建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅱ-旧約聖書における絶望と希望-10 ヨブ記①

ヨブ記における希望
ヨブ記は知恵文学に属すが、成立は前四〇〇年頃。義人の味わう不当な苦しみを主題としている。ヨブ記では、人間の希望の可能性について徹底して《批判的な論議》が展開されている。構成上は、一~二章と終りの四二章後半が散文で、その他は詩文で書かれている。この長い詩文の部分で、ヨブと三人の友人たちの論議が闘わされる。また三二~三七章は四人目の友人エリフの演説で、後の時期に付加されたものとみなされている。ヨブと友人たちとの討論が始まるが、そのいきさっはこうである。
 ヨブは、神を畏れる敬虔な人物で、財産にも恵まれ、一〇人も子をもち、人々からも尊敬されていた。時に天上で神とサタンとの話合いがなされた。サタンは神の使いの一人で、人間の隠された咎を明るみにさらす働きをもち(サタンは「告発者」の意味)、ヨブについて次のように神に訴えた、「ヨブは恵まれた人生を送っているから、神を畏れ、神を信じているにすぎない。ヨブをあらゆる不幸に遭遇させてヨブの敬虔が本物かどうか試してみましょう」。かくしてヨブにあらゆる不幸が訪れた。財産はなくなり、一〇人の子供も災難で死に、自らは病気となり、妻にも見捨てられ、灰の上にすわって、陶器の破片でできものをかきむしった。
 このような時、ヨブの友人たち三人が訪れたが、ヨブの苦しみの様があまりにひどいのにショックを受けて七日間黙ってヨブのそばにいた。それからヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪い、苦境の中で叫び出した。かくしてヨブと友人たちとの討論が始まった。
 友人たちの発言。はじめに友人エリパズ、三人のうち最も落ち着いていて、思慮深い人物がヨブを慰めようとする。かつてヨブは苦境にある人々をいかに力強く慰め、励ましたかをエリパズはヨブに思い出させようとする。
 「ところが今、事があなたに臨むとあなたはもろくなり
  事があなたに触れるとあなたはおじ惑う。
  あなたの神への恐れはあなたの確信ではないか
  あなたの道の全きことはあなたの希望ではないか
  考えてもみよ誰が罪なくして滅びたか
  どこに正しい者で亡ぼされた者がいるか
  私の見たところでは 悪を耕し 害悪を蒔く者はそれを刈り取る
  彼らは神の息によって滅び その怒りによって消えうせる」 (四・五~九、ホルスト訳)
 しかし、ヨブはエリパズの慰めを拒否した。
 そこで二人目の友人ビルダテが登場してきた。彼には前提となる確信から論じた。
  「神が公義を曲げるであろうか。全能者が正義を曲げるであろうか。
   あなたの子たちが彼に罪を犯したので 彼は彼らをその咎の手に渡されたのた。
   もしあなたが神に求め 全能者に恵みを願うならば
   あなたがもし清く正しくあるなら
   彼はあなたのために立ち上がって、
   あなたの住みかを回復してくださる」(八・三~六)
 希望は比喩によって示されている。
  「パピルスは沼地でなくて大きくなれるだろうか
   葦は水のない所に成長するだろうか。
   まだ芽が出たばかりで切られる前に
   すべての草に先立って枯れてしまうだろう。すべて神を忘れる者はこうだ。
   不信仰者の希望は滅び去る」(八・一一~一三)
 三人目の友人ゾパルは、神の秩序に生きる敬虔者の知恵に基づく見解である。
  「あなたの手に不義があるなら遠ざけよ
   あなたの天幕の中に悪を住まわせるな
   あなたは希望をもつゆえに信頼し 守られて安らかに伏すことができる。
   しかし悪人の目はかすみ逃れる場所も失われ
   その望みは吐き出す息となるであろう」(一一・一四~二〇)
 ゾパルの主張は明解である。《希望は人間の手に入れることができるものである》。神の前に正しくあれ、そうすれば人間は希望を持つ根拠を獲得できる。
 ヨブは現在の自分の存在を木に譬えている
  「木には希望がある切られてもまた新しくなり
   その若枝は絶えることがない。
   その根が地中で老いその幹が土の中で死んでも
   水の潤いによって芽を出し 若木のように枝をのばす
   しかし人は死ねば消え去り 息が絶えればいなくなる」(一四・七~一〇)
 ヨブは人間の生きた現実としての自分の体験をここで語っている。ヨブの希望についての発言も神の働きかけるものとしてみている。自分のすべての希望が破産した事実の中に神の存在を感じている。
  「水は石を打ち砕き、大水は地の塵を押し流す。
   《そのようにあなたは人の望みを絶たれる》。
   あなたは永違に彼に勝って彼を過ぎ去らせる」(一四・一九)
 そしてヨブにとっては《希望を人から奪うのは他でもない神である》。
  「彼は四方から私を打ち滅ぼして私を去らせ
   私の希望を木のように抜かれる」(一九・一〇)
 ヨブは希望が神からのみ来るという友人たちの見解に全く同意している。しかし、問題は哀歌三章における希望について言及したように、どのようにして希望をいだくことが可能になるかである。希望をいだくことは当人の主体性に依拠するのか。友人たちが、知恵文学における「秩序」という考え(神は「秩序」をもって世界をこの世を保持される。義人には恵みを、悪人には審判を与えられる)にたって、《人間が自分の行為によって、それによりかかつて神による希望の分配に与れると主張する場合には、ヨブは激しく反論せずにはおれない》。友人たちの希望についての見解、神は敬虔な者に希望を与えられる、という考えが、ヨブには妥当しないからだ。ヨブは自分も敬虔であると思っているが、神はこの敬虔な者の手から希望を奪いとられる。またヨブは自分の敬虔が自分に希望を取りもどさせることはできない、と確信している。友人たちの希望についての見解と、ヨブの現在の希望についての体験と確信とはまっこうから対立している。人間の神への敬虔は、神からの希望を得る根拠となるのか、ならないのか。
 ヨブのここでの弁論は友人たちのものよりも全く冒瀆的で、不信仰のように映る。したがってヨブ記の終りで、神ご自身の口から、ヨブは友人たちより「正しいこと」を語ったとの言葉(四二・七)が述べられるのは驚くほかない。これは、ヨブが友人たちの弁論よりも、生ける神について遥かに深いことを知っていたことを意味する。ヨブは人間の行為によって神から希望を得られるような「秩序」といった体系、そのようなものにいささかも拘束されない神の主権と自由について論争したのだ。
 ヨブの場合、しかしながら神の自由な主権に対して最大限に栄誉を帰すという事態は、一方では現在自分に与えられた賜物を享受するという方向(伝道の書)に向うことをしないし、他方、詩篇におけるような方向(「私は耐え忍んで神を待ち望んだ」四〇・一、三七・七)におけるような忍耐への、徹底した批判的な態度となっている。
  「私の終りがどのようなものなので、私はなお耐えなければならないのか」(六・一一)。ヨブは、現在の生の享受や忍耐しつつ待つこととは別の、それ以上の希望の形、未来を情熱的に熱望する。
 この熱望の背後にあるのは、創造者なる神が被造物なる人間といまなお関わりを持とうとされているとの、ヨブの認識である。
 ヨブの以下の五つの希望についての弁論は、 この視点によって理解可能になる。

第一の弁論
  「私はわが肉をわが歯でかませ、
   わが生命をわが手の中に置く。
   見よ、神は私を殺す。
   私はそれを《待たない》。
   ただ私はわが道を彼の前で立証したい。
   神を知らない者は神の前にでることはできないからだ」(一三・一四~一六)。
 この箇所で「わが生命をわが手の中に置く」は、生命を賭けた冒険をするとの意味である。次に「私は待たない」(一五節後半)は、《別の読み方》があって少し厄介である。
 文語訳は「彼、われを殺すともわれは彼に依り頼まん」。古くはウルガタ(五世紀ラテン語訳)が「神が私を殺されてもなお、私は神に希望を置こう」。ツィンメリや関根正雄、ホルスト訳も同じで「私は彼を待つ」。他方チューリッヒ訳聖書は 「私はそれを辛抱しない」。ブッデの註解は「私は何の望みをもたない」。ヘルシャー訳は「私は何の望みもない」。ルター、ワイザーも同じ。シュトイェルナーゲル訳「私には全く希望がない」 (クラウス・ヴェスタマン「旧約聖書における希望」)。ヴェスタマン自身の訳「見よ、神は私を殺す。私はそれを待たない」。
 ヨブは未来に対する絶望的な突進の中で、自分を死に脅かされる状況に置き、神に挑戦する。もしヨブに死がやってくるなら(一五節)ヨブの待望、希望には救いの微光があるのだろうか。

第二の弁論
 ここでは、驚くべきことに、舞台は人間の地上の世界から「陰府」(よみ、死後の世界)に移される。
  「どうかあなたが私を陰府に隠し
   あなたの怒りがおさまるまで私をかくまい
   私のために時を定めて私を覚えてください。
   人は死んでも再び生きるのだろうか。
   私は服役のすべての日を待つ。わが解放の来るまで。
   あなたが呼ばわれば私はあなたに答よう。
   あなたはみ手の業を熱望される」(一四・一三~一五)。
 ヨブは苦悩の中で陰府、死者の世界の中に座している。地上では自分に対する神の怒りの追求がやまないので(一七・九)、陰府を自分の隠れ家とした。神のみ手は陰府にまでは及ばないと考えたからだ(詩八八・一二「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるでしょうか」)。ヨブが求めているのは、自分の苦境からの解放ではない。むしろ神に完全に捨てられる場、陰府で、神の怒りがしずまるまで、神が自分を守ってくれるようにとの不可能な事柄である。そしてやがて神の怒りがしずまった後、神が「み手の業」被造物なるヨブを待ちあぐみ、自分を神のもとに呼びもどすにちがいない、との大胆な考えを語っている。これがヨブにとっての新しい未来と希望であった。