建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

旧約聖書における死の理解ー2

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅰ 旧約聖書における死の理解ー2

人間が死ぬ理由
 人間はなぜ死ぬのだろうか。楽園におけるアダムとエバに対する、蛇の誘惑の言葉、神によって食べることを禁じられた「禁断の木の実」を食べると、あなたがたは神のように善悪〔すべて〕を知る者となるであろう(創世記3:5)は、《人間の有限性を超える試み》とみなされた。「終わりなき存在でありたいとの願望は、人間が神によって創造されたという被造物性への反逆である」(ゴルヴィッツァー「曲がりくねった木まっすぐな歩み」)。
「人間は自分の被造物としての限界を超えて、神のような生命を得ようと試みることによって、神に対する服従から抜け出してしまった」(フオン・ラート「旧約聖書神学」I)。アダムの場合、いわゆる禁断の木の実を取って食べてはならない、それを食べるとあなたはきっと死ぬ(2:17)、すなわち食べることの禁止命令は彼の死をもって《威嚇されていた》。彼は神の戒めを破ったので、当然神からの刑罰として死ぬ定めにあった。「あなたは私が命じた木から取って食べたので、…ついに土に帰る」(3:19)。
アダムが神の禁令を破ったことで、彼は《神ご自身から離反したのだ》。「神との交わりが生命である」(ゴルヴィッツアー、前掲書)。
 「わが民は《生ける水の源である私》〔神〕を捨て、自分で水溜を掘った。その水溜はこわれた水溜で、水を保つことができない」(エレミヤ2:13)。人間は神から、神との交わりから離反することで、生命の源からも、《生命から離反した》。これが人間を死に至らせる。
 「死は自分とは無縁の権威からくだされる刑罰などではなく、むしろ死は罪人の本質的な帰結として罪自体の本性にある。死は罪の結果として人間に介入してくる。死は神から切り離されることである」(パンネンベルク「組織神学」Ⅱ 8章「罪、死と生命」)。

すべての人間がやがて死ぬ
 「私たちにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(詩篇90:12)。ここの「おのが日を数える」とは、あとどれくらい自分の余命があるかを考えるという意味ではない。むしろ自分が死ななければならないことを熟慮する、という意味である。その死の時がいつであるか誰も知らない。ヒゼキヤ王(前700年ころ、南王国ユダの王)の祈りのように「私はわが一生の真っ盛りに〔世を〕去らねばならない」場合もある(イザヤ38:10)。「私たちはみな死ななければならない。地にこぼれた水が再び集めることができないのと同じである」(サムエル下14:14)。ヨブ記は言っている「雲が消えてなくなるように、陰府〔よみ〕にくだる者は上がってはこない。彼はその家に帰らず、彼の所も彼を知らない」(ヨブ7:9~10)。「数年たてば、私は立ち去り、もどってくることはない」(16:22)。とにかく死者たちは生ける者たちの交わり、共同体から抜き去られ、締め出されている。死者を「生ける者の地で見い出すことは決してできない」(28:13)。

死者はヤハウェから切り離される
 旧約聖書は死について、神ヤハウェとの関係において把握して、「死者を神ヤハウェのみ手、その勢力圏から決定的に締め出さた者」とみている(ユンゲル 前掲書)、死者はヤハウェとの関係を断ちきられた存在である(ヴォルフ、前掲書」)。
 詩篇88:3~5「わが魂は悩みに満ち、わが生命は陰府(よみ)に近づいた。私は墓に連れていかれる者のうちに数えられ、無力な人のようになった。わが生命は、死者たちの間にあって、撃ち殺された者のように、墓に横たえられた。あなた(神)は彼らを心にとめられず、彼らはあなたのみ手から切り離されてしまったのだ」。
 死者が神との関係を絶ち切られた点について、詩88:10以下はさらに続ける、
 「あなたは死者たちのために奇跡を行うだろうか。あるいは影のような者たちが起きあがってあなたに信仰を告白するであろうか。墓の中であなたの恵みが語られるだろうか、あなたの真実が死者たちの国で語られるだろうか。暗黒の中であなたの奇跡が、あなたの義が忘れの国(陰府)で告げられるであろうか」。ここでは死者たちの世界には、神のみ業、その恵みの告知も、神讃美も信仰の告白も、まったく入り込むことができない、と歌われている。
 詩115:17には「死者たちはヤハウェを讃美しない。沈黙の世界にくだる者もそうだ」とある。先のヒゼキヤ王の祈りにもこうある。
 「陰府はあなたに感謝しない。死もあなたを讃美しない。墓にくだる者はあなたの真実に希望をいだくことはない。ただ生きている者のみ、生きている者のみ、今日私のするように、あなたに感謝することができる」(イザヤ38:18以下)。
 死、死者の場所は「音のない所」であり(詩94:17、115:17)、「暗い所」(88:6)であり、「天上や地上」に対して下界「陰府」と呼ばれ(詩6:5など多数)。墓である(詩28:1、イザヤ38:18など)。このほか茫漠たる荒野(砂漠)も死と死者の場所である。そこに足を踏みれることは限りなく死の脅威にさらされることを意味したからだ。
 「イスラエルが死を空間的なもの、ある『領域』として理解していたことは全く疑問の余地がない。例えば、イスラエルが荒野を死(シェオール)とみなしたことことからもそれは明らかである」(フォン・ラート 前掲書)。
 私たちは平穏な老年期に至って木が朽ち果てるように、死を迎えることができるとは限らない。ヒゼキヤ王のように、「一生の真っ盛りに死に取り囲まれてしまう」かもしれないのである(イザヤ38章)。死者の国は私たちの外側にある静的な領域などではではない。むしろ圧倒的な力をもって私たちに襲いかかり、私たちを脅かすものである。