建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー5

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー5

イエス・キリストの十字架の死④


み子のご自分の引き渡し
 パウロの言葉のうち、キリストの死について述べたほかの箇所をみたい。
 パウロはイエスを「十字架につけられた方」として、宣教した(ガラテヤ3:1、Ⅰコリ1:23、2:2)。
 ガラテヤ1:4「主イエス・キリストは、私たちの罪のために《ご自分をお渡しになった》」(ここの協会訳は「ご自分をささげられた」、原語ディドミの意味は「ご自分を捧げられた・見捨てられた」、さらには「ご自分をお渡しになった」の意味がある。「引き渡す・パラディドミ」の用語と共にこれも《受難用語と解釈できる》。「イエス・キリストの救いの出来事はイエスの自己献身の中にある。まさしくこの献身においてこそ神の業が実現したのだ」(シュリーアのガラテヤ書註解)。このイエスの自己献身は、十字架の死へと自己を《引き渡すこと》であった。キリストは私たちの罪のためにご自分の生命を死へと引き渡して、私たちの罪をお引き受けになられたのだ。
 (ヨハネ3:16でもこの用語が用いられている。協会訳によれば「神はそのひとり子を《たまわった》ほどに、この世を愛してくさった」となる。しかしこれは「のん気な翻訳」である。本来この箇所は《イエスの受難・死》を想定した訳にすべきだ「神はご自分のひとり子を(十字架に)《引き渡したもう》ほど、世を愛された」と)。
 ガラテヤ2:20「私を愛し、私のためにご自分を《引き渡された》神のみ子」。ここの協会訳「ご自分を捧げられた」では意味が弱い。ここの意味は明らかに《十字架の死へとご自身を引き渡された》である。
 ロマ4:25「主イエスは私たちの罪過のために〔十字架の死に〕《引き渡された》(ここの「引き渡された」は神的受身形で受難用語、主体はむろん神)。
 ロマ8:32では父なる神の行動として「私たちすべての者のためにみ子を、《引き渡したもうた》父なる神」、Iコリ11:23「主イエスは《引き渡された》夜」。
 旧約聖書は十字架にかけられて死ぬ人間を呪いのもとにおいた、つまり「不浄なもの、神の契約の外にいる者」と説明した。ヘブル13:12~13「イエスもまたご自分の血をとおして民を浄めるために、《宿営の外》で苦難を受けられた」という箇所も、「イエスが犯罪者の仕方で死んだこと、同時に《聖別された領域の境界の外で死んだこと》を告げている」(ケーゼマン「パウロによるイエスの死の救済的な意味」)。

 イエスの十字架の死を、パウロは一方では父なる神の行為とみなした。ロマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を示された」。(Iヨハネ4:10「私たちが神を愛したということにではなく、むしろ神が私たちを愛して、み子を私たちの罪の贖いとして派遣してくださった、まさしくここに愛がある」)。Ⅱコリ5:21「神は私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた」。
 他方ではパウロは十字架をみ子ご自身の《自発的な行為》とみた。ガラ1:4「キリストは私たちを今の悪の世から救い出すために、ご自分を(十字架へと)お渡しになった」。2:20「私を愛し私のためにご自分を(十字架に)引き渡された神のみ子」、テトス2:14「キリストは、私たちをすべての咎から贖い出すために、ご自分を(十字架に)お渡しになった」、黙示録1:5「イエス・キリストは私たちを愛し、その血をとおして私たちを罪から解放してくださった」。
 新約聖書はこのように、キリストの十字架の死を一方では「神の業」、他方ではキリストの「自発的な自己放棄」とみなしている。言い換えると、父と子の行為が一致していると考えているのだ。
 両者の行為的一致を表現した箇所が、Ⅱコリ5:19である「神はキリストの《うちにいましたもうて》、世をご自分と和解された」。神はキリストのうちにいまして、死に行くキリストおいて行動され、苦しまれたのだ。