建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー3

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー3

 ヴェスタマンは希望と死の接触を強調する、「『希望と幸せは私と共に陰府に下っていくのだろうか。あるいは私たちは共に塵に向って降りていくのだろうか』(ストイエルナーゲル訳)。この一六節をとおしてヨブの希望の対象はひときわ強調されている。…希望は人間の死の運命に関与するものとして。希望はまさしく端的な人間存在に属しているため、人間の死への道にも結びつけられるのである。人間存在の限界はここでは、希望が《死の彼方にまで及ぶものではない》という途方もない仕方で表現されている。私は希望を墓の中に携えていくのだ」(前掲論文)。
 このようにヴェスタマンは希望を人間存在の運命共同体として把握し、明らかに死後の世界には成立しないものとみなしている。
 他方この箇所をヨブが希望について「肯定的に語ったもの」とみることができる。その場合、一つは一六節後半(口語訳では「われわれは共に塵に下るであろうか」)の訳が問題となる。ポイントは「ナハト(ノーアハ)」(安息、休息の意味)を「ネーハト」(「われらは下る」)に読み変えること(浅野順一、註解。関根正雄、註解。ゲゼニウスのレキシコンは「ナハト」を死における安息の意味で一六節後半をあげている)。原文を素直に読むとこうなるーー浅野訳「その時ともに塵の上にて休息あらん」。関根訳「もし塵の上にともに安息があるならば」。このような翻訳に基づいて、関根正雄のみがこの箇所を、希望についての肯定的な言及とみる。
 「一四:一三以下ですでに陰府を新たに恵みの場所として述べたヨブは、ここで違った角度から陰府に再び望みを託していると解したいのである。…ここでヨブは陰府を自分の住みかと定め、暗闇に安んじ、陰府を父と呼び、うじをも母や姉妹として親しむ時、ほんとうの光が与えられるという。ルターのいう《地獄への放棄》がここに語られているのである。自分を最も低い所におき、そこに安息を見い出すことを言っているのだと思われる」(註解)。

第五の弁論
 「しかし私は知る、《私のゴーエール・わが義を守る者》は生きておられる。
  最後の方として彼は地の上に立たれるであろう。
  私の皮がこのようにしてはがされたのち、
  私の体なしに私は神を見るであろう。
  私は自分で彼を見るであろう
  けして見知らぬ存在としてではなく
  私の目は彼を見るであろう」(一九:二五~二七 シュトラウス訳)
 ここでは、希望という用語は出てきてないがこの箇所はすでに言及した一六:一八以下の「血の叫び、わが証人」とも、また一七:一三以下の、陰府へのヨブの希望とも関連している。ここでヨブはすでに自分が死んだ者であるかのように語っている。ヨブがここで問題としているのは、ヨブの苦難の意味などではなく、すでに失われたとみえる彼の義認そのものである(フォン・ラート)。言い換えれば、眼目は神の前でのヨブの義、ヨブの生きる権利、失われたと思われるヨブの権利回復である。そしてその権利は神をとおしてしか確かなものとはならないし、神をとおしてしか実現しないのだ。
 ヨブは今、イスラエルの法的な伝統における不正によって殺された死者になり代わって殺人者の死をもって復警することをとおして、死者の死を贖い、死者の権利回復をする「血の復讐者・ゴーエール」という見解(民数三五:一九)に依拠して発言する。ゴーエールはこの他、死去した者の近親者が死者の財産を回復し、死者の妻と結婚してその家を再興する者の意味。ルツをめとったボアズはゴーエールであった(ルツ四:四以下)。
 「ゴーエール」の翻訳は、ウルガタ・ラテン語訳が「贖う者。redemptor」、ルター訳「贖う者・Erloeser」、ベルトーレット、デューム「血の復警者」、ワイザー「解放者」、チューリッヒ訳聖書「弁護者」、英訳「贖う者・Redeemer」、浅野訳・関根訳・協会訳「贖い主」など。
 マルクス主義哲学者エルンスト・ブロッホは「ゴーエール」のもつ本来の意味、殺害された者の権利回復をなす者、すなわち「血の復讐者」の意味合いを欠落させたラテン語訳、ルター訳などの「贖う者」という訳語に強く反対してしている。そしてブロッホ自身はこう翻訳している「私は知る、私の《復讐者》は生きており、最後の者として塵の上に出現するであろう」(二五節)(「キリスト教の中の無神論」竹内・高尾訳)。私たちは、ストラウス訳の「わが義を守る者」はなかなか適訳で、失われ奪われたヨブの義を回復の意味合いをこめて「わが義を回復する者」との訳語がよいと考える。 ブロッホは、また地上で奪われたその者の義・正義の回復、その者の奪われた生命の回復についても語っている。「不死性への衝動は、長命や地上での安らかな生活への古い願望から来たのではなく、むしろヨブと預言者たちから《義への渇望》から来たのである」(「希望の原理」後述)。
 このヨブのゴーエール、血の復讐者、ここでの「贖う者」は、神以外のどこにも存在しない。ヨブは自分の死んだ後に、失われた自分の権利、義しさのために立ち上がりたもうゴーエールのいますのを確信するに至ったのだ。
 「神はあらゆる生命の所有者である。何らかの暴力行為によって生命を脅かされる場合、それは神の直接の利害にかかわることである。そのことをヨブは知つており、厳粛に神に向って、神に対して訴えるのである」(フォン・ラート)。
 「ヨブ記の驚くべき点は、…神の怒りの炎の中で、耐え抜くという事実にある。神が敵として扱いたもうヨブは、その闇ともっとも深い深淵のただ中にあって、動揺することなく、何か一段上の法廷や彼の友人たちの語る神に控訴するのではなくて、自分を打ちのめすこの神御自身に控訴する。ヨブは、自分を失望させ絶望に陥れる神に信頼し、自分の主張をやめることなしに、自分の希望を告白し、自分を断罪する方を弁護者とする」(ロラン・ド・ピュリ「反乱の人間-ヨブ」、バルト「ヨブ」井上良雄訳から引用)。
 「ヨブは、神の支配の暗黒が彼にもっとも鋭い仕方で出会うところに、近づきつつある死と陰府の中での彼の存在の闇に、目を注いでいる。《そこでこそ》彼を守りたもう神に接し、そこでこそそのゴーエール(弁護者・復讐者・贖う者)としての神を自分の目で認めるのである」(バルト、前掲書)。
 一九・二六でヨブは「私は《肉を離れて、体をむきだしで》神をみるであろう」と語るが、これは復活や永遠の生命を考えている、と誤解してはならない。むしろここでもヨブは一七:一三以下と同様に、陰府での出来事として「肉を離れて、体をむきだしで」を考えている。贖い主の贖ないが起こるのは陰府においてである。ヨブの贖い主は陰府の「塵の上に立つであろう」。したがって「ヨブは問題を死後の解決に委ねたことになる」(関根、注解)。しかもヨブがそう決心したのは今ここでである。ヨブが絶望のただ中にあって、自分の失われた希望について文句を言いながらも、神ご自身にはなおも隠された可能性が残されていると告白したのは、今においてだからである(ツインメリ)。神は人間の創造者として失われたその人間の権利回復を実現される、法的なゴーエールすなわち「最も近い親族」(ルツ二:二〇)である。 続