建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー3

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー3

イエス・キリストの十字架の死②

苦難の僕
 イザヤ53章の「苦難の僕」はイエスの苦難と死の解明について有効な手がかりを与えてくれそうである。イザヤ書の「苦難の僕の歌」は52:13~53:12にわたるというのが通説である(中沢浩樹「第二イザヤ研究」1962)。4つのポイントにふれたい。
(1)僕の苦難と死への視点の逆転
 4節前半にはこうある「われらは思った、彼は打たれる、《おのれの罪科のために神に打たれる》と」(中沢訳)、それが後半ではこう逆転する。「あにはからんや、彼はわれらの不義のために刺され、われらの罪科のために神に砕かれたのだ」。この僕は自分の罪科のために死んだのではなく、むしろ《われらの罪科のために砕かれた》これが視点の逆転のポイントである。イエスの弟子・随順者たちも、十字架にかけられたイエスをみて、ここの4節前半「彼はおのれの罪科のために神に打たれた」と考えたようだ。イエスの死に対する見方を逆転させたのは、「復活顕現の出来事」であった。同時に「イエスの苦難と死は何のためか」という問いにも回答が得られた。「われらの罪科のために彼は砕かれた」と。
(2)この僕の「代償苦」(代理的死)
 関連箇所として次のものがある。4節前半「まことにわれらの病を彼はにない、われらの苦悩を彼が背負った」。5節後半「彼の懲罰はわれらの平安(のため)、彼の傷痍はわれらの癒し(のためであった)」、6節後半「ヤハウェは彼に負わせた、われらすべての罪科を」、8節後半「彼はわが民の不義のゆえに打たれた」、10節後半「おまえが 〔イスラエルのこと〕彼の生命を咎の償いの供え物とするなら」、11節後半「わが僕は彼らの罪科を背負うのだ」、12節後半「げに彼は多くの者の罪をにない、不義なる者らのためにとりなしをする」。
 10節の「咎の償いの供え物」は、レビ5:14以下にある、罪のあがないのための供え物(雄羊一頭など)を祭司のもとに持参し、祭司がその動物犠牲の血を流して捧げることで、罪が赦される儀式用のもの。ここで第二イザヤは動物犠牲ではなく、むしろそれを人間(主の僕)の犠牲に置き換えているが、それは従来の祭儀的な処理方法によっては、人間の罪の赦しは不可能であるとの認識にたつからのようだ(中沢)。第二イザヤはとにかく「非祭儀的」である。
(3)この僕を苦難にあわせ死に至らせた《主体はヤハウェである》
 1節「ヤハウェの腕は誰に現れたか」。6節後半「ヤハウェはわれらすべての罪科を、彼に負わせた」。10節前半「ヤハウェは彼を砕くことをねがい、彼を刺した」。後半「わがねがいは彼によって遂げられる」。
 復活のイエスに出会った弟子たちは、これまで、イエスの捕縛、審問、十字架刑の出来事に至るまで、胸のうちで「神はどこにおられるのか」と問い続けたのちに、この神の沈黙に回答を見い出したょうだ。イザヤ書の僕の苦難と死との主体がヤハウェであったように、イエスの苦難と死の主体も神ご自身であった。「神はキリスト《のうちにいまして》、世をご自身と和解なされた」(Ⅱコリ5:19、この箇所の「キリストのうちにいまして」の翻訳は「キリスト者の希望」287参照)。「神は決して沈黙なさっていたのでなく、キリストのうちにいまして、十字架において行動され、ご自分の存在をもって死に行くキリストにおいて苦しんでおられた」(モルトマン「十字架につけられた神」)。そのことを弟子たちは《苦難の僕の歌を下敷きにして》また復活のキリストの解き明しをとおして、認識しえた。
(4)メシアのテーマ
 関根正雄氏はこの「苦難の僕」を弟子たちがみた預言者第二イザヤ自身の活動と解釈して、僕メシア説を否定する。他方中沢氏はこの僕をメシアと解釈する。もっともこの僕は第一イザヤが語った「タビデ的なメシア」ではない。5節「彼こそわれらの不義のために傷つけられ、われらの咎のために砕かれた。彼の懲罰はわれらの平安(のため)、彼の傷痍はわれらの癒し(のため)であった」。第二イザヤは伝続的な、ダビデ的なメシヤ像(イザヤ11:4「彼は正義をもって貧しい者をさばき、公平をもって打ちひしがれた者のために定めをなす」ようなメシア像)を廃棄して、全く異なるメシヤ像、人々のために人々に代わってヤハウェによって苦しめられ、死におもむかされる僕というメシヤ像を提起した。
 そしてこの「苦難の僕メシア像」を受け継ぎ、展開した原始教会の一人がパウロである。「主は《私たちの罪のために》ご自分をお引き渡しになった」(ガラ1:4)。「キリストは私を愛し《私のために》ご自分を引き渡された」(ガラ2:20)。「キリストが《すべての人に代わって死にたもうた》のは、生きる者が、自分のためではなく、《彼らに代わって死んでよみがえりたもうた方》のために生きるためである」(Ⅱコリ5:15。ここの「私たちのために」は「私たちの利益のために」と「私たちに代わって」の双方の意味である(ケーゼマン)。キリストの死にまつわる神の行動について、パウロはこう述べた「ご自分のみ子を惜しまないで、私たちすべてのために死に引き渡された方」(ロマ8:33)。最後にイザヤ53:5を読んでみたい。「彼の懲罰はわれらの平安のため、彼の傷痕はわれらの癒しのためであった」。Iぺテロ2:24「キリストの傷によって、あなたがたは癒されたのだ」。