建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

平和研究(大学講座レジメ)5 キリスト者の戦争責任の懺悔・告白

4.キリスト者の戦争責任の懺悔・告白

(1) 1946年1月、日本キリスト教団(日本のプロテスタントの最大教派)の指導部・ 常置委員会と統理者・富田とは、「戦時中における教団立法行政の実相――戦争責任は何人か」の「総括文」を発表した。
    戦時下日本キリスト教団指導部と統理者・富田満の戦争責任については、いくつかの点をあげることができる。
 ① 1938年7月、朝鮮のピョンヤンにおいて長老教会がその総会において「神社参拝決議を挙げるように説得した工作」は、神社参拝についての日本政府の見解を『愛国的国家儀礼』として受け入れるように朝鮮の長老教会に迫ったもので、政府見解を鵜呑みにして、朝鮮のキリスト者に神社参拝をするようにし向けた。
 ② 戦時下の統理者富田満に限定すると、1942・昭和17年1月、富田は鈴木浩二教団総務局長と共に、伊勢神宮に参拝した。そして「我が国における新教団の発足(前年に成立した)を報告し、今後における発展を願った」(教団時報)。
    これへの懺悔・告白をしていない。
 ③先の戦時下教団の活動において、まず統理者であった「富田は責任をとって辞職しなかったこと」の問題がある。
   また先の総括文は「教団関係者(通常、常議委員会と呼ばれている)は能動的に戦争を指導した覚えはない。…教団は、政府、軍部の強調する戦争目的を要求されるまま《部内に宣伝しただけである。政府を信頼して安心してそれを取り次いだまである》」と述べたが、問題はそこにある。
    すなわちナチス・ドイツ戦争犯罪を裁いた「ニュールンベルク裁判」(1946年、戦犯として告発された22名が裁かれ、19名が有罪、うち死刑判決12名)。
    特に注目すべきは、軍隊などにおける最高幹部でなく、中間的幹部において、「上官の命令に従っただけで自分には責任がないという軍人たちの言い分は、厳しくは退けられた点である。
    戦争の場合の命令に服従した者も、その実行に対する加害者責任が追及された。 
 ナチス・ドイツは、ユダヤ人をアウシュヴィッツなどで、600万余を殺した。
    ユダヤ人は、戦後親衛隊隊長アイヒマンらを戦犯として追跡し続けて、南米で確保、連行。イスラエルは刑法をあえて変えて裁判後彼を死刑にした。欧米諸国は何も言えなかった。   
 ④戦時下、日キ教団の機関誌「教団時報」は、信徒らを戦場へと駆り立てた。
    例えば「教団時報」は次のような記事を掲載していた。
    「…われわれ一億国民は、みな悠久の大義に生き、私利私欲をすててひたすら国難に殉ずることを求められている。しかるに《この国難に殉じるところにこそ福音への立証があり、殉教がある》。前線に召された者は、前線においていさぎよく大君〔天皇〕の御盾となって国難に殉じるべし」
    (1944年9月教団時報天皇のために死ぬことを「殉教」と呼んでいて、ひどい歪曲をしている。本来殉教とはキリストのために死ぬことであるから。)
    「今はただ前線の将士のみならず,銃後の国民一同が大君の御盾として生命を捧げるべき時である。…預言者イザヤ(前730年ころ)は『剣をかえて鋤きとなせ』と叫んだが(イザヤ2・4)、今はその反対に『すきをかえて剣となす』べき時代である。今日においては、われわれのメッセージは戦争のメッセージでなければならない」
    (1945年1月。政府の戦争の方針に盲従しているだけの、不甲斐ない教団指導者らの姿が明らかとなる)。
 ⑤教団の総括文は言っている。
  「…教団の戦争責任を負うべきだというのであれば、各個教会の責任者が平等にそれにあたらなくてはならなくなる」と。
  この責任回避の姿は、統理者として卑怯である。
  2年半前の1943年11月には、富田は「大東亜共栄圏キリスト教的解釈」とのラジオ講演で「余は《重責ある日本キリスト教団統理者として》明言する」と言ったし、
  1944・昭和19年10月「日本キリスト教団より大東亜共栄圏にあるキリスト教徒に送る書簡」を「統理者富田満」の名で送りつけた。
 富田は、教団トップと各個教会の牧師とが「平等に戦争責任を負うべきだ」と主張したが、教団の統理者と一人の牧師の負った責任は、断じてイコールとはならない。
  1と5千が等しいというのと同様,非科学的な戦争責任からの逃亡論である。

 

(2)戦争責任の「懺悔・告白」
  1995年は、「敗戦50周年」に当たっていた。
・日本のカトリックの「正義と平和協議会」は9ページの「罪責告白文」と膨大な「資料集」(B4版130ページ)を公にした。その内容は優れたもので、当時土井大司教(後に日本最初の枢機卿)が戦時中、青年の信者に向かって説いたことを暴露した。
 「兵士として戦場におもむくことが、神の深い配慮である」。
   この中で、「神社参拝について」こう懺悔した。

 「日本カトリック教会は、国家権力の圧力と介入があったとはいえ、1932年のいわゆる『靖国神社参拝拒否事件』を契機に『愛国心の表明』として神社参拝を受け入れ、後には同じことをアジア・太平洋諸国の兄弟姉妹にも強制しました。」
  (むろん上智大学生の靖国神社参拝拒否事件のこと)
プロテスタントの小教派の連合体「福音キリスト教連合」もすぐれた「罪責告白文書」を出した。一番注目すべき点は、彼らの告白文書の中に「天皇崇拝」「偶像崇拝」という用語、思想をはっきり書いた点である。
「私たち日本の教会は、かつて国家神道のもとで天皇を現人神(あらひとがみ)とすることで《偶像崇拝》の罪を犯しました」。
「日本の教会は、アジア地域における日本国家の植民地支配、占領政策に協力したばかりでなく、アジアの人々への神社参拝の強要にも積極的に協力しました」。

プロテスタントの最大教派、日本キリスト教団はなんの戦責告白も出さなかった。

敗戦50周年の時には、戦時中の自分たちの行動について「弁解する人々」も出てきた。たとえば、カトリックの小説家・曾野綾子氏はこう述べている。
「戦時中、私たち(カトリックの信者)は『天皇の写真にお辞儀をしたが』文部省、軍部が何と指導しようと『天皇が私たちの神になった』わけではなかった。外面でどのような『風習』に従おうと、心を売ることはなかった。」
(キリスト新聞、1995年7月22日号)。
天皇の肖像は、天皇制国家においては「イコン・聖像」であった。
聖像へのお辞儀は、当局や周囲の者には、「礼拝」と見える。当人には「敬礼」、他者には「礼拝」という分裂、これが「偶像礼拝」の特徴である。
曾野氏の発言の問題点を一つだけ取り上げたい。
ドイツの神学者ボンヘッファーは、「戦時下の日本における天皇崇拝」について述べている。ポイントは行為者自身の意図や意識でなく、その行為が他者にどう見えたかである。
 「日本におけるキリスト者は最近、国家の皇帝礼拝(天皇礼拝)への参加を許されたものと解釈してしまった。よくよく考えなければならのは、第一に、その行為が他の神々を崇拝していると他者に見える行為は、避けるべきである。第二に、キリストを否定するように他者に見える行為は、避けるべきである」と(「モーセの第一の板」1944)。
 曾野氏の神社参拝の姿は、他の人々から見て《神社を参拝しているとしか見えないのではないだろうか》。

 周知のようにドイツは1945年10月に教会の公の「シュツッツガルト罪責告白」を公表した。この告白文書を作った一人は、ベルリンの教会の牧師、マルチン・ニーメラー。彼はナチス・ドイツの命令を聞かないで、終戦まで8年間牢獄に入れられた。
D・ボンヘッフアーも2年半投獄され、最後はナチスに処刑されて、遺体の埋葬の場所が分からず、墓もない。彼は神学者であったが、ヒトラー暗殺計画に参加して投獄された。(3月に封切られるアメリカ映画「ワレキュ-レ」は、彼も所属したヒトラー暗殺計画組織の活動を描いたもの)。
 彼は2ページにわたって、「罪責の告白」を記しているが、これを「教会の戦争責任の懺悔・告白」として解釈することができる。ほんの一部を引用したい。
 「教会は排斥された人々に、当然なすべき憐れみの行為をしばしば拒絶した。罪なき人々の血が天に向かって叫んでいるのであるから、教会も叫ぶべき時に教会は沈黙していた。教会は信仰にそむくことに『血を流すまでの抵抗』(ヘブル12・4)をしなかった」。
 「教会は暴力の行使、罪なき人々の肉体的精神的苦しみ、抑圧、憎悪、殺害を見たのに、彼らのために声を上げることをせず、急いで助けに行くことをしなかった罪を告白する。教会はもっとも弱く、寄辺ないキリストの兄弟たちの生命に対して罪責がある」
 「教会は自分で押し黙ることによって、介入していく勇気、正しいことのために苦しむ勇敢さを欠いていたことに罪責がある」(「倫理学」1948)。

 

(3)最後に、「特にキリスト者が、政府の戦争政策に反対できなかったのはなぜか」。
 1993年当時、日本キリスト教団議長・辻宣道は、「歴史に対する『社会科学的認識がキリスト者に欠落していたから、キリスト者はあの戦争に巻き込まれていった』と解釈した。(1993「ホーリネス教会と私たち」)
この見解を支持する者は、宮田光雄などかなり多いが、私はこの意見に賛成できない。

その理由は、キリスト者で戦争に反対し続けた人々は、ごく少数である。
柏木義円群馬県安中教会牧師。1938・昭和14年78歳で没)
浅見仙作(内村鑑三の無教会、反戦活動のゆえ2年間投獄され敗戦の2カ月前無罪判決を得た、その時77歳。)
菅野敏(すげのとし。ホーリネス幹部。59歳で獄中病死)
矢内原忠雄(無教会、東京帝大教授。1937年辞職。敗戦当時52歳)…。
 彼らの行動を見て分かるように、これらの人々で「歴史への社会科学的認識」を持ったことが妥当するのは、柏木義円と矢内原のみである。戦時下「歴史への社会科学的認識に立って戦争反対をとなえた者」は一人か二人だった。他の視点が必要であろう。
 
  キリスト者に欠落していたのは、「国家と宗教」という視点であった、と私は考える。
 (真宗大谷派の鈴木徹衆先生によると、大谷派の現代宗教研究所の分析も相沢さんと同じく、「国家と宗教」という視点・構えが欠落していたから、と解釈したという)。
「国家と宗教」ついて、イエスは言われた。
「カイザル(皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」マタイ22・21。政教分離を説いている。この世の政治権力は、神(宗教)の領域には力をふるってはならない、との立場である。
 欧米各国との「関税自主権」を承認させる目的の、明治5年の「岩倉具視欧米視察団」は、ベルギーで彼らの馬車が市民に取り囲まれて、キリシタンを釈放せよと迫られ、その時点で「キリシタン禁制の高札」を下ろして彼らを釈放せよとの命令を出した。キリスト教を禁止するような国家を欧米諸国は「近代国家」と認めないのである。
 「国家と宗教」について、宗教改革者ルターは述べている。これは激しい思想である。
 「あなたの君候や領主が、(カトリックの)教皇の側につけとか、これこれのように信ぜよとか、あなたのある本(ドイツ語訳聖書)を捨てよと命じても、服従するな。ご主君様、地上におけるあなたの権力のはかりに応じて私にお命じください。そうすれば私は従います。しかし私に『信んぜよ、とか、本(ドイツ語聖書)を捨てよ』と命じなさるならば、私は従いません。すなわちあなたが君候に逆らわず、彼に場所を譲って、彼があなたから信仰や本をとるままにしておくならば、あなたは本当に神を否定したのだ。
 一例をあげると、マイセン、バイエルンなどにおいて、暴君どもは新約聖書を役人に引き渡せという命令を発した。ここで領民たちは自分たちの救いを失ってまで、1ペ-ジ、1字たりとも引き渡してはならない。…」
(1522年「この世の権力について」徳善義和訳)。

 明治維新のころ、長崎のキリシタン・高木仙右衛門は仲間66名と共に弾圧され、「心の内ばかりで信ぜよ。ヤソの神を信じていると人には言うな」と幕末の長崎奉行・河津伊豆守は迫ったが、その時仙右衛門は「心の内ばかりで信じることかないません」と拒否した。仙右衛門は罰せられることもなく、釈放された(1867・慶応4年)。
  しかし1869・明治2年、長崎のキリシタン3394名が逮捕され各地の藩に流刑となり、仙右衛門らは山口県の津和野に流刑となった。4年後、1873・明治6年1月、先に述べたベルギーでの岩倉一行を群衆が包囲する事件が起き、長崎のキリシタンは自由の身となって故郷に帰った。流刑にあった3394名のうち、拷問、病気、栄養失調で662名(20%)が流刑中、死去・殉教した。