建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅲー貧しい者、病人の希望-1 貧しい者とは誰か②

(貧しい者とは誰か)続き
第四に、用語の問題
 イザヤ六一・一にある「《貧しい者に喜びのおとずれを告げ》」において「貧しい者たち」はへブル語「アナヴィーム」が用いられている。この用語にはいくつかの意味がある、第一に、自分の土地を全く所有していない人の意味。「貧しい者」(レビ一九・一〇、申命一五・一一)、預言者らが保護しようとした人々、イザヤ三・一四では「乏しい者や寡婦」との並行で「貧しい者」、五八・七「飢えた者、裸の者」との並行で「貧しい者」。第二に、宗教的な用語法で敬虔な者を指して「悲慘な、貧しい」の意味。イザヤ四一・一七「貧しい者」、四九・一三「主はその民の貧しい者を隣れまれる」、詩篇九・一八、一〇・九、一四・六「主は貧しい者の避け所」、六八・一〇など。第三に、「従順な、謙虚な、柔和な」の意味。詩篇一八・二八「あなたは《低き》民を救われる」、七四・一九「あなたに属す《貧しい者》の生命を永遠に忘れないでください」、ゼカリア九・九のルター訳「見よ、あなたの王はあなたのもとに来る。彼は義人であって救済者、《貧しく》、ろばに乗る」(ここの「貧しく」はマタイニ一・五では「プラウス・柔和な」とある、後述)(ゲゼニウス)。
 このアナヴィーム《貧しい者たち》を七〇人訳は「プトーコス」というギリシャ語に翻訳した。七〇人訳においては「プトーコス・貧しい者」はへブル語の「アニ・貧しい者」(用例「主は助けを求める《貧しい者》と、助け手のなき乏しい者を救う」詩篇七二・一二)、「ダル・貧しい者」(用例「幸いなるかな、《貧しい者》と乏しい者を顧みる者たち。主は悩みの日に彼らを救い出される」詩篇四一・一)の訳語として用いられ、「アナヴ・貧しい者(アナヴィームの単数形)」の訳語としては用いられない、それゆえこの箇所で「アナヴ」を「プトーコス」と翻訳するということは、イエスの用いられた意味に対応して、貧しい者の祝福の社会的な観点を強調するものである(ルツ、マタイ伝註解)。プトーコス(貧しい者)は、一般に「貧しい者」を意味しては《いない》。プトーコスはぎりぎりの生活をしている貧しい者一般(ギリシャ語のぺネース)とは違って、それよりはるかに貧しい者「乞食」「他人の援助を頼みにする赤貧の人」という意味である(バウアーのレキシコン)。「一人の《赤貧の》寡婦」(マルコ一二・四二)、「《赤貧の人》はいつもあなたがたと共にいる」(マタイ二六・一一)、「ご馳走するなら、むしろ、身障者、足のなえた人、盲人を招きなさい」(ルカ一四・一三)、「その金持の門の前に、ラザロという出来物だらけの《乞食》が寝ていた」(ルカ一六・二〇)など。
 「プトーコス《赤貧の者》は乞食をしなければならないが、ペネース《乏しい者》は働かなければならない」(ハウク、新約聖書神学辞典)。プトーコスとぺネースとの並行は、詩篇一二・五「赤貧の者の悲惨と乏しい者のうめきのゆえに今私は立ち上がる、と主は言われる」などにある。

第五に、シュテーゲマンの解釈
 彼は次のようにプトーコス(貧しい者)について語る。
 「ギリシャ語では《プトーコス》は乞食、赤貧の者を、ペネースはそれと異なり、自分で汗水たらして働いて食扶をかせがねばならない貧乏人のことである。このプトーコス(貧しい者)は施しの対象とされ(マタイ一九・二一)、吹出物の病気をもった乞食(ルカ一六・二〇)足のきかない身障者で施しを乞う者(使徒行伝三・一以下)、日雇いの者(マタイ二〇章)、辛苦している者、重荷を負っている者(マタイ一一・二八)、大道りや路地でたむろしている失業者、幹線道路沿いにいる移住者である」(ルカ一四・二一以下)(「ナザレのイエス」)。要するに彼の貧しい者の解釈はプロレタリア、無産者階級に近い。別に彼らはユダヤ教の意味における敬虔な者ではない。その点ではシュテーゲマンの解釈は優れている。
 シュテーゲマンに欠落しているのは、イエスの祝福された《貧しい者》の意味が経済的にのみ貧しい者と解釈し、《貧しい者のもつ包括的な意味》をふまえない点である。貧しい者の解釈においてイザヤ六一・一以下、マタイ五・三以下と関連づけ、包括的な意味をもたせるという解釈が適切だと思う(エレミアス、ルツ、モルトマンなど)。

イザヤ六一章における心の砕かれた者
 先のマタイ一一・五、六「貧しい者は福音を聞かされている」はイザヤ六一・一~三からの引用であった。それをみたい(七〇人訳、ルカ四・一八以下参照)。
 「主の霊が私に臨み、私に油を注ぎ、
  《貧しい者》に喜びのおとずれを告げ、
  《心の砕かれた者》を癒すために、私をお遣しになった。
  《囚われ人》に解放と《盲人》に視力の回復とを告知し、
  主の恵みの時と報復の日を告げ、《すべての悲しむ者》を慰め、
  シオンの悲しみには灰にかえて栄光を、その悲しみには喜びの油を与え、
  《意気消沈した心》にかえて讃美の姿勢をつくるためである」(イザヤ六一・一~三、強調引用者)。 ここでは《貧しい者》は、経済的貧困ばかりでなく、《心の砕かれた者(絶望した者)》《囚われ人》《盲人》《悲しむ者》《意気消沈した者(絶望した者)》 を包括する意味をもっている。しかも注目すべきことに、彼らは《けして敬虔な者とはみなされてはいない》。「《貧しい者》はセム語の用語法によれば、金をもっていない者ばかりでなく、包括的な意味で抑圧された者、悲慘な者、隷属している者、屈伏させられた者を意味している。しかしけして特定の敬虔なタイプ、外面的な状況から解放された内面的な貧しい者を意味していない」(ルツ「マタイ伝註解」)。
 「心の砕かれた者」は他にイザヤ五七・一五、ルカ四・一八にも出ているが、次の動詞「癒す」からみても「謙遜な者」(詩篇五一・一九での「砕かれた魂」)とは解せない。「絶望した者」の意味である(エレミアス、モルトマン)。「すべての悲しむ者」は、ルカ六・二一の「幸いなるかな、《今泣いている者たち》」、マタイ五・四「幸いなるかな、《(悲しんでいる者たち》」と密接に関連している。用語的には「悲しむ・ペンテオー」は自分の罪のゆえではなく、むしろ自分たちを圧追するこの世の悪の力のゆえに悲しむという意味である(バウアー)。イザヤ六一・三の「意気消沈している者」は、希望を失った者を指しているが、マタイ五・五「幸いなるかな、《柔和なる者たち》」の「柔和な者・プラウス」に対するローマイヤー訳「意気消沈している者たち」(塚本訳「踏みつけられてもじっと我慢している者たち」)に出てくる。

第六に、エレミアスは貧しい者を包括的な意味で解釈する。
 「貧しい者は、イザヤ六一章においては最も普遍的な意味で《抑圧された人々》を言っていることは確かである。それは自分を守るすべを知らない困窮者、絶望のふちに立つ者、寄る辺のない見離された人々である。預言者たちの説教や詩篇では、ani anaw(へブル語の「貧しい」)はこういう《包括的な意味》で用いられている。預言者の中では、神の助け以外に拠り所のない圧追された者、貧困者一般を含むようになった。《貧しい者》という概念はこのような預言者たちの与えた広い意味でイエスによって用いられた。確かにすべての困窮者、すなわち飢えた者、着る物に事欠く人、よそ者、病人と投獄された者も《小さな者たち》であり、イエスの兄弟である(マタイ二五・三一以下)」(「イエスの宣教」)。
 貧しい者の意味が、社会的に貧しい者、人間的精神的に絶望している者、地上的には助け、拠り所がなく、悲しみと挫折、落胆によって神の助けにも期待できないような人々、ユダヤ教の見解でも決して信仰深い人々でないこと、が少し明らかとなる。この意味では貧しい者は先の「取税人や罪人」と限りなく近づく。貧しい者も自分の人生にルサンチマン・憤激を抱いていたと思われるからである。

第七に、モルトマンの貧しい者についての解釈
 「《貧しい者たち》は《総合概念》で、飢えている者、失業している者、病人、失望した者、苦しみを負っている者を含んでいる。彼らは屈伏させられ、抑圧され、辱められた民衆(ギリシャ語のオキロス) である。貧しい者たちは、病気で身障者で、定住していない者たちである(ルカ一四・一二以下「ご馳走する時には、貧乏人・乞食、身障者、足のなえた人、盲人を招きなさい」)、町の大道りや路地にいる乞食であり(ルカ一四・二一)、悲しんでいる者である(ルカ六・二一)。彼らの外的状況は十分に述べられている。人は質草に彼らの下着まで取ろうとし(マタイ五・四〇「訴えて下着を取ろうとする者には、上着もとらせなさい」)、彼らは自分の体も家族も拘留される(ルカ一二・五八「裁判官はあなたを執行人に引渡し、執行人はあなたを牢に入れるにちがいない」、マタイ一八・二三以下)。彼らは自分も家族もしばしば奴隷や売春を余儀なくされる、すなわち完全に権利を剥脱された状況にある。《貧しい者たち》は《人格喪失者》《人間以下の存在(Untermenschen)》、《人的資源》にすぎない」(「イエス・キリストの道」)。
 このような解釈に立てば、イエスの貧しい者に対する祝福が「終末論的な希望の復興」すなわち「主は権力者を位から引きおろし、低い者を高くされ、飢えた者を善きもので満たされ、富める者を空手で追い返される」(ルカ一・五一、五二)、「社会的な秩序の転倒への希望」(ディベリウス)を実現した点と合致する。

 貧しい者についての解釈の歴史をスケッチしてみて言えることは、貧しい者とは社会的にみて《貧しい者》と人間的にみて《絶望した者》、すなわち《貧困の問題と悲慘の問題》 (フランスのカトリック左派の詩人シャルル・ぺギー「悲慘と嘆願」)にまとめることができる。悲慘の問題は社会的原因、貧困、捕囚、戦争、追放、転落などばかりでなく、もっと人間的な要因、病気や身体の障害、愛されないこと・孤立、罪責、やがて迎える自分の死、無意味、能力の欠落、愛する者の喪失なども含む。
 私たちは、先のイザヤ六一章にあげられた抑圧された人々を、希望のテーマと関連づけて、貧しい者、絶望した者(心の砕かれた者、囚われ人、病人・身障者、意気消沈した者)の二つに総括したい。