建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

新約聖書における死の理解ー7

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

Ⅱ 新約聖書における死の理解ー7

死からの解放
 死を滅ぼすことができるのは神ご自身のみである。イザヤ25:8「ヤハウェは永久に死を滅ぼされる」。「最後の敵として、死が滅ぼされる」(Iコリ15:26)。ここは神的受身形で、滅ぼす主体は神である。ではキリストはこの死の滅亡にどのように関与なされているのか。パウロはIコリ15:24以下で、「死の滅亡」について述べている。
 世の終末の折り(24節)、「キリストはすべての敵をご自分の足もとにおくまで(詩110:1)、支配し《なければならない》」(25節)。ここの「ねばならない」は神的必然、すなわち神の救済計画を示すものである。「その時キリストはその支配を父なる神にお渡しになる」(24節)。神に敵対するすべての勢力を服従させるのは、キリストであり、キリストのみが、勝利の行進に踏み出すことができる。しかしキリストは決してご自分の力で支配するのではない。むしろ神の委託によって敵対的な勢力を服従させるのであり、そのための力を神ご自身がキリストにお与になったのだ。したがって《死を打ち負かすのは神ご自身のみである》。キリストが死を滅ぼすかどうかは論争されている。ケーゼマンは、キリストの死に対する支配が〔現に存在する〕死の力をとおして反駁される、と主張している。
 シュラーゲも述べている、死の克服は、イエス・キリストの支配者的な支配の究極的な行為では《ないようにみえる》、むしろこの箇所の神的受身形(死が「滅ぼされる」)は、死の克服、死の滅亡の業が神ご自身であり、神のみのものであることを間接的に知らしめようとしていると(註解)。
 個人の死ぬべき運命の克服が、個人の死を超えた救いへの希望をとおして可能である点については論争されてはいない。むしろ死の宇宙的な力に対する決定的な勝利によって死の克服は実現する。他方、死の破壊的な支配は決して無制限のものではなく、むしろ無力化されている。その根拠として次のものがある。ロマ8:38によれば、《死はキリストの愛によって相対化されている》、「死も生も…私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から私たちを離すことはできない」(他にロマ14:7~9など)。
 Ⅱテモテ1:10「キリスト・イエスは《死に打ち勝ち》、福音をとおして生命と不滅性とを輝かさせてくださった」(アルフォンス・ワイザー訳)に言及したい。救済者イエス・キリストをとおして神の救いの行為において可能とされた救いの賜物は、ここでは否定的、肯定的双方が示されている。
 否定的な面では「死に打ち勝つ」である。Iコリ15:26の場合、死を滅ぼす主体は神ご自身とされたが、《ここではキリストが死に打ち勝つ》とある。しかし註解ではこの点について全く展開されていない。それゆえ私たちは先のシュラーゲの「Iコリント註解」の立場を支持したいと言いたいが、問題はそれほど単純ではない。というのは、ルター、バルトの見解はこれと異なっているからだ。
 まず先に引用したルターの見解「イエス・キリストは、私たちの代わりに罪を取り除かれた。それによって死からすべての権利と力とを取り去られた。死の形をとどめるものは何もない。死はそのとげ〔棘〕を失ってしまったのである」。
 バルトは述べている、「イエス・キリストの死においてのみ、罪と咎からの無罪宣告が、《それとともに》私たちの《死からの解放が起きたのだ》。イエス・キリストにおいてのみ、死がただ単に身にこうむられたばかりでなく、《死が克服された出来事》もまた起きたのだ」(前掲書、748)。バルトのこの見解は、先のⅡテモテ1:10「キリストは死に打ち勝つ…」を想起させる。しかしバルトのいう「死からの解放」は《滅びであるところの、第二の死からの解放》したがって「自然的な死への解放」の意味である。他方「死が克服された出来事」のほうは、明らかに《キリストご自身が、死の滅亡に関与なさっている》と解釈できる。Iコリ15:54「死は勝利に飲み込まれてしまった」は、神的受身形なので、死を飲み込む主体は神であるが、しかもここの「勝利」は明らかにキリストの復活を意味している(ルターの「第一コリント註解」)。死の滅亡への」キリストご自身による関与は、単独のものでも、直接のものでもないが、《神のもとでの間接的な関与である》と私たちは解釈したい。
 さてⅡテモテ1:10の、救いの賜物の肯定的な面としては、福音の宣教をとおしての、不滅の生命である。「不滅・アフタルシア」をパウロは、ヘレニズムユダヤ教から受け継いだようだ。ここでは、この世に属すもののしるしである「朽ちゆくもの」の反対語が「不滅性・朽ちないもの・アフタルシア」である(Iコリ15:54参照)。この箇所では、不滅性の意味をキリスト者の現在においてすでに与えられたものと強調されている。テトス3:5以下には「キリストの憐れみによって、キリストは私たちを《再生の洗い》で救ってくださった。それは聖霊による更新である」とある。明言されていないが、Ⅱテモテ1:10の「不滅性」においても《洗礼》が考えられている(註解)。


 バルトは「イエス・キリストの死においてのみ、私たちの《死からの解放》が起きたのだ」(748)と述べた、「《死からの救済》は、人間が死ぬことを免れて、死なない存在へと救われるということでは《ありえない》。むしろ〔実際に死んで滅びとしての〕死の中からの救済〔第二の死から自然的な死への解放〕を言っている」(732)。ここを読むと「少し肩すかし」と感じる人もいるかもしれない。そのような誤解は、地上的な存在様式から《地上的な存在のままで、死を経験するすることなく、直接的に存在の変容されることに望みをいだく》コリント教会の異端者の立場と類似性がある(拙著、265以下参照)。しかし考えてみれば、私たちが「死ぬこと自体から解放されること」は確かにありえない。バルトが主張した「死からの解放」は、キリストが私たちを「第二の死」から「自然的な死」へと解放してくだった点にある。しかもこの「自然的な死」への解放は「永遠の生命への解放」へと連なる決定的な解放の出来事である。
 「キリスト者らしい敬虔な死に方」というものがあるのかもしれないが、ここで死に方によってその人の生涯、信仰のありようを判断するような「行為義認」は、いやな感じのものである。20世紀にはナチス強制収容所や、旧ソ連ラーゲリ強制収容所)さらに中南米の諸政権の下でおびただしいキリスト者が「消される形で」殉教した。モルトマンは、エル・サルヴァドルで1979年に殉教た、カトリックの司教アルヌルフオ・ロメロについて述べている(「イエス・キリストの道」)。彼らの死は家族・友人に見取られることもなく、その亡骸さえ家族に引き渡されなかった。ナチズムに抵抗して殺された、神学者D・ボンヘッフアーの場合その埋葬の場が不明で、墓地さえ存在しない。「敬虔な死に方」自体がのん気すぎるテーマなのだと私たちは考える。「幸いなるかな、今より後、主にあって死ぬ死者たち」(黙示録14:13)、眼目は、「敬虔な死に方」にではなく、むしろ「主にあって死ぬこと」にある。信仰告白をし、洗礼を受け、聖餐にあずかること、そして死後の自分たちの復活を心から信じることこそ、眼目である(拙著「キリスト者の希望」第7章、289以下、キリスト者の復活への希望、参照)。