建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平和研究(大学講座レジメ)3 神社問題

2.神社問題
「神社問題」というのは、帝国憲法の下で「国家神道体制」と信教の自由(帝国憲法・第28条)との衝突の問題である。(戸村政博「神社問題とキリスト教」1976)

ここの「国家神道体制」とは、日本流の「国教」のことである。
明治初年以降、政府は「神道を国教としようと試みた」が、仏教界などの強い反対で失敗すると、昭和に入って以降方針を変え「宗教法案」を幾度も国会に提出、神道が仏教、教派神道キリスト教を自分の支配下に置き、 国民全体を神道で統一しようと試みた。

(1) 宗教法案にかかわる動き 
  昭和初期1928・昭和3年11月、昭和天皇の「即位の大礼」が京都御所で行われた。この大礼を前にして同年6月「日本宗教大会」が開かれた。大会の趣意書には次のように記されていた。
  「国民精神の発露として『惟神の大道』(かんながらのたいどう。神代の時代から伝えられた、人為によらない、神の導きの道との神道の教え)が厳存して諸宗教の協調提携にあずかりて力ある事実に徴して、わが国の宗教界は、世界的大使命に目ざめなければならぬ」(中濃教篤「近代日本の宗教と政治」1960)

  ここには「惟神の大道」すなわち《国家神道が仏教、教派神道キリスト教の上にある》と位置づけられている。
  政府はその翌年、伊勢神宮の「式年遷宮」を行い、その日を国民休日とし、国民に「神宮崇敬」の高揚をはかった。
  その前年、1927・昭和2年1月、「宗教法案」を若槻内閣が帝国議会に提出。
  (この法案は1899・明治32年以来28年ぶりに政府が出した宗教法案)
  プロテスタント最大教派、日本キリスト教会は反対決議をあげた。
  「…法案第3条をみると、宗教の教義の布教、宗教上の行事が『国民の安寧秩序を妨げ、臣民たるの義務に背くおそれがあると認める時は』、監督官庁はこれを変更、取り消し、禁止することができる、改めない場合は宗教教団の解散を命じることができる…」、このように過酷な取り締まりを企てることは、信教の自由を保障する国家の精神を無視する不正義である…」。
  この法案は翌年3月廃案となった。
 
  2年後1929・昭和4年2月、田中儀一内閣は、「宗教団体法」を議会に提出。
  ・・・田中儀一内閣はその2年前、居留民保護を理由に、《中国の山東省に軍隊を派遣》。1928年には、関東軍が中国の有力軍閥の一人・張作林を列車爆破で殺害した。
  この宗教団体法に対しては、全国誌の「大阪毎日、大阪朝日、時事」などが社説で法案反対論を主張した。
 
  宗教界からもむろん反対運動が起こり、日本キリスト教会の宗教法案委員会が、「この法案は新教の自由を保障した帝国憲法の精神に反する」との意見書を発表した。
  対宗教団体法案各派キリスト者大会が青山学院で開かれ、1500余名が集い、日本キリスト教会神学者・高倉徳太郎は法案を批判し、ホーリネス教団の中田重治が演説した。「この法案は文部省がどのように強弁しようとも憲法の与えている信教の自由に干渉するものである。われらはこの法案が教会政治を破壊するがゆえに反対する…」
  (「福音新報」1929・昭和4年2月)。
  また旧日キに属す小野村林蔵(北海道、北星学園校長)はパンフ「神社に対する疑義」を10年以前に書いて、「神社参拝の強制は信教の自由に違反する」、「神社は学問的にみて宗教である」と発言していた。
  「この法案が国会を通過した後、もし我々が《神社参拝を拒否したらどうなるか》である。『神社は日本古来の風俗である。その礼拝を拒絶することは即ち《風俗をやぶることである》と。そして法案に照らして我々の伝道・布教を禁止するであろう。『いや信仰は自由である』と抗弁すると、『いや信教の自由は心理的なもの』であり、したがって外形的な神社参拝を拒否する自由はない』とくるであろう。こうして明治大帝によって保証された信教の自由をわけなく蹴散らして長年執心の《神社礼拝を有無を言わせず国民に強制するのが政府東京局の腹である…》」
  (福音新報・1929年3月)。
  特に「信教の自由は心理的」との指摘は重大。
  帝国憲法の28条は、欧米の憲法におけるように、内面の自由と外面の布教や宗教活動の自由、双方を保証してはいなかった。
  この法案も3月に廃案になった。

(2)神社は宗教にあらず
  その1929年12月、浜口雄幸内閣は「神社制度審議会」を発足させた。
この会は《内務大臣》の監督のもとで神社制度に関する重要事項を審議する機関で、委員はほかに、文部大臣など30名。第3回委員会総会で、安達内相はこう述べた、
「従来政府は、『神社をもって宗教とは全然区別して取り扱っている…』」
(中濃教篤「近代日本の宗教と政治」)。
そして「神社は宗教の施設ではないので、帝国憲法第28条、信教の自由に関する条項は神社と関係のないものと考える」と発言した(戸村政博前掲書)。

政府の主張したこの「神社非宗教論」に対しては、仏教、キリスト教から批判の声明が出された。
真宗各派の声明「1,省略 2、国民道徳的な意義においては(神社を)崇敬するが、宗教的な意義においては崇敬できない。3、神礼、護符を受け取ることはできない」。
キリスト教は「神社問題に関する進言」を出した。
「神社を宗教の圏外におこうとする試みは、明治中期以後、政府の伝統的政策であった。神社の宗教的崇敬を強制するのは、神社非宗教論と矛盾するし、また信教の自由に関する帝国憲法にも抵触する。神社から、宗教的内容を取り除くこと。祈願、護符の配布の中止。葬儀、結婚式執行の中止。国民および生徒への参拝の強制・神棚設置の強制をしないこと」(1930・昭和5年5月、福音新報)

(3)神社参拝・拒否事件
  政府による「神社参拝の強制」は、宗教の教団、寺や教会でなく、まず学校に対して行われた。その中で神社参拝を拒否する事件が、小学校の児童(岐阜県大垣市)、高等女子学校生(旧満州安東県)、長崎県平戸市・小学校教員などで起きた。
 
① 一つは「旧満州安東県(中国と朝鮮の国境の大河・鴎緑江の北側)の神社問題」。
  1930・昭和5年4月、満州安東県の安東高女において、安東神社に教職員と生徒が参拝した時、4年生の4名が学校にとどまって参拝しなかった。
彼らはホーリネス教会(中田重治が起こした教派)に属すキリスト者であった。
なぜ参拝しないのか理由をきいた担任に、「二神に仕えることはできない」と回答した。5月1日の参拝の日さらに2名が無断欠席。この2名は学校当局の説得に応じて参拝に変わったが、先の4名は参拝すると言わなかったので、学校は4名を出校停止にした。この高女の戸塚校長は日本キリスト教会の会員。また信仰養成に当たる担当者・羽田教諭はかつてフリーメソジストの牧師だった人物という。説得に応じなかった4名は無期限の停学処分になった。
  ホーリネス教会の吉持牧師は学校側に抗議して、安東新報に「キリスト教の唯一の神に仕える信仰のゆえに、いかなる神社への参拝も拒否する」との見解を公表し、公開質問状を出して、参拝拒否の理由を明らかにした。
・ 神社が現在の宗教的な形式・儀式を改めないかぎり宗教とみなす。
・ キリスト教の正しい信仰のゆえにいかなる神社参拝も拒否する。
そしてついに関東庁は、教団責任者・東京の中田重治監督に長文の電報を打って、吉持牧師が住人から生命を狙われているので、本人を満州から離れた地に転任させてほしいと依頼した。
中田監督は『事は憲法28条に関する重大問題であるので、軽々しく処置すべきでない。じっくり調査する必要がある。吉持と教会員の保護を願う、と返電した』
柏木義円、上毛教界月報、1930・昭和5年7月号)
・・・柏木義円は、1860―1937。群馬県の安中教会牧師。著書「書作集全2巻」
1972。「義円日記」全1巻。「上毛教界月報」は1898―1936・明治31―昭和11年まで、38年間、580号が、出版された。
    何回も発禁の弾圧も受け、何回も身柄拘束にもあったが、その都度教会役員の県議が警察署におもむいた。「雑誌出版」の財政的支援は教会役員の湯浅治郎がしていた。
    (湯浅治郎は新島襄から洗礼を受けた教会創立時の役員。元県会議長。廃娼運動の指導者。第1回帝国議会の議員)。
② もう一つはその2年後の「上智大学生の靖国神社参拝拒否事件」である。
 1932・昭和7年、上智大学の配属将校北原中佐が、学生たちを、満州上海事変戦没者合祀のため大祭が挙行された時、靖国神社に参拝させたが、「参拝しない学生が6名いた」。北原は、ホフマン学長に、学生たちはなぜ参拝しないのかと質問した。
  学長は「神社参拝はほかの宗教のものだから、参拝できないのだ」と回答した。
  そこで北原は陸軍省に連絡。陸軍省は、当大学からの配属将校の引き上げを通告し、将校の引き上げで学生の徴兵猶予の特典を取り上げるとの態度をとった。
  大学側はその責任のある教授と学生たちを処分し、さらに文部省の命令で修身科の教員はカトリックの信者でない者の担当に変更された。             
  司教区長・大司教シャポンは題の解決のために鳩山一郎文部大臣に文書を書いた。
  「カトリック教徒たる学生、生徒、児童が神社、招魂社参拝を要求された場合、参加を要求される理由は、《愛国心に関するものであって、宗教に関するものではないと考えられる》。団体として《敬礼に加わることを求められるのは、ただ愛国的意義をもつもので、少しも宗教的意義をもつものではない…》」。
 
  これに対して、10日後、文部次官から回答があった。
  「神社参拝に要求される敬礼は、愛国心と忠誠とを表すものである」
  この事件が一つのきっかけとなって、各教派内で「キリスト者の神社参拝」をする者は
  急激に増加した。

(4)宗教弾圧
  1935・昭和10年、衆議院は『国体明徴決議』を出した。
「政府は崇高なる国体と相容れざる言説に対しては断固たる措置をとるべし。」
この決議は東京帝大教授・美濃部達吉天皇機関説への排撃や「宗教弾圧」となって現れた。

・1935・昭和10年12月、政府は信徒800万の大本教を弾圧した。
  すなわち教祖の子、出口王仁三郎以下幹部60余名を逮捕起訴し、教団本部をダイナマイトで破壊させた。「日本近代史最大の宗教弾圧事件である」(村上重良)。
  大本教が国体変革を目的に結社を組織し政権奪取を企てたとの、改正治安維持法違反の嫌疑であった。

・またキリスト教の「灯台社」(アメリカのワッチタワー・ものみの塔の前身)明石順三への弾圧がなされ、1933・昭和8年、千葉県など全国で100余名が検挙された。
  かねてより指導者・明石は機関誌「黄金時代」で、反戦論、天皇制批判をおこなっていた。この教派の行動で特徴的なのは、二つある。
  一つは順三の子、真人と、村本一生の二人が、軍隊に入った後、銃器返納を行い、「なんじ殺すなかれ」のモーセの教え・十戒を実践する」と主張した点。
  さらに明石は,上官に『宮城遙拝・ご真影奉蔡拝』のごとき偶像礼拝および『天皇は神エホバにより造られた被造物であるから、…天皇を尊崇したり,天皇に忠誠を誓うことはできない…』と言って、懲役3年の刑。村本は貯懲役2年の刑に定められた。

(5)ホーリネス教団への弾圧
  1942・昭和17年6月、ホーリネス(新たに出来た日本キリスト教団の第6部)、旧日本聖教会(リーダー車田秋次、教会数298、信者数1万6千余。日本キリスト教団の第9部)、旧きよめ教会(リーダー中田重治没後・工藤久蔵、信者7千5百余)、さらに東洋宣教会・きよめ教会(リーダー森吾郎、日キ教団には未加盟)、3つの教派の幹部と牧師、合計134名が検挙された。
(米田豊「戦時下ホーリネスの受難記」1963)
  ホーリネス系教会への弾圧の理由は、いくつかあげられるが、その中心ポイントは「キリスト再臨」の教理が「国体を否定するもの」とみなされ危険視されたためである。
検察官は取り調べにおいて、地上に再臨したキリストによって地上に神のみ心が実現されるとするのは、日本の恒久的《天皇の統治と矛盾するし、キリストの支配は、日本の天皇統治権を制限し、弱体化し、否定するものだ》とみなした。

特高の取り調べで、菅野鋭(すげのとし。東海地区の責任者)は、「天皇陛下も罪人なのか」との尋問に対し、「天皇陛下が人間であられる限り、罪人であることをまぬがれません」。係官「天皇陛下が罪人なら、天皇陛下にもキリストの贖罪が必要だという意味か」。
菅野「天皇陛下が人間である限り、救われるためには、キリストの贖罪が必要であります」(山崎鷲夫「ホーリネス教会事件」1978)。
1944年12月、起訴された75名のうち、59名に有罪判決が下された。
これらの教団の幹部、車田秋次、米田豊実刑2年、井上馨(北海道)に、実刑4年。
小出明治(大阪)に実刑3年。その他のものは執行猶予つき判決。全員が大審院に上告。
1945年3月の東京大空襲で裁判書類が消失。同年11月マックアーサー司令部の命令で免訴となった。
しかも獄中裁判の中で、あるいは出獄後死亡した者が、5名いた。