建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

イエスの十字架と絶望(七)

1999講壇3(1999/11/14~1999/12/26)

エスの十字架と絶望(七)
ピラトの審問

 もし私の国(支配)がこの世のものであったら捕縛の時にも、私をユダヤ人に渡さないために私の手下がこの世的な手段・武器をもって反抗したはずである(ヨハネ一八:三六)。結局ピラトはイエスを告発したユダヤ人に向って告げた「あの人には何の罪も認められない」(同一八:三八)。ピラトにはイエスがローマに対する反乱指導者にはみえなかった、むしろ「政治的には危険のない人物」に映ったようだ(プリンツラー)。
 ルカ伝は「この人には何の罪も認められない」(ルカニ一:四、一四、二三)と(三度)述べている。コンツェルマンはいう「ローマの代表者ピラトは三度イエスの無罪を確認している。ピラトはイエスへの判決を拒否している」「イエスはローマの裁判官ピラトの判決によって死ぬのではなく、ユダヤ人によって死ぬのだ。ピラトはイエスを彼らの手に『委ねた』(ルカ二三:二五)」(「時の中心」)。しかし「ピラトのイエスへの判決拒否」は、ルカ伝のみならず、全福音書共通である。ローマ帝国の裁判官ピラトからイエスの死刑判決の責任を免れさせようとの《護教的動機》についていえばマタイ二七:二四「ピラトは群衆の前で手を洗って言った『この人の血(死)について私には責任がない。おまえたちの問題だ』」などにも強く働いていよう。
 確かにピラトの審問記事においてはピラトが一見「公正な裁判官」に映るが、これはピラトの実像とは違うようだ。
 ピラトが総督(任期後二六~三六年)としてユダヤ人を弾圧した事実がある。第一に、ユダヤ総督に就任直後、従来駐留のローマの軍隊はエルサレム入城の時、軍旗や皇帝の像の徴章を所持するのをひかえていた。ユダヤ人の(偶像崇拝禁止の)宗教的な感情に配慮したためである。ところがピラトは、部下の軍隊を軍旗携帯のままエルサレムに入城させた。エルサレムユダヤ人らはカイザリアの総督邸に軍旗撤去の要請に行き、要請が拒絶されると抗議のため官邸の前に五日間立ち続けた。ピラトはユダヤ人らを競馬場に集めて部下の兵士に棍棒で段らせたが、彼らは死を覚悟して屈伏しなかった。ビラトは譲歩して軍旗を撤去させた(プリンツラー「イエスの裁判」)。第二に、後にピラトはへロデの宮殿に皇帝の名がしるされた叙任の盾を展示させた。大王の息子らユダヤ人の上層階級の人々はピラトに撤去を要請したが、ピラトがそれを拒否したため、彼らはティベリウス皇帝に提訴した。皇帝はその盾の撤去を命じた。第三に、「ちょうどその時、人がきて、総督ピラトが(神殿で)犠牲をささげているガリラヤ人たちを殺し、その血が彼らの犠牲の血に混じったとイエスに報告した」(ルカ一三:一、この箇所はルカのみがしるしたもので護教論はいささかも認められない)。これは生前のイエスが実際耳にされたピラトの残虐行為である。第四に、後三六年あるサマリア人の偽予言者が現われて、集まった人々にゲリジム山の山頂でかつてモーセが埋めた聖なる器物を見せようと告げた。それに応えて武装したサマリヤ人の大群衆がゲリジム山のふもとに集結した。ピラトは即座に部隊を派遣して彼らを襲撃させた。サマリア人の群衆の多くが殺され、捕らえられた者たちは処刑された。この事件はシリア州総督に提訴され、シリアの総督(ユダヤ総督より格が上)はピラトをローマに召喚させた。ピラトは総督を罷免された(後三六年)。
 これらの事実によってもピラトの、残虐で反ユダヤ人主義的な姿勢は明らかだ。ピラトには「政治的には危険ではないとみなした」イエスに公正な判決をしようとの動機よりも、ユダヤ人の代表であるサンヘドリンの企てはすべてつぶしてやろうとの《反ユダヤ的対抗意識》がこのイエス審問に働いていたと考えられる。ピラトはサンヘドリンらにいった「過越の祭の時に、私が一人(の囚人)を釈放してやるのがおまえたちの慣例になっている。この慣例によって、おまえたちはあのユダヤ人の王を赦してほしいか」(ヨハネ一八:三九)。反乱指導者としてサンヘドリンに告発されたイエスの存在が危険でないから、ピラトは釈放しようとしたのではない、むしろ反ユダヤ人的意識からイエスを釈放しようとピラトは試みたのだ。
 他方サンヘドリンとユダヤの群衆もピラトに対する反撃に出た。
 「彼らはまた叫んだ『その人ではない、あのバラバを(赦してほしい)』。このバラバは強盗であった」(同一八:四〇)。「ピラトはイエスを赦そうと思ったが、ユダヤ人は叫んだ『この人を赦すなら、あなたはカイザルの友ではない。自分を王とする者は誰であろうと、カイザルに反逆する者だ』」(同一九:一二)。
 ピラトはこの言葉におびえたであろう。ユダヤの先の領主(大王の長男)アケラオはユダヤ人指導者らの皇帝への提訴で失脚して流刑になっていたし(後六年)、自分も彼らに皇帝に提訴された経験があるからだ。サンヘドリンはカイザルに密告するとピラトを《脅迫したのだ》(プリンツラー)。ピラトは最大限の皮肉をこめてユダヤ人らに問いかけた「おまえたちの王を私が十字架につけてよいのか」(同一九:一五)。これに対してユダヤ人・サンヘドリンも「神聖冒瀆の言葉」を発した「私たちにはカイザルのほかに王はいません」(同一九:一六)。この発言が「神聖冒瀆」となるのは「イスラエルの真の王は神以外にはいない」(エレミア一〇:七)ことをサンヘドリンが否定してローマ皇帝を自分たちの唯一の王としたからだ。ピラトはサンヘドリンの脅迫に屈した。イエスを釈放して、皇帝の敵対者として告訴されるよりも、自分の地位の安泰を選んだのだ。
 「ピラトは十字架につけるためにイエスを彼らに引き渡した」(同一九:一六)。ピラトによる「死刑判決の宣告」は明記されていないがこの「引き渡し」が「死刑判決」の言い換えと解釈されている。ピラトは決してサンヘドリンの出した、瀆神罪によるイエスへの死刑判決を《追認して死刑執行命令を出したのではない》むしろ総督として自らイエスを審問してローマの法に照らして「反乱指導者」としてイエスに死刑判決をくだしたのだ。
 「イエスはピラトによって政治的な反逆者、つまり熱心党員として有罪判決を受けた」とクルマンはいう(「イエスと当時の革命家」)。それに処刑場ゴルゴタに建てられたイエスの「罪状書き」にある「ユダヤ人の王」(同一九:一九、全福音書)はイエスが反乱指導者として処刑されたことを物語っている。この罪状書きにも「自分を王とする者は誰でもカイザルに反逆する者である」(ヨハネ一九:一二)が響いている。また「十字架刑」自体は、ローマの逃亡奴隷・反乱奴隷(スパルタクスの乱)、ローマ帝国への反逆罪の者、その煽動者に課せられた極刑であった(プリンツラー)。さらにイエスと共に十字架にっけられた二人の「強盗・レシテース」(マルコ一五:二七、ヨハネ一八:四〇)は「おそらく解放闘争の聞士で、熱心党的な徒党のメンバー」であり、強盗という刑法の犯罪者ではなく、政治的な犯罪者であった(シュナッケンブルク、クルマン)。そのような政治囚と共に処刑されたということは、イエスもまた政治囚、ローマへの反逆者として処刑されたことを意味する。
 ブルトマンは「イエスの処刑をイエスの業の内的に必然的な帰結として理解することはほどんとできない。むしろその処刑は《イエスの活動を政治的なものと誤解したこと》に基づいて起こったのである」とみたという(モルトマン「十字架につけられた神」の引用から)。この「誤解との解釈」に立つと、十字架刑と「イエスの宣教と業」(癒しと罪人らとの交流のふるまい)との内的な関連は断たれてしまう。
 モルトマン自身はこう解釈している
 「イエスのメシア要求は、明らかに政治的にみればきわめて危険なものであった。イエスの罪状書き(ユダヤ人の王)は政治的な犯罪を明記している。イエスのメシア要求は、ローマの支配に直接抵触するような犯罪であった。つまりそのメシア要求はローマの法廷によって処断されねばならない謀反を意味していた。ユリウス法典によれば、王たろうとする要求は反乱の原因となる限り、死罪に値すると宣告された」(前掲書)。このイエスの死・処刑のもつ政治的な文脈はけして無視されたり、否定されてはならない。
 他方サンヘドリンがイエスを十字架刑にしようと執拗にこだわったのは、旧約聖書ユダヤ教からみて「木に架けられた者は神に呪われた者である」(申命二一:二一:、ガラ三:一三)に依拠して、イエスの死を《瀆神者として神に呪われて処刑されたもの》としたかったからである。このポイントを見落とすことはゆるされない。

この項完