建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅱ-旧約聖書における絶望と希望-4 預言者ホセア

ホセア 神の側の転覆
 預言者ホセアは、前七五三~七二四年ころ、エリアのおよそ一二〇年後、北王国イスラエルで活動した。彼の活動した最後の一〇年間は、政治的な危機の時期で、アッシリアの王ティグレトピレセル(在位前七四五~七二七) の侵略的な目が北王国を脅かしていた。北王国の王ペカは隣国シリアと反アッシリア同盟を結んで、南王国ユダをも同盟に誘ったが南王国の王アハズがこれを拒否したので、シリア・エフライム(イスラエル)連合軍が南王国に侵入した(前七三四、列王下一六章、イザヤ八章)。アハズ王はアッシリアに救援を求めたので、アッシリア軍が侵攻してきて、シリアを征服し、かつ北王国の大部分の地域を占領した(前七三三、列王下一五章)。ホセアはこのような状況のもとで、活動した。

バアール宗教との闘い
 ホセアにとってカナンのバアール宗教との闘いは、けして自分の外側にあるものとの闘争ではなく、自分の妻との結婚生活と関連した、彼の内側の、背く妻をなおも愛している自己との闘争であった。彼がめとった妻はゴメルといい「姦淫の妻」といわれている(一・二)。これは倫理的な意味で「不倫の妻」という意味ではない。むしろ宗教的な意味での「姦淫の妻」すなわち、バアール宗教の祭儀に関与した、その祭儀に参加しその祭儀に従事していた、その崇拝者という意味である(彼女を神殿に訪れる者らの娼婦、神殿聖娼とみる解釈がある)。その祭儀への関与はおそらく性的な姦淫の内容をも含んでいたと思われる。結婚して子を産んだこの妻が家出した時、彼はもう一度この妻を受け入れよ、と神に命じられた。
 「あなたは再び行って、恋人を愛し、姦淫を行なった妻を愛せよ。
  たとえイスラエルの子らが他の神々に向かい、
  干しぶどうの菓子を愛したとしても
  主が彼らを愛するのと同じようにである」(三・一、H・W・ヴォルフ訳、「干しぶどうの菓子」はバアールに献げられた供物)。
 マルチン・ブーバーは、ホセアにおける愛の特徴の一つを「怒りを含む愛」という(「預言者の信仰」)。またH・W・ヴォルフはこの愛を「怒りや憎しみ」(九・一五)と正反対のものであって、相手を助けその背きを癒す愛の形であるという(一四・四「私(神)は彼らの背きを癒す」)(「ホセア書注解」)。この愛は一方では「たとえ彼らが他の神に向おうとも、私は彼らを愛する」(三・一)と語られている。しかしながら、他方この背く者への愛は、民の背信をいいんだ、いいんだ、といい加減に見過ごすものではけしてない。他の神、バアールに向うことは激しい表現で「姦淫」と呼ばれている(一・二、三・一、四・一〇)。この姦淫をとおして神とイスラエルとの真実な関係は破綻した、と語られている(一・六~九)。そればかりでなくイスラエルの民は、怒りを超えた神の愛に出会っても、神に立ち帰ることを拒んだからだ。「彼らは私に立ち帰ることを拒んだ」(一一・五)、「わが民は私に背くことを固持している」(同七節)。そして神へのこの拒絶ゆえに、北王国に政治的な危機が訪れた。
 「イスラエルの家よ、 あなたがたの大いなる悪のゆえに、
  私はあなたがたにこのようにしよう(戦乱による滅亡)」(一〇・一五)。
 ホセアにおいては、異民族による侵入は、例外なく神の怒りの道具として出現する(ヴォルフ、注解)。先に言及したアッシリアによる北王国への侵攻は、ホセアの目にはそう映った。「私の怒りは彼らに向って燃える」(八・五)「私の燃え上がる怒り」(一一・九)。

神の側の転覆
 他方、ホセアは神ご自身の中で怒りと愛との闘いがどのように解決されたかを告知している。一一・八前半
 「エフライムよ、私はどうしてあなたを捨てることができようか。
  イスラエルよ、 どうしてあなたを放棄することができようか。
  どうしてあなたをアデマのように捨てることができようか。
  どうしてあなたをゼボイムのように扱うことができようか」
 ここの「アデマ、ゼボイム」はかって神の怒りに触れて滅亡した町の名(申命二九・二三)。したがってこの二つの名は、神の中ではその怒りのゆえに滅亡させた記憶のあるものであった。「かしこでは神の怒りがこの町を瓦解させた。しかしここでは全く逆のことが起こる。ここでは町と人々の瓦解、転覆ではなく、神ご自身の側の瓦解、転覆が告げられる。今や神ご自身が倒され、転覆なされるのだ」(ヴォルフの注解)。神の転覆については具体的にこう述べられている。一一・八後半
 「わが心は私に逆らって変わり、
  わが(憐れみ)は激しく燃えあがっている」。
 ここの「わが隣れみ・ラハミーム」の翻訳は、ほとんどの訳が「憐れみ」。七〇人訳の「メタメレイア・悔恨」とヴォルフが「悔恨」の訳。「わが心は私に逆らって変わる」は、神の怒りの心から隣れみ、愛への変化を表現している。ブーバーは「神のみ心が変わる瞬間である」と解釈し、ヴォルフは「旧約聖書において最も心をうつ箇所である」という(「旧約聖書の人間理解」)。