建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死の中で神に出会う

2005パンフレット「死の中で神に出会う」-聖書における死についての連続説教-

 

Ⅳ 死の中で神に出会う
 バルトは「人間は死ぬ時点で神に出会える」と述べている。私はこの見解に驚かされ、同時に強く惹きつけられた(「創造論Ⅲ/2)。
 「償うこのできないこのとどこおり〔人間が罪咎の弁済ができずに、それがとどこおっていること〕の中で、私たちは自分たちの存在から『非存在』へと移っていくであろう。したがって私たちは《神に出会う》であろう」(725)。
 「私たちが終わってしまうところで、私たちを待っているのは、死ばかりではない。《神もまた待っておられるのである》」(740)。
 「神が私たちに対して死の中でも現臨したもうならば、私たちは死の直中にあって、ただ単に死の中にあるだけでなく、また神からしてすでに『死から超え出ており、死の上にある』のである。私たちは死ぬ。しかし神は私たちのために生きたもう。それゆえ私たちは神にとっては、死の中でも滅び失せてしまうわけではないし、実際滅びてしまうことはない。私たちはいつの時にか、存在しなくなるであろう。《しかし神はその時にも私たちのためにいましたもう》」(前掲書、743)。

 旧約聖書は《神を見た者は死ぬ》と述べている。
 モーセは神に告げられた「あなたは私〔神〕を見ることはできない。私を見てなおも生きている人はいないからである」(出エジプト33:20、士師13:22)。
 預言者イザヤは神殿で神の姿を見た時、こう告白した、「わざわいなるかな、私。私は滅び失せる。私は汚れた唇の者で、汚れた唇の民の中に生きているのに、私の目が万軍の王、ヤハウェを見たからだ」(イザヤ6:5)。
 ヨブ記においては二つの「神との出会い・見神」が登場する。一つは見神へのヨブの希望。ヨブ19:25~26「私は知る、わが義を回復する者が生きておられることを。彼は最後の者として《ちりの上に》お立ちなるであろう。《わが皮をはがされて後、わが体を離れて》、私は神を見るであろう」(ホルスト訳)。この箇所ではヨブの死後、陰府が想定されている。「ちり」は地上のものではなく、陰府のもの。「わが皮をはがされて後、わが体を離れて…」は、彼の復活のことではなく、彼の死後、陰府における彼の存在のありようを示している。失われたヨブの「義を回復する者・ゴーエール・神」が登場するのは、ヨブの死後、この陰府おいてである。その時その場所でヨブと神との関係が修復される(「私は神を見る」)。従来、神の出現も、救いの出来事も決して起きないとされた陰府での神との出会いを、彼は待ち望んだのだ。特に、ヨブのこの待望は、バルトの 「死の中で神に出会う」との見解と共通したものを感じさせる。
 もう一つの見神は42:5「私は耳をとおしてあなた〔神〕のことを聞いてきました。しかし今こそ私の目があなたを見ました」。ヨブのこの見神の体験は、文字通り《神の麗しきを見る》(詩27:4)すなわち「自分に対する神の恵みの業を実体験したもの」であった。注目すべきことに、ヨブにおいては「神を見た者は死ぬ」との従来の根本的な見解はくつがえされている。
 新約聖書において、パウロは述べている「今私たちは鏡をとおしておぼろげに見ているが、しかし《かの時には》顔と顔を合わせて〔神を〕見るであろう」(Iコリ13:12)。パウロは「神の顔を見る、神に出会う」のは「かの時」すなわち将来の終末の時点の出来事だとみている。
 これに対してバルトは、個人の存在の終焉「死の時点で」神との出会いが実現するとみなしている。
 「私たちはたとえ地獄においても、神のみ手の中にあるのであり、地獄の苦しみの中でも神のもとに守られるであろう。私たちは死の中でただひとりになるのではなく、むしろ死の主でありたもう神と共にあるであろう。死の中で、死の主として《私たちを待ちうけておられる神》は『恵み深い』神でありたもう」(741)。
 ここにあるように、私たちの死の中で、神が私たちを待ちうけておられるとしたら、そのことは、私たちの迎える死における大いなる慰めとなる。

                                  完了