建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー2

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー2

イエス・キリストの十字架の死①
 新約聖書が述べたキリストの死についての見解、また教会史の中で主張され、論議されてきた「キリストの死についての解釈」について言及したい。ここでは特にイエスの十字架の死を「罪の赦し」として《のみ》把握する解釈を乗り超えて《十字架を人間の死の問題の解決のポイント》と関連づけて理解したい。
 周知のように、イエス・キリストの十字架の死の時点では、その死は弟子たち、随順者たちに失望、落胆しか与えなかった。《彼らがイエスの死の意味を深く認識できたのは、イエスの復活顕現に出会ったことをとおしてであった》。弟子たちは、復活顕現をとおして、イエスの死に対するつまづきから立ち直った。彼らがイエスの死をどのように把握したかについて、エマオの弟子たちを取り上げたい。

エマオの弟子たち
 イエス・キリストの《十字架の死の時点では》、イエスの死の意味は弟子たち、随順者たちには全く理解されなかったようだ。それどころか最初のうちイエスの十字架は彼らに《衝撃、狼狽、落胆》しか与えなかった。男性弟子たちがエルサレムから故郷ガリラヤへ逃亡したきっかけとなったのは、ほかでもなくイエスの受難、捕縛、審間、十字架の事件であった。
 折しも(イエスの死の3日後)クレオパともう一人の弟子は(クレオパはイエスの従兄らしい、もう一人はその息子シモン、彼は後にエルサレム教会の三代日の監督となったという、レンクシュトルフの註解)都の西方12キロにあるエマオという村を日指して、旅立った(ルカ24:13以下)。この記事によれば、イエスの弟子たちは十字架の出来事の意味を全く理解していなかった。「ほんとうに私たちは、この方こそイスラエルの民を贖ってくださる人だと望みをかけていましたのに」(24:21)の箇所は、何の希望も抱けない弟子たち全体の状態を反映している。特に注日すべきは、20節の記述である、
 「大祭司たち、役人〔最高法院の議員・律法学者・長老〕たちがこの方を〔ローマ人に〕引き渡して死刑を宣告し、十字架につけてしまったのです」。ここの《十字架についての史実的な知識自体は、イエスの十字架の死の意味を理解するのに何の役にも立たないことを示している》。
 しかし《こと》はすでに始まっていた。ガリラヤに逃亡したべテロら弟子たちは、ほかでもないそのガリラヤ(の湖に)おいて、イエスの復活顕現に出会った(ヨハネ21章、マタイ28:16以下)。
 このエマオの記事で重要なのは、二人の弟子たちに《見知らぬ旅人の姿をした復活のイエス》が「メシヤは王的な栄光に入るために、そのような苦難を受け《ねばならなかった》のではないか」と語られた点である(24:26、レンクシュトルフ訳。「メシア」はむろん「キリスト」のこと、「ねばならない」は神の摂理を意味する)。すなわちイエスの十字架刑に失望・落胆してエルサレムを後にした二人の弟子たちに、《復活のイエスご自身が彼らの日を開眼させて、キリストの苦難について旧約聖書が証言していることを理解させねばならなったのだ》(シュラーゲの論文「新約聖書におけるイエス・キリストの死の理解」)。言い換えると、出来事は時間的に「十字架から復活へ」と推移したが、イエスの十字架の死の意味を認識するには「復活から十字架へ」という逆の時間的な推移、時間の流れ(クロノス)を切り裂く終末論的な時(カイロス)の介入が不可欠であったのだ。
 復活のイエスによる「旧約聖書による証言」(27節)という箇所では、旧約聖書の具体的な文書名(複数形)はあげられていない。ここでのポイントは具体的に証明することにはない。むしろ旧約の文書による証言があるとの復活のイエスの《主張を受け入れ、信じること》にある(なお復活顕現については、拙著216以下参照)。教会史はイエスの死を解釈するのに、イザヤ53章を手がかりにしてきた。「イザヤ53章がイエス・キリストの死の解釈にとって重要な意味をもっていることは疑う余地がない」(シュラーゲ)。
 「よみがえられたキリストは、その苦難と死によって、義ならざる人々と死にゆく人々とに義と生命をもたらしたもうた」(モルトマン「十字架につけられた神」)