建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅴー復活の史実性の問題性-4 トマスへの顕現

トマスへの顕現

 復活した方の「身体具有性」を述べたもう一つの箇所はヨハネ二〇・一九~二九。ここでは復活した方が弟子たちに「その手足を見せる」(ルカ伝)というポイントが大きく二点にわたって展開されている。
 第一に、復活した方が弟子たちに見せられるのはここでは「その手と脇腹」である。

ヨハネ二〇・一九~二三 弟子たちへの顕現
 「その日、週のはじめの日の夜であった。ユダヤ人を恐れて弟子たちのいたところの戸は鍵がかけられていたが、イエスが来られて真ん中に進み出て言われた『平安あれ』。この言葉の後、イエスはご自分の手と脇腹を彼らに見せられた。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた言われた『平安あれ、父が私を遺わされたように、私もあなたがたを遺わす』。この言葉の後、イエスは彼らに息を吹きかけて言われた『聖霊を受けよ、あなたがたが人々の罪を赦してやればそれは消え、赦してやらなければ、それは赦されずに残る』」(シュナッケンブルク訳)。
 復活した方が「閉められた戸をとおって部屋に入り、弟子たちの真ん中に進み出られた」という表現は(一九節、マタイ伝の空虚な墓では、イエスは石でふさがれた墓から外に出られたと想定されている、カンペンハウゼン「空虚な墓」)この方が空間的な制約をも乗り超える力をもった「神的存在」であることを示している (シュナッケンブルクの注解)。復活した方の突然の到来と平安あれの挨拶は弟子たちの「ユダヤ人への恐れ」の克服に対して特に重要性をもった(シュナッケンブルク)。弟子たちは「手と脇腹の傷痕の提示」つまり《復活した方が身体を具有して自分たちの中におられるのを見た》ので「喜んだ」のである。弟子たちはイエスの復活への信仰に到達したのだ。主の復活を信じる方法は「復活顕現を見ないで信じる」(二九節)「見て信じる」(弟子たち、二〇節)「復活顕現した方の体に触れて信じる」(トマス、二五節)の三段階があって、弟子たちは第二段階、トマスは第三段階に属す(グラースは弟子たちも顕現を見た時点ですでに復活した方に「さわることができた」はずだと解釈した)。
 さらにこの顕現は《弟子たちの派遺》を目的としている「父が私を遺わされたように、私はあなたがたを遺わす」(二〇節)。弟子たちの派遺は復活した方による聖霊の授与「聖霊による武装」と結合されている(グラース)。
 弟子たちの福音宣教、教会指導の職務の遂行の中で「機能する」のは、復活した方が「弟子たちと共に働いて、彼らの言葉を強められた」(マルコ一六・二〇)という形ではない。ここではみ霊の授与が、弟子たちの全権的権能「罪の赦し、赦さずに罪を存続させること」を基礎づける(二〇・二三)。
 さてヨハネ二〇章はイエスの復活を疑う弟子たちの一人、実証主義の権化のようなトマスにスポットを当てている。
 ヨハネ二〇・二四~二九「一二人の一人、双子とよばれたトマスはイエスが来られた時、弟子たちと一緒にいなかった。他の弟子たちが『私たちは主に出会った』と言うと、トマスは反論して言った『私は主の手の釘の傷跡を見なければ、私の指をその釘の場所に、手をその脇腹に差し込まなければ信じない』。八日の後、弟子たちはまた家の中にいた。トマスも彼らと一緒であった。イエスは鍵のしまった戸から入ってきて、彼らの真中に進み出て言われた『平安あれ』。それからトマスに言われた『あなたの指をここにおいて私の手(の傷跡)を見なさい。手を脇腹(の槍傷)に差し込んでみなさい。不信仰にならないで、信じるようになりなさい』。トマスはイエスに答えて言った『わが主よ、わが神よ』。イエスは言われた『あなたは私を見たので信じるのか。幸いなるかな、見ることなくしかも信じる人たち』」(シュナッケンブルク訳)。
 他の弟子たちは復活の主に触れることなく、主の復活を信じた。しかしトマスは「主の手と脇腹との傷痕に触れること」がないならば、イエスの復活を納得できないと言い切った(二五節)。「手の釘の傷痕」「脇腹(の槍の傷痕)」は、ヨハネだけ。一九・三四によれば、イエスの死の確認はローマ兵がイエスの「脇腹を槍で突くこと」でなされた。この「手の釘の傷痕と脇腹の槍の傷痕」は、復活した方はほかでもなくあの十字架で処刑された方と「同一の方である」いわゆる「同一化のモチーフ」である(ミハエリス、ブルトマン「注解」、ヴィルケンス、シュナッケンブルク「注解」)。
 トマスの話では、 他の弟子たちがトマスにイエスの復活顕現においてその手と脇腹を見たことは前提とされている、彼らがトマスにそのことを語ったからだ(ヨハネ二〇・二五)。しかしトマスは他の弟子とは違って「苦難の傷痕への接触をとおして、復活した方の真の身体性を確認し、またそれによって仲間の弟子が見たのが幽霊である可能性がすべて排除されるならば、その場合にのみ、主の復活を信じると反論した(二五節後半)。八日後、イエスは同じ時刻同じように鍵のかかった同じ場所に顕現された、二六節。
 主はトマスが復活顕現を信じる絶対的条件として要求した事柄を驚くべき仕方で知つておられてそれをかなえられた、二七節「あなたの指をここにもってきて、(傷痕のある)私の両の手を見てみなさい。あなたの手をとって私の脇腹に差し込んでみなさい。もはや不信仰にならず、むしろ信じる者になりなさい」。
 《主による愛の証明》にトマスも私たち読者も圧倒されてしまう。そしてトマスはイエスの復活を信じるに至る、そのことを彼の信仰告白が示している「わが主よ、わが神よ」(二八節)。
 では実際にトマスは「復活した方の身体に触れた」のかどうか、その接触をとおして信仰告白へと導かれたのかどうかは、論争されている。イエスがトマスに回答した言葉「あなたは私を見たので(だけで) 信じたのか」(二九節)における「見た」は、「接触」を排除したものではなく「見て触るというニュアンス」であろう、しかしながら「現に触った」とはしるされていない。状況的には、トマスは「さわりなさい」との復活した方の指示に度肝をぬかれてしまい「見ただけで」ただちに信仰を告白し、かつ「接触」自体は断念したとも映る(ブルトマン、マルクス・バルト)。これに対して、グラースは確実に復活した方はさわることができたと解釈する。その根拠として第一に、ルカ二四・三九の「さわってみなさい。幽霊には肉と骨はないが私にはそれがあるのがわかる」では、実際の接触がなされたと述べている。
 顕現において復活した方が「その手と脇腹を見せられた」(ヨハネ二〇・二〇)の背景には、復活した方の身体性を否認したグノーシス的異端、仮現説的異端の「霊魂的な復活論」に対する反論の態度があるようだ。ヨハネの手紙においてもグノーシス主義、仮現説への批判は明らかである(第一ヨハネ一・一「私たちが聞き親しく目にし、よく見て手でさわったもの」、四・二「イエス・キリストが肉でこられたと告白する霊」など)。しかし反グノーシス主義的「身体的復活の現実性」の強調は、パウロの「地上の体と霊の体の間の緊張関係」を踏み超える危険をはらんでいる。
 さてブルトマンは先の二〇・二九のトマスへの復活した方の言葉「あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々」について述べている、
 「復活した方の顕現が現実的な事件である限り根本においてそれらは[復活した方の体を見たりさわったりする顕現自体]は不可欠ではない。実際それらは必要ではないはずだ。しかし人間の弱さのために許容されている。…復活した方を肉体的に見たい、そうだ手でさわりたいというトマスの願いはかなえられる。しかし同時に彼は叱責されている『あなたは私を見たので信じたのか。幸いなるかな、見ることなく信じる人々』。その中には啓示する方が手でさわれるように現われることを願う信仰の小ささに対する批判がある。また復活祭の物語をそれに許されていること以上のもの、しるし、表象、復活祭信仰の告白と受け取ること以上のものにしようとすることに対する警告が存在している」(「新約聖書神学」川端純四郎訳)。
 ブルトマンの批判はトマスの態度、 しるしを求める実証主義的態度に対してばかりでなく、もう一つ、復活した方が弟子たちに手と脇腹を見せた「復活祭の奇跡、復活祭物語一般」にも向けられている。
 しかしながら、他の弟子たちへの顕現(二〇・一九~二三)は、「身体具有的な顕現・現臨」であった。「私たちは主を見た」(二五節)との証言からみて、彼らは今やイエスの復活を信じているが、彼らの信じた方法も「復活した方を見たので信じたやり方」であったのだが、彼らの信じ方は復活した方に批判されてはいない。
 イエスを試そうとして「天からのしるしをイエスに求めた」パリサイ人やサドカイ人の要求をイエスは拒絶された(マルコ八・一一、並行)。しかしトマスは同じような拒絶にはあっていない。拒絶ではなく、むしろ《主は心からの隣れみを疑い深いトマスにくだされた。それはすべての疑いを捨て去らせるには十分なものであった》(グラース)と解釈すべきだ。二九節のイエスの言葉「幸いなるかな、見ないで信じる人々」は、後代のキリスト者を念頭においている。復活顕現は、パウロへの顕現をもって完結してしまった。後のキリスト者は復活証言(復活宣教)だけで、キリストの復活を信じる時代にある。もはや初期の時代におけるように、顕現に出会って、目で見たり、手でふれたり、耳で聞いたりしてイエスの復活を信じることはできないのだ。この復活のイエスの言葉はトマスの信じ方を批判するものではなくて、むしろ顕現なしに、復活についての証言、復活宣教だけで、イエスの復活を信じる人々への「幸いなるかな」の祝福の言葉である。