建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅰ.囚われ人の希望-4 孤独

孤独
ドイツの神学者ボンヘツファーは「私たちは交わりの中にいることにおいてのみ、 一人でいることができる。一人でいる者だけが、交わりの中に生きていくことができる」と語った(「交わりの生活」一九五五)。この見解は、孤独になれない状況に置かれた人間が、他者との共同生活を決定的にそこなわれること、を暗示している。
ドストエフスキーは、囚人にとって強制労働よりも苦しいのは「無理に共同生活を強いられること」つまり孤独になれないことだと述べている。
 彼は護送中に面会にきてくれたデカプリスト(一二月党員)の妻フォン・ヴィージナ夫人(後述)への手紙に、出獄後こうしるしている。
 「私が護衛つきで大勢の人の中で暮らし、一時間として一人きりになれない境遇がやがてもう、まる五年になります。一人きりでいたいというのは、ノーマルな要求であって、飲食と同じなわけです。人と一緒にいるということは、毒となりばい菌となります。ほかならぬこの耐えがたい拷問のために、私はこの四年間、何よりも苦しみました。私は出会う者一人一人、例外なしに憎んで、まるで私の生命を盗みながら罰せられないでいる、泥棒か何かのように、すべての人間を見たものです。何よりもたまらない不幸は、自分自身が公平を欠き、意地悪いいまわしい人間になった時です。それはすっかり自覚しているのですが、しかし自分を制することができないのです」(出獄後三週日「書簡集」)。
 この孤独への憧憬はフランクルの場合も同じであった。
 「苦悩に満ちた人々との群れといついかなる時も一緒にいるということは、時折この絶えざる強制的な集団から、たとえわずかな時間でも逃れたいという逆らいがたい衝動をどれほど引き起こしたことだろう。これは自分や自分の思いと一人でいたいという深い一度憬であり、自分を包むささやかな孤独への憧れであった」。
 ドストエフスキーがやっと成就した孤独の世界について述べているシーンは、この作品の中でもひときわ印象深い。彼は牢獄から三、四キロ離れたレンガ工場のある河辺でレンガづくりとその運搬の作業をしていた。
 「その作業現場はイルトゥイシ河の岸にあった…。私がこの岸のことを口にするのはほかでもない、この岸からは自由な神の世界が見えたからである。清らかな、澄みきった遠景、その荒涼とした風景で私の胸に異様な印象を刻みつけた、住む人もいない、自由な曠野が見渡せたからである。…この岸辺ではなにもかも忘れて空想にふけることができた。囚人がその牢獄の窓から自由な世界に憧れの日を向けるように、私はよくこの果てしなくどこまでも続く、荒涼とした広がりにいつまでも見入ったものであった。底知れぬ紺碧の大空に明るく輝く太陽もキルギス側[オムスクの監獄から南方にひろがるカザフ台地]の対岸から聞こえてくるギルギス人のかすかな歌声も、そこにあるものはなにもかも私にとっては尊く、懐かしいものばかりだった。長いこと目をこらしていると、やがて遊牧民のものらしいなんとも貧しい、煙でくすぶった天幕のようなものが見えてくる。…なんという鳥だろう、青い透き通るような空気を切るように飛んでいる鳥の姿がふと目に入る。そこで執拗に、いつまでも飛んでいく鳥の姿を目で追い回す。さっと水面をかすめて、青空の中に姿を消してまた姿を現わす。春もまだ早い頃岸辺の岩の裂け目にふと見つけた、貧弱な、ひょろひょろした一輪の花でさえも、なんとなく病的に私の注意を惹きつけるのであった」(第二部の五)。
 この引用箇所について宗教学者西谷啓治は言及している、
 「ここでドストエフスキーが語っているのは、…すべてわれわれが日常触れている事物である。われわれはそれを日常的な意味で実在的ものといっている。…しかしそういうありふれた事物に対して、それを凝視するとか、それがほとんど病的なまでに自分の注意を惹くとかいうことは、決して日常的ではない。そこにはわれわれが日常的に実在的といっている物が、質的にまったく別な次元で彼にリアルに迫って来ているのである。その事物が実在的として受け取られた時の実在性の意義また実在感は、質的にまったく違っていたのである。それゆえにこそ彼は、そこに《神御自身の世界》を見ることができた。またみじめな自己を忘れることができた」(「宗教とは何か」一九六〇)。
 西谷氏が指摘したとおり、ドストエフスキーが述べたこのシーンはけして「風景描写」ではない。ドストエフスキーは当時のロシアのインテリゲンチャーの常として、 西欧の人道主義やフランスの空想的社会主義フーリエに強く惹かれていた(小沼文彦「ドストエフスキー」)、それでペトラシェフスキー事件に連座して逮捕されシベリアでの牢獄生活を強いられた。西欧のヒューマニズムとの接触によって彼はひとたびロシアの大地から根こぎにされたが、このイルトゥイシ河の岸に一人たたずむことによって、もう一度ロシアの大地に回帰し根づいたのである。それがこのシーンにおける「自由な神の世界」との彼の出会いである。ロシアの大地への回帰はのちの「罪と罰」や「カラマゾフの兄弟」におけるラスコーリニコフやアリョーシャの「大地との接吻」として形象化された。
 視点を変えると、このシーンは大自然が囚われ人の苦しみを慰める体験、と呼ぶことができる。フランクルアウシュヴィッツ強制収容所における夕景について語っている。
 「われわれが死んだように疲れ、スープ用スプーンを手にもったままバラックの土間に横たわっていた時、一人の仲間が飛び込んできて、強度の疲労と寒さにもかかわらず、日没の光景を見逃させまいと、急いで外の点呼場まで連れ出しにきた。それからわれわれは外で、西方の暗く燃え上がる雲を眺め、また幻想的な形と青銅色をしたさまざに変化する雲を見た。その下には対照的に収容所の荒涼とした灰色のバラックと泥だらけの点呼場があり、その水溜りにはまだ燃える空が映っていた。数分の感動の沈黙ののちに、だれかが他の者にたずねる声が聞こえた『世界はどうしてこんなに美しいんだろう』」。
 夕方の光景の日をみはる美しさに立ちつくすという体験は、私たちにも存在するが、しかしその体験はすぐにも忘却の彼方に消えてしまう。これとは違って、囚われ人においては、美しい光景への感動は今ある苦境を一時的にせよ、押しのけそれから離脱させ、かつたとえ地上の世界、強制収容所が地獄であろうとも、その天空には未だに美が存在するとすれば、それだけでもこの人生は生きるに値する、と彼らは考えたのだ。
 夕焼け雲のこの世ならぬ美しさに打たれた、ドイツの女性革命家ローザ・ルクセンブルク(一八七〇~一九一九)もこうしるした「このような色、このような形がある以上、人生こそ美しく、また生きるに十分値するものではないか」(「獄中からの手紙」 一九一七、秋元寿恵夫訳)。