建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅲ-貧しい者、病人の希望-2 貧しい者への祝福

貧しい者への祝福
 さて次に、イエスがこのような貧しい者を祝福されたことによって彼らに何が与えられたか、という問題を考えたい。
 取税人や罪人とのイエスの会食(「人の子が来て、飲み食いすると、そら大飯食らいだ、飲兵衛だ、取税人や罪人の仲間だ、という」マタイ一一・一九、塚本訳。「イエスが家で食卓についておられる時のことである。大勢の取税人や罪人が来てイエスや弟子たちと同席していた。パリサイ人はこれを見て弟子たちに言った『なぜあなたがたの師は取税人や罪人と一緒に食事をするのか』」マタイ九・一〇以下)、遊女との交流(ルカ七・三六以下「この婦人の多くの罪は放されている。今私を多く愛したのがその証拠だ」四七、塚本訳。「取税人や遊女たちはあなたがたより先に神の国に入るであろう」マタイ二一・三二) は、その交わり自体が、彼らに神の国、すなわち神の恵みの到来として体験された、と考えられるから、このポイントはわかりやすい。これに対して、貧しい者へのイエスの祝福のほうは少し難しいと感じられる。この祝福が貧しい者の「救いの問題」、私たちのテーマに即して言えば「貧しい者の希望の問題」を提起するからである。貧しい者、絶望した者の「救い」はどのようにすれば実現するのか。人間の体験する貧困、絶望の原因としての悲惨はどのようにすればなくなるのか、という問題は、歴史の大問題であった。
 貧しい者に対するイエスの祝福の意味を考えたい。その場合眼目となるのは、イエス神の国、神の支配は貧しい者たちのものだという言葉、約束は、何か貧困や絶望からの解放の「社会・ユートピア」を意味していたのかどうか、あるいは、イエスの貧しい者への祝福自体が貧しい者に貧困からの解放と貧困との闘いの力を彼らに与えたことを意味していたのか、という点である。
 いくつかの点を考えたい。第一に、例えば、貧しい者は食物、パンを求めるのはもっともである。イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」(マタイ六・九以下、ルカ一一・一以下)では、神にパンを求める祈りも入っている。ルカ一一・三では《なくてはならない》パンを《日ごと》私たちに与えてください」とある(ヴォッホ訳)。ここではパンが継続的に与えられるように祈る、すなわち定住者の、経済的には少し安定した者の生活感覚がにじみ出た祈りである。
 これに対して、マタイ六・一一では「《翌日のための》パンを《今日》私たちに与えてくさだい」(ルツ訳)とある。ここの「翌日の・エピウーシオン」は難解な用語で、「生存に必要な」の意味(グニルカ、ザントのマタイ伝註解)、「当日の」(塚本訳)、「翌日の」(レンクシュトルフのルカ伝註解、シュニーヴィント、ルツのマタイ伝註解)の三つの意味がある。マタイの本文・テキストでは、翌日のパンが手に入るかどうかわからないその日暮らしの貧しい者、イエスら放浪の伝道集団の生活感覚がにじみ出ている。「翌日のためのパンを明日でなく、今日与えたまえ」と神に祈るからである。
 さて、イエスはこの貧しい者への祝福「神の国(ドイツ語訳では、神の支配)はあなたがたのものだからである」をもって、経済的な貧困の「解決」を約束されたのだろうか。
 エドワルト・シュヴァイツアーはマタイ五・三「幸いなるかな、心の貧しい者たち、天国はあなたがたのものだからである」についてこう解釈している。
 「神は貧しい者すべてのために、苦悩する者たちに加担しつつ臨在される。この貧しい者たちにおいて王の隣れみは示される。…貧しい一人の人間(イエス)が《何一つ貧しい者たちの状態を変えないままで》、あなたがたは幸いなのだと言ったという、 ただそれだけの理由で貧しい者は幸福なはずだということは、決して理解しやすいことではない。イエスの与えることのできる唯一の根拠は、貧しい者のものである神の国を指し示すことだけである。…イエスは貧困や苦しみや飢えを熱狂的な敬虔によって打ち負かそうとする狂信家ではない。…イエスが約束なさる時、将来のみ国は彼らのところに到来している。それゆえ彼らはすでに《救いを与えられている》のである。その場合、すべてはイエスの背後に神ご自身の全権があるということにかかっている」(「山上の説教」)。
 この解釈は最もまともなものの一つであるが、これによれば、貧しい者たちはイエスによって神の国を約束されたことによって救いを与えられたことになる。ここには貧困との闘いや貧困のないユートピアの提示はない。なんとなく心の踊らない解釈である。

ショトルフ、シュテーゲマンの解釈
 この解釈は、貧しい者へのイエスの祝福についての従来の解釈よりも一段と踏み込んだ試みをしている。
 「イエスの現臨がすでに今神の支配[神の国をドイツ語圏ではこう翻訳する]を開始させている。貧しい者たちは神の支配についての福音を聞いている。そしてそのことによって《彼らの状況はすでに変えられている》。それはちょうど、イエスによって癒された盲人の状況が変えられるのと同様である。貧しい者たちに対する祝福の言葉は、イエスが信仰の対象であることを前提としている。イエスの到来が神の支配の始まりなのである」(「貧しい者の希望」)。
 この部分では、貧しい者の「状況がどう変えられるのか」まだ明らかではない。
 「ルカ六・二〇以下では神の王的支配が待望されているが、それは何を意味しているのか。《飽き足りること、笑うこと》(ルカ六・二一「幸いなるかな、あなたがた今飢えている者たち。あなたがたは飽き足りるようになるからである。幸いなるかな、あなたがた今泣いている者たち。あなたがたは笑うようになるからである」)救いがこのようなイメージで語られる時、飽食と笑い、これは本文の周辺では《金持の生活》に特徴的なこととみなされている(ルカ一六・一九以下「金持と貧乏人ラザロ」、六・二五「ああわざわいだ、今食べ飽きているあなたがた。…ああわざわいだ、今笑っている者たち」)。飽食と笑い、このイメージは古代の宗教的な救いの表象の中にみられる。そこでは、神との出会いの経験は喜びとしるされている。しかし前述の《神の王的支配の》待望の内容にとって決定的な重要さをもつのは、現に今経験しつつある貧困、空腹、それに悲嘆である。そこでは単に《この窮状が終りを告げるということのみならず、ずっと多くのことが待望されている。すなわち完全なる回復、窮乏の完全なる補償である》。現在の窮状は、終末に照らすと一時的なもの、表向きだけのもの、重要でないもの、とは考えられない、むしろ救いの待望そのものの中で真剣に受けとめられている。その窮状はいつの日かまるでそんなことはなかったかのようになるというのではない。むしろ今現に困窮が闇のように広がっている、だからそれと同じくらい幸福は光り輝いて到来するだろうということである。《ユートピアを思い描く能力》こそ創造的な行為である…きっと貧しい者たちは《夢のようにおいしい食物がすでに食卓の上に並んでいる》 のを見るであろう」。最後の部分の「おいしい食物」はむろん神の支配が実現した時の神の前での会食を意味している。
 この解釈は、貧しい者たちの待望の具体的な内容「貧困の解決」を取り上げている点、がすぐれている。「神の支配はあなたがたのものだ」には「救いの賜物」としての神の前での終末論的会食を意味しているからである。イエスの貧しい者への祝福がもし貧困の解決を指示・暗示したものでなかったとしたら、イエスの説教はどこか「肩すかし」を与えるものとなってしまうであろう。
 ただ「ユートピアを思い描く能力」の部分は少し問題を感じる。貧しさのない「社会」をイエスが指し示されたとは、思えないからである。マルクス主義の哲学者エルンスト・ブロッホは、ユートピアの機能を「人の心をぱっと燃え立たせるもの」と語ったが(「希望の原理」)、イエスの祝福、貧しい者への神の慈悲深い支配の到来を告げたのであって、貧困なきユートピアを約束したものではなかった。笑いと飽き足りることは、金持の所有ではなく、神の慰めの支配が実現するものだと思う。

モルトマンの解釈
 「福音は貧しい者たちに何をもたらすのか、彼らを神の国の仲間として祝福することは、彼らに何をもたらすのか。確かに飢えの終りも豊かに祝福された生の充満もまだもたらされていない。しかしすでに《新しい尊厳(Wurde)》がもたらされている。貧しい者たち、奴隷、売春婦たちにはもはや抑圧と屈辱という受け身の対象ではなく、最初の神の子らの尊厳をもつ主体である。福音は彼らに豆や米をもたらさないが、しかし神の目からみると、破壊されえない尊厳の確かさをもたらす。この意識をもって貧しい者、奴隷、売春婦たちはちりから立ち上がり自らを助けることができる。金持のみが真の人間であり、それに対して金持でない者は生存競争に向いていなかった〈失敗者〉であるとの搾取者の経済体系を彼らはもはや受け入れない。支配者の経済体系が貧しい者たちに内面化されると、その内面化は貧しい者たちの自己解放にとってひどい障害となり、貧困にとって自己破壊的に作用し、貧しい者に自己憎悪を呼び起こす。貧しい者たちに属す神の国の福音は、このような自己憎悪を克服し、貧しい者たちを立ち上がらせ、彼らは〈頭をあげて〉生き〈真っすぐな道〉を歩むことができるようになる。神は彼らの側におられ、神の〈将来〉は彼らのものであるからだ。暴力を働く者は彼ら貧しい者たちを現在の享受から締め出したが、神は彼らに将来を開き、彼らを来るべき御国の相続者にしてくださる。この希望が広がる時、この将来は彼らの解放の権威となり彼らの力の源泉となる。現在の生について慰めるためのユートピアは貧しい者、無力な者に提供されない。むしろ神の将来は彼らをとおして現在において到来する。この神の将来はすでに彼らのものだからである。このことが彼らに力を与える。貧しい者たちはこの暴力的で不正な世界で神の国の子らとなる。神の国は《貧しい者のメシア的な王国》となる(シュテーゲマン)。イエスの約束は貧しい者たちを、つねに暴力が特徴となっている富めるようになる道にではなく、むしろ五千人のパンの給食(マタイ一四・一三以下)で示されたように《分かちあう文化が当てはまるところの交わり(Gemeinshaft)に至る道へと導く》」 (「イエス・キリストの道」)。
 この解釈の特徴は、貧しい者への「尊厳」がイエスの祝福によってもたらされた、という点にある。この尊厳の賦与は貧困の解決の一つの形である。貧しさそのものは解決しなくても、貧しさと戦う力を与えられる「貧しい者を立ち上がらせる」からである。神も、そして神が派遺なさったメシアも貧しい者を受け入れ、抱きとめ、その慈悲の対象とされる。このことが貧しい者に尊厳を与え、憎しみを克服させる。彼らはマルクス主義的プロレタリアとはなりえない。彼らは無産者であるが、支配階級への憎しみは奨励されないし、憎しみと嫌悪は彼らの支配者たちの道であり、彼らはこの憎しみをバネとする人民の団結による革命を指向しないからである。むしろ彼らはイエスの貧しい者への福音と祝福とに出会い喜び、神讃美の、姿勢をとることを学び知る。