建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(七) 第二イザヤにおける希望-3

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(七) 第二イザヤにおける希望-3

新しい出エジプト
 第二イザヤは、「先のこと-新しいこと」の対比を先の国際政治的な文脈ばかりでなく、救済史の文脈でも語っている。この文脈では「先のこと」は、クロスのリュデア征服ではなく、かつての「出エジプト」、荒野の放浪という神の解放の出来事を指している。他方「新しいこと」は(捕囚からの解放と故国への帰還)を意味している。この解放を実現するのはクロスではなく、ヤハウエである。「真の救済の出来事は捕囚の人々の脱出と帰還であり、その民に同伴なさるヤハウエご自身の到来である」(ラート)。
 「新しい出エジプト」については次のように語られている、
 「ヤハウエはこう言われた、
  《先のこと》を思い出してはならない。
  《いにしえのこと》を心にかけてはならない。
  見よ、私は《新しいこと》をなす」(四三:一八~一九)。
 「《先のこと》を私はずっと以前に告げた。
  それを私の口から出して知らせた。
  私はそれをにわかに、それを実現した(四八:三)。
  今や《新しいこと》を、私はあなたに知らせよう。
  あなたがまだ知らない隱されたことを。
  今それは成る。以前からではない」(四八:六~七)。
 ここでは「先のこと」すなわち「出エジプト」という解放の事件が想起されて、その出来事が神による「予告一実現の形」をとったとされて、かつイスラエルはその救いの体験者、証人であるという(四四:八)。そして過去の救いの出来事「古い出エジプト」の生起の仕方が踏襲されて、今や「新しい出エジプト」が告げられる。それゆえ古い出エジプトは「新しいこと」すなわちバビロン捕囚からの解放(四五:一三「わが捕囚におる民の解放」)「新しい出エジプト」にとって「予型」となる。捕囚という現在の苦しい状況にこの「予型」という考えの導入されると、捕囚は古い出エジプトの出来事と同じ生起の仕方「予告一実現」に組み込まれ、捕囚の直中で「新しいこと」捕囚からの解放が「予告」されると、この「予告」は「予告一実現の形」を踏襲するのであるから、その解放の出来事が《近いうち必ず起こる》との、解放へのときめきをますます增幅させるものとなる。
 第二イザヤは、捕囚からの解放の出来事が、三つの点で「出エジプト」よりまさっているとみている。
 第一に、かつて「出エジプト」では人々は(急いで)脱出しなければならなかったが(出エジ一二:一一)、これに対して捕囚からの解放ではその必要はない。
 「あなたがたは急いで出るにはおよばない。
  逃げ去ることもない。
  ヤハウエはあなたがたに先立ち、
  イスラエルの神はあなたがたのしんがり(一番うしろの者)と
  なられるからだ」(五二:一二)。
 第二の、まさる点は、かつての「荒野の放浪」においては、水や食物の不足が深刻な問題となったが、ここではそのような苦労はない。
 「彼らは飢えることも、渇くこともない。…彼らを憐れむ方が
  彼らに伴い、彼らを泉のほとりに導かれるからだ」(四九:一)。
 第三の、まさっている点。かつての出エジプトでは、追撃してきたエジプトのパロの軍勢は紅海に沈んで滅ぼされ、これを見たモーセイスラエルの民は「勝利の歌」を歌った(出エジ一五章)。この解放事件においては「ヤハウエご自身の帰還」として高らかに「喜びの声」があがる。
 「天よ、歌え。地よ、歓呼せよ。山々よ、喜びをもって歌え。
  ヤハウエはその民を慰め、その苦しみを憐れまれたからだ」(四九:一三)
 「平和を告げ、よきおとずれをもたらし、救いを告げ、
  シオンに向かって、あなたの神は王となられた、と語る
  《喜びの使者》の足は、
  山々の上にあって何んと美しいことか。
  聞け、あなたの見張り人は、声をあげて共に歓呼している。
  彼らは目と目をあわせて、ヤハウエの帰還を見るからだ。
  エルサレムの廃墟よ、声を放って共に歓喜せよ。
  ヤハウエはその民を憐れみ、エルサレムを贖われたからだ」(五二:七~一〇)。
 ここにある「喜びの使者」は神の救いの接近を告げる希望の使者でもある。
 他の箇所では「希望」という用語はこう用いられている。
 「島々(海沿いの国々の人々)は、私を《待ち望み・キーヴァー》、
  わが腕を《待つ・イッヘール》」(五一:四)
 ここでは希望の根拠は、ヤハウエの救いの行為である。
  「こうしてあなたは知るであろう、私がヤハウエであり、
   私を《待ち望む者》は恥を受けないことを」(四九:二三)。
  「ヤハウエを《待ち望む者》は力を得、驚のように翼をはる。
   走ってもうまず、歩むとも疲れない」(四〇:三一)。
 このように、第二イザヤは希望を、この世において与えられている「原理」(マルクス主義?)とか、人間実存の「実存論的なもの」(ハイデッガー?)とかではなく、使者(預言者)をとおして神から発せられる言葉で告知される「神の行為に依拠して生きること」としてのみ理解している。