建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー5

2001講壇(2001/6/17~2002/2/3)

旧約聖書における絶望と希望(九)ヨブ記ー5
 神が、第二イザヤの言葉にあるような「歴史を支配し、歴史を導かれる神」としてご自身について少しも語られることがなかった。むしろもっばら「創造」についてのみ語られるからだ(ゴルヴィッアー「まっすぐな道、曲がりくねった木」)。神はヨブにやつぎ早に問いかけられる。
 神による第一の弁論、三八~三九章では、一般的な地学と天体学の領域(海の底から北斗七星やオリオインに至まで)から問いが語られ、第二の弁論、四〇~四一章では「動物学と神話学の境界をあちこちしつつ、ベヘモトとレビヤタンというような怪獣(河馬と鰐と推測できる)についての知識から問いかけが語られる。ヨブはこの奇妙な講義を自分の訴えに対する答として、しかも自分の訴えがあますところなく解決されて直ちにその訴えをやめるほどに徹底的に強力な答として《理解しまた受け入れる》」(バルト)。
 「私が地に基をすえた時、あなたはどこにいたのか」(三八:四)、「あなたはスバルの鎖を結び、オリオンの結びを解くことができるのか」(三八:三一)、「あなたは馬に力を与え、その首をたてがみで装うことができるのか」(三九:一九)、「あなたはわに(レビアタン)を鳥のようにおもちゃにし、あなたの乙女のために綱でつないでおくことができるのか」(四〇:七)。「見よ、私があなたと一緒に創造したかば(べヘモト)を。見よ、その腰に宿る精力を。またその腹の筋に宿る力を」(四〇:一五、一六)。なかんずく「かば・べヘモト」と「わに・レビヤタン」について、ヨブ記は四〇:一五~四一:二三まで二章にわたってしるいしているが、動物園にいって本物を見ればその「不気味さ」が看取できる。

ブロッホの解釈
 さてヨブが存在を賭けて追求してきた、ヨブの義の回復が、このように神による「創造の領域において決着がつけられる点」に強く抗議したのは、エルンスト・ブロッホである(前掲「キリスト教の中の無神論」)。
 「[三八章以下で]ヤハウエが(自然)を措定するのに対して、ヨブの目録は[三一章における「潔白の誓い」で]《道徳》を措定していた。またヤハウエの問い[による弁論]は、まさしく自然の知に関する問いとして、[聖書の]他の文書が神の言葉に固有なものとする永遠性そのものをもっていない。…ヤハウエは道徳的な問いに物理的な問いをもって答え、臣民の浅知恵に対して、測りがたく賢い宇宙からの一撃をもって答える。その場合用いられた《自然像》は強大であり、いわば《デーモン的汎神論》の息吹もまた異様である。自然はもはや創世記一章におけるような、人間的出来事の舞台ではなく、むしろ神的崇高さの暗号である。ヤハウエの業はもはや人間中心主義ではなく、人間的な神学が退りぞいて、その上に蒼穹と巨像がそびえる。また神のこの言葉には、預言者的黙示文学にみられるところの、人間的神学、自然の没落の背後にある《人間的な救いに向かうあらゆる約束が欠落している》。…このヤハウエは、完全な誇りをもって、彼の倫理的・理性的な、乳と蜜を中心とする摂理に関する預言者の言葉を滅ぼす。…これらすべては《聖書には無縁な神顕現であるので、恐ろしい火山のヤハウエと何の共通性をもたぬ、ほとんど別の神が現われたようにみえる》。このヤハウエはデーモン的に描かれたイシス[エジプトの神]あるいは自然神バール[カナンの地の豊穣の神]そのものを思い出させる。…だがヨブはなおも再び『他の類への移行』[アリストテレス]、つまり預言者以前の、さらにカナン以前の[イスラエルのカナンの地定住以前の]デーモニ-・悪鬼崇拝によって撃たれ、精神的に殺されたのだ」。
 「人間はその神に立ち優る、否その神を超えて輝く。これが、結末で表向き恭順を示しているように見えるにもかかわらず、ヨブ記の論理であり、論理であり続ける」(ブロッホ、前掲書)。
 第一に、確かに三八章以下における神の弁論が、歴史、救済史の領域においてでなく、『他の類への移行』創造の領域において決着がつけられる点に注目し、こだわったことは、ブロッホに共鳴できる。「ヨブ記の最後の部分での神の顕現は、このヨブ記の多くの謎の一つである」(ゴルヴィッツアー「ヨブ記解説」)。しかし、第二に、ブロッホは、一九:二五のゴーエール」「わがゴーエール(贖う者、復讐者、義の回復者)は生きている。彼は最後の者として地上に登場するであろう」を、ヤハウエとは別の存在でる「復讐者」(ブロッホはこの訳語に固執している)と想定して「ヨブが彼に対しての復讐者を呼び求めるその同じヤハウエが、ヨブが求めている友人、近親者、復讐者だなどということはありえない」と述べる。ヨブが反抗している当の相手ヤハウエに、ヨブが自分の義を回復してくださる存在を見い出そうとすること、これはブロッホには考えられないことであったらしい。「神から神へと逃亡すること、自分が告発しているその同じ神から、復讐の援助を期待するなどということは、ブロッホには考えられないことである」(ゴルヴィッツアー)。第三に、ブロッホは三八章以下の神顕現が「聖書には無縁の神顕現である」とみなしているが、そうでもあるまい。「ヤハウエは嵐の中でヨブに答えて言われた」(三八:一)は、旧約における神顕現に伴う現象である(エゼキエル一:四、ゼカリア九:一四など、関根「注解」)。また「見よ、私があなたと共に創った、ベヘモト(かば)を」(四〇:一五)においては、ヨブは神による創造の中に位置づけられつつ、べヘモト同様彼の神反抗の牙をへし折られている。

ヨブの応答
 神の第一の弁論この言葉で神は、「自らをメシアのように敢えて神に近づくヨブ」の反逆の牙を折り、怪物べヘモト・かばですらないヨブを批判されつつ、かばのみならず、ヨブを創ったのは(「み手の業」一〇:三、一四:一五)ご自分であると自己啓示されたのだ。そしてこれこそヨブが待ち望んだ答であった。
 ヨブの答。
 「今や、私の目があなたを見ました。
  それゆえ私は自分を否定し
  灰の中で悔改めます」(四二:六)
 「私の目があなた・神を見た」は、ヨブにそれまで隠されていた神を実感的に体験したという意味である。
 神は友人たちよりも、ヨブのほうが正しいことを語った、と言われた(四二:七)。
 「それからヤハウエはヨブがその友人たちのために執り成しの祈りをした時、ヨブの運命を転換された。…ヤハウエは彼の上にもたらさたすべての不幸について彼を慰めた。ヤハウエはヨブの終りをその始め以上に祝福された」(四二:一〇~一二)。多くの財産、子供たちが与えられた。
 私は、これまで絶望した時、いつもヨブ記を読み、その解釈を読みつつ、絶望からはいあがってきた。そしてヨブ記に言及した人々はいずれも絶望の体験者であって、ヨブを手がかりにして絶望からはい上がってきた人々だ、と想像した。
 キルケゴールは「反復」(一八四三)でヨブを取り上げた。
 「…夜になると、ぼくは部屋に灯火をつけて家じゅうをあかあかと輝かします。それから立ちあがってヨブの章句をここかしこと声高に、ほとんど叫ぶようにして読みます。…ぼくはこの書を幾度もくり返して読みましたが、その言葉の一つ一つが、ぼくにとっていつでも新しいのです。ぼくはその言葉に出会うごとに、一語一語はじめから生まれてき、ぼくの魂の中ではじめから生成するのです。ぼくは激情のあらゆる陶酔を、あたかも大酒家のようにちびりちびりと味わいながらすすりこみ、ついにそのためにほとんど意識を失うまでに酔いつぶれるのです。でなければ、ぼくはいいがたい焦燥にかられて彼の言葉に向かって駈けつけます。半句を飲みこんだだけで、ぼくの魂は彼の思想の中へ、彼の吐露した真情の中へ駈けこみます。投下された測鉛が海底を求めるよりもすみやかに、雷光が避雷針を求めるよりもすみやかに、ぼくの魂は彼の思想の中へ滑りこみ、そこにとどまります」。
 「ヨブにおける秘密、その生命力、その気魄そのイデーは、いかなることがあろうとも、ヨブは正しい、ということです。この主張によって彼はあらゆる人間的な見方に対して、ひとつの例外たらんことを要求しているのです。彼の不屈さと力とはこの権能と権威を証明しています。どのような人間的な説明も、彼にとっては誤解でしかありません。…あらゆる対人論法が彼に向かって用いられますが、彼は毅然として自己の確信を持してゆるぎません。彼は主と和解していることを主張します。よしんば全人世が彼に対してその反対を証明しようとも、主もまた知りたもう彼の心の奥底では、自分が負い目なく清浄であることを彼は知つています。自由の情熱が彼にあっては、まやかしの言辞によって窒息させられたり、なだめすかされたりしないところに、ヨブの偉大さがあります。…
 友人たちはヨブをひどく悩ませます。彼らは論点を変えて、ヨブの不幸は懲罰と説きます。彼が悔い改め、赦しを乞うならば、すべてがまた元のようりになるというのです。けれどもヨブはびくとも動じません。…」
 「ヨブの偉大さは『ヤハウエが与え、ヤハウエが取られた。ヤハウエのみ名はほむべきかな』(一:二一)と彼がいったところにあるのではありません。なるほど彼は初めにこの言葉を口にすることをしましたが、あとでは反復しませんでした。ヨブの意味はむしろ《信仰への境界争いが彼のうちで戦いぬかれたと》いうこと、荒れ狂う好戦的な激情の力の《恐るべき叛乱》が彼のうちで演じられたということにあるのです」(桝田啓三郎訳)。
 ドストエフスキーは「ヨブ記」についてゾシマ長老にこう語らせている、
 「ああ、これはなんという書物であろう。…《古い心の痛手は人生の偉大な神秘によって、次第次第に静かな、感激に満ちた喜びに変わってゆく》」(「カラマーゾフの兄弟」第六篇「ロシアの修道僧」一八七八、小沼文彦訳、強調引用者)。