「そこ(イエスが十字架に架けられた場所)には《遠くのほうから見ている》多くの女たちがいた。彼らは《イエスに仕えてガリラヤから随順してきた》人たちであった。その中にはマグダラのマリアヤコブとヨセフの母マリア、またゼベタイの子たちの母がいた」(マタイ二七:五五以下)。
 この箇所について、荒井献「新約聖書の女性観」は、マグダラのマリアたちがイエスの十字架を「遠くのほうから見ていた」との表現が「何らかの意味でイエスに対する女性たちの距離を示唆しようとしている。そこにマルコ伝(やマタイ伝)の女性批判をみてとれる」と述べている。その理由として荒井氏は二つあげて、第一に、この「遠くのほうから」との表現は詩篇三八:一一「わが友、わがはらからはわが災いを見て離れ、わが親族もまた《遠くから》離れて立つ」を引き合いに出し、災いに出会った人に「遠くから離れて立つ」のは、相手に対して距離を置く冷たい態度だ。また捕縛されたイエスの後を「遠くのほうからついていった」ペテロの行動にも「自分が捕らえられることを恐れた行動を表現している」(マタイ二六:五八)と荒井氏いう。           ’
 しかし、マグダラのマリアら女性たちの行動をそんなにも突き放して解釈することはないと私たちは考える。マルコ一五:四〇、四一には「また遠くのほから眺めていた女たちがいた。そのうちには、マグダラのマリアヤコブとヨセの母マリア、およびサロメもいた。この三人は《イエスがまだガリラヤにおられた時、随順し仕えていた》人たちである」。この箇所ではマリアたちのイエスへの随順と奉仕とは「ガリラヤにおられた時」つまりすでに過去のことであって、かつイエスに対するマリアらの行動は「随順」よりも「奉仕」が強調されている(ローマイヤーの註解)。
 他方先に引用したマタイ伝の記事では特に「女たちはイエスに仕え(ガリラヤから随順してきた)」(マタイ二七:五五以下)が強調され、マリアらの随順がガリラヤからエルサレムにまで至り、さらに今やその町の外にあるゴルゴタの十字架にまで継続された、つまりイエスへの服従、随順の一貫性が強調されている(ローマイヤーの註解)。
 用語的にはマリアらが「遠くのほうから眺める・見る=テオーレオー」、あるいは「墓を見にきた」(マタイニ八:一)においてはマリアの「熱い胸のうち」を表現している。すなわちこの「テオーレー・見る」は対象を傍観者的客観的に突き放して見るのでなく、主体的体験的な知覚、体験的に見ることを意味する(他にヨハネ二〇:一四八「マリアは後を振り向くとそこにイエスが立っておられるのを見た」)。
 マタイ伝ではこの用語はイエスの墓と十字架を「見る」にしか用いていないので、墓詣ででの場合と同様に《十字架を見るマリアらの熱い胸のうち》を表している、したがって十字架から遠いか近いかは問題ではない、と解釈できる。
 さらに「教会は十字架についてマグダラのマリアたちの証言以外には、第一級のキリスト教の証言を持つていない」(カンペンハウゼン「空虚な墓」)。「女たちは十字架に至るまで従っていった。女たちはイエスの後に服従し続ける勇気を持っていた。女たちが《遠くのほうから見ていた》点は彼女らの服従を傷つけるものではない。むしろ女たちは十字架の目撃証人として召されたのだ」(グニルカのマタイ伝註解)。十字架の場面に《なぜべテロら男性の弟子たちが居合わせなかったのか》は、それ自体大きなポイントである。解釈としては、弟子ガリラヤ逃亡説が有力である、ハンス・グラース、モルトマンなど。男性の弟子たちは、イエスの審問以後、故郷のガリラヤに逃亡してしまってエルサレムにはすでにいなかったとの解釈である。

エスの埋葬と墓
 「アリマタヤのヨセフは(イエスの)亡骸を受け取り、清らかな亜麻布で包み、岩に掘らせた自分の新しい墓にそれを納め、墓の入り口に大きな石をころがしておいて立ち去った。マグダラのマリアともうひとりのマリアはそこに残って、墓のほうを向いて座っていた」(マタイ二七:五九~六一)。マグダラのマリアらが「墓に向ってすわる」とは、イエスの死を悲しむ行為である(エゼキエル八:一四)。アリマタヤのヨセフは最高法院の議員の一人で、密かにイエスの弟子となった人であるが(マルコ一五:四三、ヨハネ一九:三八)、彼はエルサレムの郊外に庭園つきの地所を持つ地主。彼はイエスの死と遺体の下げ渡し埋葬の中で「絶望的動揺」を味わって墓から立ち去ってしまった。
 これに対して、マグダラのマリアらはそこに留まって「悲しみと実現のきざしさえない期待を抱き続けていた」(ローマイヤーの註解)。この期待は彼女らの墓詣でにおいて見出せる。
 「安息日の後、週の初めの日暗い時、マグダヤのマリアともう一人のマリアとが墓を見にいった」(マタイニ八:一)。安息日ユダヤ教においては金曜日の夕方から土曜日の夕方まで。マルコ一六章、ルカ二四章などでは、マリアらが墓に行く理由は「イエスの亡骸に油を塗る」ためとなっているが、死後三日目の塗油は不自然に思われるためか、マタイ伝ではマリアらは夜の暗いうちに「墓を見に行った」とある。金曜日の埋葬の時点と同様に、マリアらは暗いうちに墓のところに座って、亡きイエスのために泣きたいと欲したからである。この行為を安息日の戒めは禁じていた。「マグダラのマリアらがなおイエスに身体的近さを感じている間は彼女らは揺るぐことない真実と耐えぬく力を持っていた。死に瀕し死んだ体(L」eib)、埋葬し香油を塗った体が彼女らをイエスと結びつけている」(モルトマン・ヴェンデル「イエスを巡る女性たち」)。
 空虚な墓の物語(マタイニ八:二以下)において、み使いはマリアらに言った「あなたがたが十字架につけられたイエスを探していることを私は知つている」(二八:六)。これはマリアらが墓を見に行くことは、親しみのある師イエスをなおも探すことであって「十字架と死は決してイエスの終りではないとの予感」が働いていたからである(ローマイヤー)。マリアのイエスの体への執着、固着をマタイ伝はひときわ強調している点は確かだ。
 「空虚な墓」の物語は、死後三日めにマリアらが墓に行ってみると、埋葬された墓にイエスの亡骸がなかったとの物語である。イエスの亡骸の消失の理由についは、当時ユダヤ教からの反論が二つほどあった。ユダヤ教も「墓が空であった事実」は認めている、しかし「空である理由・解釈」はめちゃくちゃである。
 ユダヤ教の解釈の一つはイエスの弟子たちが夜中イエスの亡骸を盗んでどこかに移動したとの説(マタイニ八:一一以下)、もう一つは、墓のあった園の園丁がイエスの墓詣でをする人々が自分の作っているレタスを踏み荒らすのでその園丁が密かにイエスの亡骸を移動したとの説(ヨハネ二〇:一一以下)。
  宗教の問題をすべて合理主義で解釈しようとする、宗教をあまり深く理解していない人々はこのユダヤ教の「解釈・歪曲」で満足してしまうであろう。
 原始キリスト教はこのような解釈に対して反駁した。それがみ使いの説明であり、空虚な墓の記事に共通しているのは、神のみ使いが登場して墓が空虚であること、イエスの亡骸がない理由を説明している点である。「イエスはここにおられない。かねがね言われていたように、イエスは復活させられたからである」。続