建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平和研究(大学講座レジメ)4 富田満の神社参拝説得工作

3.ピョンヤンにおける富田満の神社参拝説得工作  1938・昭和13年6月

 

 朝鮮のキリスト者が「神社参拝」に抵抗した理由は三つあげられる。

(1)キリスト教信仰が神社参拝を祖先崇拝、偶像礼拝とみなして、拒絶させた。
「朝鮮のキリスト者は神社参拝を聖書の十戒に背くものと信じた」
(カンウイジョ「日本統治下の朝鮮の宗教と政治」1976)
朝鮮神宮は、1924・大正13年ソウルに完成し、その鎮座祭(落成式)が行われた。
神社参拝は国民に日本の「皇祖や明治大帝」を拝ませることで「国民の精神を統一し、朝鮮民族の『皇民化』を実現しようとの強い統治目的」をもっていた。
「神社制度は朝鮮の民族を『帝国臣民化政策』の基盤であった。神社参拝は、日帝の統治上の条件となった」(閔庚培「殉教者・朱基徹伝」1989、以下「殉教者」と略記)。
 さて朝鮮における神社参拝拒否の動きは、1924年ソウルでの朝鮮神宮鎮座祭・落成式に対するミッションスクールの参加拒否事件や、1932・昭和7年ピョンヤンでの満州出征戦没戦士慰霊祭に対するミッションスクールの参加拒否事件などにつながっていた。

しかし1932・昭和6年の「満州事変」以降、総督府のやり方は厳しいものに一変した。政府は満州侵略政策を進めつつ、他方でそのための兵站基地の役割を朝鮮に割り当ててきたのである。そのため強力な思想統制として「神社参拝」の強要が行われた。
具体的には、1935・昭和10年11月、ピョンヤンのミッション・スクールの校長の会議の冒頭で、知事が神社参拝を強制した。これに対して2人の校長、マッキューンとリーが参拝を拒否。安息教・セブンスデイ・アドヴェンチストの校長・宣教師のリーは、神社参拝拒否から参拝へと態度を変えたため、ピョンヤンの教会と神学校で、排斥運動がおきて、リーはその地からも朝鮮からも去っていった。
そのほか朝鮮のキリスト者の教師カン(スヌーク校長の代理)ら5人のキリスト者教師が参拝を拒否する事件が起きた。彼らが拒否した理由は、知事宛のマッキューン校長の手紙によれば、こうであった。
「神社は天照大神の霊と明治天皇の霊が祀られていると知事は言われたが、私はキリスト者としてそこで頭を下げることは、自分の良心と神の戒め〔十戒〕を犯すことになる。このような参拝強要は帝国憲法(第28条)で保証された信教の自由に反している。」
さらにこの時、ピョンヤンの牧師・長老たちは、マッキューンらに強く要望した。
「朝鮮の教会は50年の間、祖先崇拝を厳しく禁じてきた。それを破ると破門された。
宣教師は教会の教えに反した行動をとらないでほしい」(沢「朝鮮キリスト教史」)
翌36年1月マッキューン、スヌーク女史両校長は知事によって国外退去とされた。
(1614年徳川幕府キリシタン大名高山右近一族をルソンに追放して以来の事件)

(2)朝鮮のキリスト者が神社参拝を拒否した第二の理由は、教会の持っていた民族意識が神社参拝を拒否させたゆえである。
 朝鮮のキリスト者から見て、神社は朝鮮を支配している日本帝国の、民族を異にする国の宗教であって、その押しつけは「神々の侵略」(中濃教篤)として、反日的な感情をひき起こすものであった(カンウイジョ、沢)。
  1945年8月15日、日本が戦争に負けた日、朝鮮の人々は手にナタやまさかりをもって近くの神社を襲って破壊したという。
「神社参拝と教会との本質的な対決は、そもそも宗教的次元にとどまる性格のものではなかった。神社問題に名をかりた統治者と被統治者間とのイデオロギー的対決に展開せざるをえないものだった」(閔庚培「殉教者」)。

(3)第三に、朝鮮のキリスト者が神社参拝を拒否したのは天皇イデオロギーの問題である。これには二つのポイントがあって、一つは「天皇の神格化の拒否」である。
1935・昭和10年、「わが国体と相いれざる言説」(国体明徴決議)そのものが、朝鮮のキリスト者には存在していた。
神社参拝拒否のリーダーの一人李基宣への総督府・予審調書はこうしるしている、
天照大神をはじめ歴代の天皇は、神エホバの被造物なるアダムとエバの子であるから、《不完全な人間にすぎない》。しかるにこれを祀る日本のあらゆる神宮、神社は偽神、偶像を祀るものである」。
 もう一つは「キリスト再臨」という独自の教理・終末観の問題である。それによれば、
日帝の植民地支配の下にある朝鮮にキリストが到来(再臨)して、日本帝国を含む世のあらゆる国家を転覆して、「地上にキリストが統治する国を樹立、民族差別、神を信じる人々への圧迫のないところの、地上の神の国、いわゆる『千年王国』を建設する」というものである(李基宣牧師への予審調書。閔庚培、前掲書)。
総督府も内地の官憲も「キリスト再臨」の教理には、「天皇の絶対的統治権に敵対するものとして」特に神経をとがらせ、この教理を強調した日本、朝鮮双方の教団をマークし続け、「不敬罪」(改正治安維持法)をもって弾圧した。
朝鮮における聖潔教会(ホーリネス)、安息教(セヴンスデー・アドヴェンチスト)、双方の灯台社が弾圧され、聖潔教会、東亜キリスト教会は、教派自体を解散させられた。
 総督府が教会に対して、神社参拝を強要し始めたのは、1936・昭和11年8月、総督府に南次郎総督着任後からであった(学校に対する「参拝強制」はその前年から)。
南総督は、特に37年秋以降、朝鮮の国民に「神社参拝、皇居・東方遙拝、日の丸掲揚、国歌の奉唱、臣民の誓詞の斉唱などの《皇民化政策》を指示し、これを阻害する者は絶滅掃討する、と命じた。                                                                                                                                   
朝鮮のキリスト教の教派のうち第二のカトリックと第三の教派の、メソジスト・監理教とは1937年7月神社参拝の決議を出していた。したがって参拝決議を出していないのは、最大教派である長老教会のみとなっていた。この教派に対して、総督府は徹底した「神道による皇民化政策」を出してきたのだ。
    このような状況の中、富田満はピョンヤンを訪問した(1938・昭和13年6月末から2週間)。富田満は、同じ長老教会系の教派、日本キリスト教会の議長。1941年には新設された「日本キリスト教団の初代・統理者に就任」。富田はその翌年1月鈴木浩二総務局長と共に伊勢神宮に参拝した。
      さらに富田は1944年10月、「日本キリスト教団より大東亜共栄圏にあるキリスト教徒に送る書簡」を統理者名で朝鮮、アジヤの諸教会に送付した。この二点は富田満の「戦争責任」を糾弾されるポイントである。
  さて彼のピョンヤン訪問の目的は、9月の朝鮮長老教会の総会に向けて「神社参拝の妥当性を説得する工作」のためであった。
 
  討論集会の会場はピョンヤン最古のサンジョンヒョン教会、1300人収容の大会堂で、牧師はプサン教会時代から参拝反対派のリーダー朱基徹。集会前日まで予備拘束で地元警察に留置されていた。
「神社問題」についてのこの懇談会には、四つの老会から四名の論客が集合していた。
総督府は、この「懇談会」の準備として様々な「備え」をしていた。
富田は6月30日の夜の「講演」において、かねてより日本政府の、
  「神社は国家の儀礼であって、神社参拝自体は忠君愛国の表明であり、『神社は宗教にあらず』」との公式見解を繰り返した。それゆえ日本政府は朝鮮の人々の持っている信仰を圧迫したり、帝国憲法のいう「信教の自由と矛盾するものではない」と説いた。これに対して当教会の朱基徹牧師は富田の主張を「通訳を介して反論した」(福音新報1938年7月7日、21日号)
韓国側の牧師たちは、日本語の会話はできなくとも、読むことは不自由しないので、日本の神学者らが書いた文献は読んでいた。「神社も宗教のひとつだとみなす立場」の文献を読んで知っていて、じりじりと追求していく。富田は追い詰められて、朝鮮の牧師たちに反論した。
「諸君の殉教精神は立派だが、いつ日本政府は、キリスト教を捨てて神道に改宗せよと迫ったか。その証拠を示してもらいたい。政府は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したにすぎない」。
  「各地の警官が〔キリスト者の住人を警察に呼び出して、キリスト教信仰をやめて神道に入れと〕個人の宗教思想をもって諸君に迫ったと言っているが、国家はこのようなことがなされていることを承認してはいない。キリスト教が禁止された時にのみ、われわれは殉教すべきである。明治大帝が世界に類をみない宗教の自由を賦与されたものをみだりにさえぎるのは冒涜に値する…」。

  朱牧師らは日本語で書かれた「神社は一つの宗教だと説く文献」を引用して富田を追求し続けた。論戦は深夜1時になっても終わらず、とうとう短い夏の夜が明けてしまった。
集会の会場には私服の警官が2名いただけであったが、会場を取り巻いた群衆の中には、多数の私服警官が富田を護衛するために警戒していた。
 
富田の『キリスト教が禁止された時にのみ、われわれは殉教すべきである』との発言は
「情勢認識を致命的に欠いたもの」であった。その理由はいくつかある。
第一に、当教会の牧師・朱基徹はこの集会の前日まで地元警察に拘束されていたこと。
拘束の理由はその7年も前、釜山の教会時代から神社参拝反対派のリーダーの一人であったゆえである。
第二に、「何十人もの警察官に守られなければならないキリスト教の集会とは何ものであろうか」(閔庚培)。
第三に、総督府の警察部長と特高課長が、集会後、富田を駅や途中駅まで見送りに来た点は注目すべきである。警察幹部の見送りは、富田らの訪問が《総督府の統治に大きな成果をもたらした》からである。
第四に、総督府の役人も、平安南道の当局者も富田の働きに対して大いに感謝した。
「朝鮮統治上最大の難問題の解決に一歩進めたものである」
(松山常次郎の論文「神社問題とキリスト教」1938)。言い換えると、神のほうを見ないで、その地の《支配者に迎合した演説を住民に対してなす。これは20年以前、3・1運動の時期、渡瀬常吉がなした植民地伝道の誤りの再現であった》。

  さて富田の訪問の2カ月後の、9月9―10日ピョンヤンで、長老教会の総会が開かれた。総会に集まるのは27の老会から選ばれた牧師86名および長老(役員)85名、宣教師22名。計193名。
特に、牧師と長老は故郷の警察署に前もって呼ばれて、神社参拝に反対しないように約束させられた。約束しない者は総会には参加できなかった。
彼らはピョンヤンに着くともう一度警察はその約束を確認した。教会堂の周りには数百名の私服警官が包囲していた。そして総会2日目、総会は神社参拝を受け入れるとの決議を出した。
「われらは、神社は宗教ではなく、キリスト教の教理に違反しない。神社参拝が《愛国的、国家儀式である》ことをよく自覚し、したがって神社参拝を率先して励行することを期す。1938年9月10日」
この神社参拝決議は、朝鮮の教会自らの必要からなされたものではなく、圧倒的な公権力(総督府と警察)が総会という場を奪い取った決議であった(沢)

→①この決議が出されたことに対する日本人の総督府、警察の罪
    行政当局の、総督府の総督南次郎、ピョンヤンのある平安南道の知事、平壌警察部長らには罪がある。自分たちの持っていた権力を行使して、決議が出されるように行動、命じたたからである。
  ②日本の教会にも罪がある。
    神社参拝の決議が出されるように神学的理論付けをなし、総督府の支援を受けて朝鮮の教会を、激励するどころか、逆に教派ぐるみで長い間自分たちが仕えていた偶像の神々へと朝鮮の教会を誘い込み、神に背くように導いたからである。
    総督府の行政的、警察的権力とは異なるが、その権力の後押しを受けて、それを頼みにして、日本の教会、日本キリスト教会議長・富田満が、朝鮮の教会、牧師、役員に《圧力をかけて》彼らを誤った道に歩ませた罪は明らかである。

総督府による弾圧
 さて総督府によるキリスト者への弾圧をまとめておきたい。
呉允台の「日韓キリスト教交流史」によれば、総督府の弾圧によって廃止された教会200余。投獄されたキリスト者2000余。神社参拝拒否で投獄された者131余。
そのうち朱基徹牧師が獄中で殉教、そのほか9名が獄死。
朱基徹牧師、蔡延敏牧師ら50名は監獄で殉教、残りの20余名が出獄した(閔庚培「韓国キリスト教史」1974)。
獄死した牧師・長老たちは、田沢圭牧師(浸礼教会)、李栄漢(メソジスト)、崔エボンソク牧師、朴寛俊長老(呉、前掲書)。
また、教派解散命令を受けたのは聖潔教会、東亜キリスト教会(いずれもホーリネス系)など。日帝支配の末期には,金礼ヨウ、李ヨンジュ(安息教)、尊ガブジョン(聖潔教会)が獄死・殉教した。
「朱基徹牧師が殉教したのは、神社参拝がキリスト教の中心にある真理に挑戦したからである」(「殉教者」)。

殉教者のことを聖書は「血の証人」(マルトス)というが、彼らには次の言葉が妥当する。
「その思想のために血が流されることをとおして、その思想の真理性が証明される」
(19世紀、デンマークキルケゴール「非学問的後書」1840。客観的な真理の「証明方法」は実験などがよく知られている。他方「ある主体的真理」(宗教など)が真理であるとの証明方法は、その真理のためにその者が自分の生命を賭ける、ある場合殉教する、ことによって証明される)
  地動説を唱えたガリレオは、カトリックの弾圧を受けると自説を撤回し、彼の著書は焚書にされたが、命は長らえた、1632年。他方神について論じ、反地動説を主張したジョルダノ・ブルーノは、自説を撤回せず焚刑にされた、1600年)。