建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-1 パウロが受けた復活伝承①

第六章 パウロの復活理解
パウロが受けた復活伝承
 第一コリント一五・三一七のパウロの復活証言は、新約聖書の最古の、信頼しうる復活の報告である、グラース。この書簡は後五六~五七年に成立し、自ら復活顕現に出会ったパウロが書いたもので、福音書の復活記事よりも早く成立した。
 第一コリント一五・三一七「私がまず第一にあなたがたに伝えたのは、私もまた引き継いだものであったからだ。すなわち、聖書によれば、キリストが私たちの罪のために死んだこと、そして埋葬されたこと、そして聖書によれば、キリストが三日日によみがえらされたこと、そして彼がケパに、それから一二人にも現われたことである。それからキリストは五〇〇人以上の兄弟に同時に現われた。彼らのうち、その大部分は今なお生きているが、その数人が眠りについた。それから彼はヤコブに、それからすべての使徒にも現われた」(シュラーゲの「注解」訳、二〇〇一)。

復活伝承の内容
 まずパウロが引き継いだ「原始教会の復活伝承の内容はどのようなものであったか」。
 パウロが受けた伝承が三節以下の何節までなのかは実は論争があって、いまだ決着がついていない。その場合古いケリグマ(宣教)的定形の伝承の「本来の原文」がどのようなものであったか。パウロが自分に与えられた顕現について述べた八~一〇節が、 その伝承に含まれていなかったのは確実である。また彼は五〇〇人の兄弟への顕現について「そのうち大部分の人は今なお生きているが、ほんの数人が眠りについた」(六節)と述べているので、この五〇〇人への言及が(彼の受けた)定形伝承に属していたかどうかも疑わしい。むしろ彼自身が書いたものであろう。
 さらに六節には文章構造に断絶が認められるので(グラースなど)、五節までが原文の「ホティの文章…したこと」に含まれる。そこでパウロが引き継いだ定形的復活伝承が「三節後半から五節のケパへの顕現と一二人への顕現までであるとのA・フォン・ハルナックの見解」は今日一般に受け入れられている、グラース。
 三節後半~五節は、パウロによって定形化されたものではなく、エレミアスによれば、本来アラム語で定形化されたもので、本来こうあったという「聖書によれば、キリストは私たちの罪のために死に、葬られ、聖書によれば、三日目によみがえらされ、そしてケパによって、さらに一二人によって見られた」(グラースから引用)。
 これに対してヴィルケンスは別の解釈を主張した。
 三節後半~五節において「キリストが私たちの罪のために死んだ《こと・ホティ》、《そして・カイ》 理葬された《こと・ホティ》《そして・カイ》復活させられた《こと・ホティ》、《そして・カイ》ケパに顕現された《こと・ホティ》」とあるが、ヴィルケンスはこの「カイ・ホテイ、そして…したこと」について、この用語でそれぞれの節を結合する仕方は、従来完結した伝承定形の内部にあるものではなく、パウロが《定形伝承から独立して、しかも定形にある証人たちを自由に列挙した》と解釈する(「復活した方の顕現伝承の起源」)。この解釈のほうが、三~五節を完結した伝承の定形とみるハルナック説よりも、六~七節とのつながりがはるかによい。

伝承を引き継いだ状況
 パウロはこの伝承を受け継いだ状況と関連あるポイントをこう述べている、
 「私は激しく神の教会を追害し、それを粉砕しょうとした。しかし私を母の胎以来選び分かち、気が向いた時自らの恵みによって、神はみ子を私に啓示された。そこで私は血肉の者にも相談せずに、すぐさまエルサレムに上って先輩の使徒たちを訪ねることもせず、すぐさまアラビアへ出かけ、またダマスコに帰った。それから三年後に(エルサレムに)上って、ケパ(ペテロ)を訪ね、彼のもとに一五日間滞在した。しかし使徒のうち、主の兄弟ヤコブのほかには、他の人々には会わなかった」(ガラテヤ一・一八以下)。
 これによれば、パウロは回心(後三三年ころ)の三年後(すなわち三六~三七年ころ)エルサレムに滞在して、ペテロとヤコブを訪問した(行伝九・二六~三〇)。その際キリストの復活について語られなかったとは、また彼らがそれを知らなかったとは、考えられない。当時パウロはコリント教会に伝えた復活伝承を知ったのであろうと考えられる。おそらくパウロは定形的復活伝承(三節後半~五節)を、回心後ただちに《ダマスコの教団から受け取った》とグラースはみている [ダマスコ教会にはパウロに洗礼を授けた指導者アナニヤがいた、行伝九章]。彼はペテロと知り合う以前に、回心後ただちにダマスコとアラビアで伝道活動を始めていた。
 イエスの死は後三〇年、パウロの回心は一般には三三、三四年とみなされている(ボルンカム「パウロ」)。彼は回心後ただちに復活伝承を引き継いだのであるから《イエスの死後五年以内にその伝承を手に入れた》ことになる。回心の三年後のエルサレム訪問の際、ペテロとヤコブからその定形を受けたという推定ともいちおう合致する。したがって私たちはパウロの復活証言をもってその出来事のきわめて近くにいることになる。これによって復活伝承の歴史的な叙述は最高度に確実であるとみなすことができる。
 また注目すべきは、パウロは第一コリント一一・二三以下の聖餐式の伝承を「主から受けた」と述べたが、ここでの「復活顕現伝承」については、そうは述べていない点である。しかし聖餐式の伝承のみが「主から受けた」啓示であって、ここでは人間的要素の強い、先達から「語られた単なる口伝・文字で書かれた伝承」とみなす必要はない。むしろここでは伝承の資料を単なる《人間的伝承であるのみならず、キリストから特別の啓示としても受けた》とみなすことが十分可能である(シュラーゲの「注解」)。

キリストのよみがえり(四節後半)
 「聖書によれば」が三、四節と二回出ている。「聖書・グラファイ」は複数形であるから、イザヤ五三章のみに限定すべきではない。
 この伝承にある「よみがえらされた」は「受身の完了形」である。受身形は復活の出来事が神による行動であることを示している(神的受身形、能動形の例は第一コリ六・一四「神は主をよみがえらせた」、第二コリ四・一四「主イエスをよみがえらせた方」など)。他方パウロ自身は完了形とは違って、キリストのよみがえりを表現する場合、通常アオリスト(不定過去形)を用いている(第一コリ一五・一二、二〇など)。それは「イエスのよみがえりが、過去において聞いた事柄としてではなく、むしろまとまった出来事として《現在に対して持続的な意味をもっている》からである」(シュラーゲの注解)。
 グラースのこの箇所についての「聖書学的な解釈」は確かにすぐれているが、どうもそれだけでは「緒論的な印象」が強く、テーマの解釈の点で「何かもの足りない感じ」がする。もっとテーマを掘り下げた「神学的解釈・講解」を私は強く求めた。幸い第一コリント一五章については「ルターの講解」(一五三三) とバルトの講解「死人の復活」(一九二四)とがあって、各々翻訳も出ている。

 バルトは、キリストの復活を「史実的な事実」と呼び、この史実的な事実において「歴史の限界が浮かび上がってくる真理」「歴史が歴史の限界から見られた」ものと解釈している。
 「…しかしなかんずく『キリストはよみがえらされたこと』(四節)は、この箇所の《史実的な》説明に対してたいへん厄介な疑惑を喚び起こす。…この節は単なる修辞学的・弁証的話法として解することはできない。一二~二八節全体の意味は、確かに《イエスの復活というこの史実的な事実・historische Faktum》がほんとうに『死人一般の復活』[一二節]と共に立ち、共に倒れるという意味である。それの現実性あるいはとにかくそれの認識が、明確な仕方で、一つの普遍的真理(それの本質上決して歴史の内部ではなくて)より精確にいえば、ただ《あらゆる歴史(Geschichte)の限界に、死の限界においてのみ浮かび上がってくる真理とは一体いかなる種類の史実的な事実(historisches Faktum)であろうか》。いずれにせよそれはこの普遍的真理そのものでもなく、同様に三~七節でパウロが一種の《史実的証明》をしようと欲するといつたような事実でもない。…ここではむしろ、この『彼が葬られたこと』において発言の機会をえた歴史が、一方では『彼が死んだ』で、他方では『彼はよみがえらされた』で表現された歴史の《限界から見られたのだ》。しかも歴史の《中で》歴史の《限界が見られたのだ》。またこれが決定的なことだが、一方の側『キリストが死んだこと』(三節)からばかりでなく-ただキリストの死だけでは、歴史の限界が見えてくることにはならぬであろう-他方の側『神がキリストをよみがえらせたこと』(一五節)からも見られたのだ。これこそ証言の《内容》であり、かつこの証言の《根源》はまさしく幾重にも重畳せる『彼は現れた』である」(バルト「死人の復活」一九二四、山本和訳、強調引用者)。
 ところでバルトはここでイエスの復活を「史実的な事実・historisches Faktum」と呼んだ(「Faktum」は中性名詞で傍観者的事実のニュアンス、次の「Tatsache」はより行為的人格的関わりがある事実のニュアンス)。
「『キリストが私たちの罪のために死んだこと』と『キリストが三日目によみがえらされたこと』、この二つは聖書にしたがって《史実的な事実・historische Tatsache》として主張されている。しかし《どんな種類の史実的な事実なのだ》。 [その史実的な事実というのは] この終りのことであって、歴史が終る時にのみ終りうるようなわれわれの罪の終りのことだ。またそれはこの始めのことであって、新しい世界が始まる時と所でのみ始まりうるような新しい生命の始まりのことだ」。
 バルトはさらに続けて今度はそれを「歴史的な神の事実」と呼んでいる。
 「神の行為としての復活は、日がいまだ見ず、耳がいまだ聞かず、人の心がまだ思いそめなかったものであり、外面的でも内面的でもなく、主観的でも客観的でもなく、神秘主義的でも心霊主義的でもなく、また月並みな《史実的なもの・historisch》でもなく、むしろ《歴史的な神の事実・geschichtliche Gottestatsache》である。この神の事実そのものは<啓示>のカテゴリーにおいてのみ把握できるものである。 しかし他の<いかなる>カテゴリーにおいても把握できない」([歴史的な神の事実」は山本訳では「事件史的神の事実」とある)。