建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅰ.囚われ人の希望-3 強制労働-労働の意味は給料にあるのか

強制労働-労働の意味は給料にあるのか
 ドストエフスーは「心をこめた過度の仕事、これこそ一番の幸福です」と拘置所から兄宛の手紙に書いた。石川啄木も「こころよく 我に働く仕事あれ それをし遂げて死なんとぞ思ふ」と歌った(「我を愛する歌」)。現代人にはこのような「心をこめたオーバー・ワークやこころよく働く仕事」は一部の例外をのぞいて、ほとんど与えられていない。私たち現代人は、どちらかといえば、仕事自体に意義とやりがいを見い出すからではなく、給料がほしいから働くのである。仕事の意義が仕事自体よりも仕事の報酬のほうに重点があって仕事が収入を得るための手段となっているとしたら、そこに恐ろしい転倒が起きていることになる。
 カール・マルクスが「労働による自己疎外」について語ったことはよく知られている。「労働者は自分の生命を対象(生産物)の中へと注ぎ込む。しかも対象に注ぎ込まれた生命は、もはや自分のものではなくなる。したがってこの生産物が大きくなればなるほど、労働者はますます自分を失っていく。労働者が自分の生産物の中に自分を外化するということは、単に自分の労働がある外的な現象的存在になるということばかりでなく、また自分の労働が、自分の外に、自分から独立して疎遠なものとして現存すること、そして自分が与えた生命が自分に敵対的なもの、疎遠なものとして対立することを意味する。…彼は自分の労働において肯定されずに否定され、幸福とは感ぜずに不幸と感じ、彼の肉体は消耗し、精神は類廃する。だから労働者は、労働の外で(休日や退社後)はじめて自分が《自分のもとにある》と感じ、他方労働の中では自分が《自分の外にある》と感じる。…次に、そのため労働はある欲求を満たすため(やりがいのある仕事をしたという目的のため)ではなく、労働以外のところでの諸要求を満たすため(収入を得るため)の手段にすぎなくなる。…人間がその中で自分を外化(疎外)する労働は、自己犠牲の、自分を苦しめる労働である。さらに労働者にとってこの《疎外された労働》は、その労働が自分自身のものではなく他人のものであること、これが労働者自身の喪失なのである」(「経済学・哲学草稿」一八四四、翻訳岩波文庫)。
 一九三五年、 フランスの自動車工場において女工の奴隷的労働に八ヵ月間携わった哲学教師シモーヌ・ヴェーユ(一九〇九~四三)はその体験の一端をこうしるした、
 「奴隷的労働の隷属状態には二つの要素がある。スピードと命令。スピードとは注文を完了させるために、一つ一つの操作を思考よりも早く考え事のひまさえないほどずんずん続けてやらなければならない。いったん機械の前に立つたら、一日八時間自分の魂を殺し、思考を感情を殺さなければならない。命令とは出動したら退社の時間まで、命令に黙つて服従しなければならない。自分が機嫌が悪くても、いらいらしていてもぐっとこらえなければならない。こちらの行動は四六時中労働に縛られている。こういう状況では人は意識をもっことができない」「土曜の午後と日曜日だけ、私は息をつき、自分を取りもどし、精神の中に思考の機能を取りもどした。こうゆう生活の中で一番打ち勝ちがたいのは、完全に思考を断念したくなる誘惑である」(「工場日記」、「労働と人生についての省察」一九五一所収、黒木義典訳)。ヴェーユの奴隷的労働は、むろんその肉体労働に対して賃金が支払われた(彼女の場合は「時給」であった)。
 囚われ人は共通して強制労働を課せられたが、賃金は全く支払われなかった。言い換えると、娑婆の人間が労働に対してもつ《収入を得るという労働の意味》が、囚われ人には始めから奪われていたのだ。それでも彼らは働かされた。一銭にもならない労働を囚われ人はどのようにして遂行したのだろうか。
 ドストエフスキーは、囚人の強制労働の苦しさは、労働の内容や長さにあるのではなく、むしろ《強制されてしなければならないことにある》、 例えば自由な農夫は囚人よりもはるかに余計に働くが、 はっきりした目的があって、また《強制されずに働く》のであるから、はるかに楽だ、と語っている。
 「死の家の記録」の中に、囚人たちが古い荷舟を解体するシーンがある。この作業で囚人たちの仕事ぶりが、監督の兵士たちの指図・監視のもとで定刻までやる場合と、他方仕事の全体量が始めから定められていて、手順や人員の配置については囚人たちの自主性、裁量に任される「請負い」の場合とでは、彼らの働きぶりがどのように変化したかが見事な筆致で描かれている。
 監督の指図で定刻までの場合、囚人たちは現場に着いても一人も作業に取りかからず、みな腰をおろし、中には長靴からたばこ入れを取り出して吸いはじめる者もいる。彼らは何度か「請負い」を頼んだが監督の兵士は許可しなかった。やがて監督にどなられて、しぶしぶ腰をあげて河のほうへ下りていく。おっちょこちょいの一人が、張り切って作業に取りかかっても、誰も手をかさない。それどころか古参の仲間から、でしゃばりめと非難をあびた。早く始めろ、と監督がまたどなる。一同はやっと作業を始めるが、気乗りしない投げやりの仕事ぶりで、古い木造の舟を解体して、舟体の太い材木を折らないで取りはずすよう指示されていたのに、かんじんの材木は折れてしまった。監督は技師を呼びにいった。やってきた技師は請負いを許可した。四本の太い材木を折らないで取りはずす、舟は解体する、それが終ったら帰つてもいい。
 「請負い仕事としてはこれはたいへんな量であった。しかし驚いたことに、一同の張りきりぶりはすさまじいものであった。あの大儀そうなそぶりはどこへ姿を隠してしまったのだ。斧の音が高らかに鳴り響き、木釘はつぎつぎに抜かれ始めた。ほかの連中は太い丸太を何本が下にあてがい、二〇本の手でそれにのしかかるようにして、元気いっぱい手ぎわよく材木を取りはずした。材木は今度は少しも傷つけられずにそっくりそのまま無事に取りはずされたのには、私も思わずあっけにとられた。みんなが急に頭がよくなったようなあんばいであった。一人一人みんな、自分のすべきこと、なすべきこと、どこにいたらいいか、どんな注意を与えたらよいかを、ちゃんと心得ていた。終りの太鼓が鳴るきっかり三〇分前に決められた仕事はきちんとかたずいた。そして囚人たちは疲れていたが、すっかり満足して帰途についた」(第一巻の六)。
 ここには強制労働に「請負い」が導入されることで、強制の要素が減殺されると、囚人たちがどれほどよみがえったようになったか、監視や指図によっては阻まれていた自分の能力、熟練、自発性と創意を発揮するチャンスが与えられることで、どのように彼らに魂が吹きこまれたか、が生き生きと描写されている。
 そればかりではない。囚人たちが「一銭にもならない」その作業と格闘して「疲れてはいたがすっかり満足して帰途についた」事実は、現代の私たちの仕事への意味、収入のために働くという意義づけに対して重大な問いを投げかけている「収入を得るために働くというのが仕事の真の意味なのか、では一銭にもならない場合は働かないのか」と。さらに、監督の指図のもとでの囚人たちのやる気のない姿は、仕事の真の意味を求めてやまない彼らのプロテストの姿である。 仕事そのものは給料のためにやむなくしぶしぶやるものではなく、自発性に基づき、仕事自体にやりがいがあり、自分の個性、能力、創意を発揮できてそれに生涯打ち込めるような仕事、まさしくそのような作業に彼らはあこがれていたのだ。そのあこがれのゆえに、彼らは働いたのだ。
 シモーヌ・ヴェーユも奴隷的な労働からの解放の手段と考えたのは、 労働時間の短縮や給料のアップ、単純作業のオートメイション化などではなく《働くことの究極性を獲得する》という見解であった。彼女は、この究極性として「美」「詩」と「神」を労働者の世界に導入することをあげた。「労働者たちの条件は、人間存在そのものを構成している究極性が神によってしか満たされない、そのような条件である」(「奴隷的でない労働の第一条件」、前掲書)。
 さてドイツの神学者へルムート・ゴルヴィッツアー(一九〇八~九三)は、ドイツ教会闘争の闘士マルチン・ニーメラー牧師がナチス・ドイツに抵抗して逮捕、拘束された後、ベルリンのその教会の牧師となった。しかし彼自身も激しい抵抗をしたため、懲罰的に一兵士として(従軍牧師としてではなく)ロシア戦線に送られた。そしてソ連軍の捕虜となり五年間、ラーゲル・捕虜収容所の生活を強いられた。帰国後その体験を本に著した「欲せざるところに引かれ行く」(一九五一)。この本が出版された当時、彼はゴリゴリの反共主義者というレッテルをはられたという。 戦後まだソ連の状況が欧米や日本において正確に把握されていなかったために、彼が事実に即して自分の体験を書いても、ソ連ユートピアとみなしていた欧米の左翼的文化人らからこのレッテルをはられたようだ。私の知るかぎり彼自身は欧米の神学者の中で最もマルクス主義文献に造詣が深い。後に彼は「マルクス主義の宗教批判とキリスト教信仰」(一九六二) を著したほどだ。一九五〇年代から核兵器廃絶の運動にも参加して論文を書いている(「自由の要求」)。さらにカール・バルトが推薦したのに、彼が共産主義のシンパであるとの疑いによって、バーゼル大学教授就任は否決されたという。日本人のシベリア抑留体験記の嚆矢に属す高杉一郎の「極光のかげに」も出版当時(一九五〇)同じように反共主義者と非難されたが、クールに読んでいくと、高杉の立場はソ連の善いところは善いと評価しているので、公平だと思った。
「使従パウロの手紙にある、(キリスト者の)奴隷に対して言われた言葉が、当時(古代ローマ)の人々にとってどんな意味をもっていたか実際はっきり見えるようになったことも、ラーゲル(強制収容所)における体験の一つであった。当時の人々は理性的には人間らしい関わりなど生まれてこない奴隷の仕事に対して、あくまで人間らしく行動するための道を開くことができたのだ。パウロは、奴隷のキリスト者に『あなたがたのすることは《人に対してではなく、主キリストに対してするように》魂を打ち込んでしなさい』(コロサイ三・二三)と語った。シャベルを一回土に押し込むという《強制労働》から《主キリストに対して仕えること》へと変わるようにしなければならない。しかしそれは言うに易く行い難い、という人もあるかもしれない。使従のこの言葉は、けして外から、また上から要求として語られたものではなく、むしろ自分にそのようなことが起きる可能性として約束されたものだ。そして現実に、この言葉によって活路が開かれた。すなわち強制労働はどんなことがあっても、強制労働であってはならない、私は無意味な強制労働を意味の深いキリストへの奉仕と変えることができたのだ。このやり方は、労働に対してキリストに仕えるという気持で立ち向かうことである。どこか気の向かない、食べるためにこき使われている人々は(今日こういう人は実に多いと思うが)必ずや納得してくれるだろう」(ゴルヴィッツアー、前掲書)。
 ここではシモーヌ・ヴェーユが問題にした「労働の究極性」のポイントが取り上げられている。ゴルヴィッツアーの「強制労働をキリストへの奉仕に変える」という体験はすご味がある。彼自身は、別の箇所で「過ぎ行くものに意味を与えるのは、ただ不滅のものだけである」とのアウグスティヌスの言葉に言及している。これが彼の獲得した強制労働における「究極的なもの」であり、この認識が彼を五年間の奴隷的労働に耐えさせたのだと感じられる。
 旧ソ連の作家アレキサンダーソルジェニーツィン(一九一八~)の強制労働の体験を取り上げたい。彼が砲兵隊の将校としてナチス・ドイツと束部戦線で戦っていた時、友人への手紙に首相スターリンについて不用意なことを書いた(ちっと批判した)ために、国家反逆罪に問われて戦線で逮捕され、政治囚として八年の刑を受けた(一九四五)。それで八年間のラーゲル生活と三年間の流刑生活を課せられた。二七~三九歳までの時期である。彼の書いた作品は大部分この間の体験に基づいている。「イワン・デニソヴィチの一日」(一九六二、ノーベル文学賞に選ばれたが政府に出国を拒否され受賞式に出られなかった、後にイギリスで映画化)は政治囚だけの特別収容所での体験、「第一圏(煉獄のなかで)」(一九六八)は数学者として特権囚だけの学者グループでの四年間の生活(後にテレビドラマ化)、「ガン病棟」(一九六八) は出獄後、流刑地カザフスタンタシケントでガンのために一年間入院した体験、を基にしている。「収容所群島」(一九七二~七五)は一〇年間を費やして著したもので、ソ連のラーゲルものの集大成であり、邦訳で全六巻、二四〇〇ページに及ぶ。この本の出版をめぐって彼は「作家同盟」を除名され国外追放処分となり、一九九五年に帰国をはたした。
 さて小説「イワン・デニソヴィチの一日」 (木村浩訳)の中のよく知られた「モルタルで壁を積み上げるシーン」に言及したい。主人公イワン・デニソヴィチ・シューホフはラーゲル(強制収容所)の作業班の仲間たちと共に、高層住宅の建設現場の作業をしていた。マイナス二五度近い、ある極寒の日、シューホフは熟練の石工として、ブロックにモルタルをのせて壁をつくっていた。下でモルタルを火で暖める者たちがそれを桶にいれて階上に運ぶ。彼はそのモルタルをブロックに置いてコテを使って壁を高く積み上げている。もたもたしているとモルタルが凍ってしまう。
 「シューホフは湯気のたっているモルタルをコテですくいながら、てきぱきと壁になすりつけ、同時に下段のブロックの継ぎ目がどこかちゃんと頭にとめておく。彼はきっかり一個分だけのモルタルをなすりつけていく。それからブロックの山から目指す一個分を選び出す。それからもう一度、コテでモルタルをならし、その上にブロックをべタンと置く。…ちっとでも曲がっていれば、コテの柄でたたいてなおす。外側の壁が縦横どちらも下鉛の線と同じく垂直になっていなければならない。さて今度はブロックの下からモルタルがはみ出すようなことがあれば、コテの背で手早くけずり壁から払い落とさなくてはならない。次にまた下段ブロックの継ぎ目を確かめる。最後に片目をつぶって水平を確かめる」。
 シューホフはじめ石工たちは、もう酷寒を感じていなかった。機敏な作業をしているのでたちまち全身がほてってきてジャケツの下も上下のシャツも汗ばんできた。両足も寒さを感じなくなった。「モルタルをくれ」とシューホフは叫びながら、三段目を終えて四段目にかかる。「ブロックだ。さあブロックをもってこい」と班長がどなる。モルタルがあと一箱運ばれてくる。「いやまったくたいした張り切りようだ。もう五段日にかかっている」。しかしこの時、作業現場全体に終りを告げるレールをたたく音が聞こえてきた。モルタルをつくり過ぎて翌日まで残しておくと、カチカチに凍ってしまうので、使い切らなくてはならない。しかしすでに終了の合図があって全員集合しなければならない、遅れたら懲罰牢へぶちこまれる。ほかの班はどこも工具を返却してみんな集合場所に向っていた。シューホフは他の工具を返そうと言い、員数外の自分のコテ一本でねばることにした。
 「シューホフは笑顔になってブロックを積み続ける。…モルタルをべタン、ブロックをべタン、ぐっと一押してまっすぐかどうか確かめる。モルタル、ブロック、モルタル、ブロック。やっと終る。しかしシューホフはたとえいま護送兵に犬をけしかけられても、ちっと後に下がって、仕事のできばえを一目眺めずにはいられなかった。うむ悪くない。今度は壁に近づいて、右から左から壁の線を確かめる。さあ、この片目が水準器だ、ぴったりだ、まだこの腕も老いぼれていないな。それで初めてタラップを駆けおりた。彼は万事うまく運んでうきうきした気分になっていた。そして班長にこう冗談をとばした。『一日がこう短くちゃ本当にかなわねよ。仕事にかかったと思ったら、もう終りときちゃね』」。
 ここを読んでいて、これがラーゲルにおける強制労働の描写なのかと不思議に思えてくる。この箇所は「モルタルで壁を積み上げるシーン」として有名になった。他方「元特権囚やぶちこまれたことのない知識人の友人たちから」「奴隷労働の讚美」などと批判された。それに対して彼は一〇年後こう反論した、「そのような労働の中にも生きがいを認めていいのではないか。…夜も昼も自分の労働を呪いながら、はたしてイワン・デニソヴィチに一〇年間を生き抜くことができたであろうか。…人間にはこんな面があるのだ。例えば、辛い呪われた仕事であっても、時にはわけのわからないほど熱中することもあるのだ。私も二年間手作業をやっていて、この不思議な気持を味わったことがある。…その仕事は奴隷的なものであって何ひとつ約束してくれるものがないと自ら承知していながら、突如としてそれに夢中になってしまうのだ。このような不思議を、私はレンガを壁に積み上げる作業でも、鋳造作業でも、大工作業でも、そして古くなった銑鉄をハンマーで砕く作業に夢中になった時にも体験したのだ。したがって、イワン・デニソヴィチがその避けられない労働を重荷と感じなくても、またその労働を常に憎悪しなくてもいいのではなかろうか」(「収容所群島」第二部第九章、木村浩訳)。