建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

囚われ人の希望(7) 現在と将来

2000講壇6(2000/12/3~2001/6/17)

囚われ人の希望(7) 現在と将来
 捕虜においては、自分たちがいつ解放されるか不確定でわかっていなかった。
 ゴルヴィッツアーは述べている 「奴隷の無関心さは、囚われ人の実存が(終末論的)であること(キリストの来臨とか特別の将来に規定されること)と関連している。囚人の実存は、私の体験では原始教会の再臨待望で語られた、キリスト者の実存と途方もなく似たものとなった。囚われ人は自分の人生に何らかの待望なくしては待つことをしない。彼は決して希望のない隷属状態にあったのではなく、実に多くの期待をしていた。肉となった待望であった。しかも彼はすべてを現在からではなく、将来から期待していた。ある定められた将来、聖書的に言うと『主の日』、その日によってのみ現在の生活が甲斐があるものとなり、その日からのみ現在の生活が意味を得るそのような『日』から、すべてを期待した(それゆえ収容所では自殺は驚くほど珍しかった)。『その日』の話をすること彼の顔つきは輝き、その日のクライマックス、わが家の出迎えの時を何千回も、寝入る時も働いている時も詳細に心に描いたのだ。どの語らいもいつ人に会っても、『何か新しいことはないか、誰それがこう言ったのを聞いたか』というふうに、つきることのない問題は『この日』のことだった。ここでわかるのは、聖書の表現『ある遠い日を喜ぶ』(へブル一一:一三) のもつ意味である。というのは『その日』は喜びと生命とみなされたからである。…喜びに欠けていることはある程度現在を特徴づけていた。市民生活ではほどんとわからいことだが。自由な生活ではたとえどんなに生活が打ち沈んだものであろうと、生活を刺激するささやかな喜びに絶えず出会える。楽しい夕べ、画報、おいしい食事、ちょっとしたプレゼント、散歩、お祝い、抱擁、日常のささやかなプレゼント、それがない者はほどんといないし、自明のものとしてそれを受け取っている。…このようなことすべてが、心にたえず活動と、いつも新しい生気を与え驚きの震動をもたらすのだが、囚われの生活においてはこの心の活動と震動は全くではないにしても、ほどんと欠落していて、わずかなことに喜ぶ能力が多くの人の場合、全く死滅していた。現在は価値のないものになっていた。時間に対する囚われ人の終末論的な関係は、塗りつぶされるという点でしか現在に価値を与えなかった。『また一日減ったぞ』と寝る前にうれしそうにため息をついた』」
 ゴルヴィッツァーの体験記を読んでいると、「将来の帰郷にしか希望をいだかない囚われ人が囚われの身にある《現在という時に何の意味も見出さない》)という点に興味をもった。そしてドイツの哲学者ボルノーの主張した「期待と希望との違い」を思い出した。ボルノーは「期待」においては、人は自分の期待している出来事、例えば釈放や帰郷に対して強く緊張する。それで現在はこの出来事と比べて価値のないものに見える。すなわち期待においてはその人の心はいまだ到来していない終極にのみ向けられていて、他のすべてへの関心は遮断されて全く眼前に存在しない。ここでは将来は自分であらかじめ下図を描いたもので、いわば結末への経過は機械的な進展をたどる。これをボルノーは、「閉じられた時間」と呼ぶ。ここでは現在は、それ自体では意味がなくあくまでも期待の実現によってはじめて意味をもつに至る。現在は待つ時でしかない。ゴルヴィッツァーのいう「また一日減ったぞ」である。
 これに対して、希望においては、人は自分の希望している出来事に対していわば《ゆるめられている》(マルセルも、希望をゆるみと関連づけた)。期待においては、人は期待している事柄に自分から向って行くが、希望においては、人は自分の希望している事柄が自分のほうにやってくるのにまかせる。それゆえ希望においては、人は自分を将来に対して自分を開いている。ここでは現在は「開かれた時間」としてさまざまな可能性をもった、意味のある時となる。「希望は自分の現在に対する信頼の表現であり、かつ《自分が担われていること》に対する感謝の念と結びついている」。期待が熱狂的なものとして辛抱できないこともあるが、希望は辛抱強く、忍耐強い。期待においては、現在はむなしい時であるが、希望においては、現在の時に、安らいでいること、落ち着いて暮らすことができる(ボルノー「新しい庇護性」一九六九)。