建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-1 パウロが受けた復活伝承②

ぺテ口と一二人への一顕現(五節)
 ケパ・ペテロ(ペテロの名はへブル名シメオンの、ギリシャ的呼び名シモン。アラム語のあだ名が「岩」を意味するケパ、そのギリシャ語訳がペテロ。出身はガリラヤのべツサイダ。職業は漁師。結婚していて兄弟にアンデレがいる。この兄弟の名前がギリシャ的であるということから、当時のガリラヤへのギリシャ・ローマ文化の強い影響がうかがえる)と一二人への顕現についてのパウロの報告は、彼が引き継いだ伝承に由来するとみてよい。かくてパウロが実際六つの別々の顕現を列挙し、これらの顕現がその順番に起きたのは確かである。
 「ケパ・ペテロに《現われた》」において「現われた・オープテー」は「見る・ホラオー」のアオリスト(不定過去)の受身形。「見られた、現われた」の意味。とはいえ「現われた・オープテー」は、離れたところから確認する中立的な観察や感覚的な知覚でも、心の中での、内面的な出来事でもない、シュラーゲ。この「現われた、見られた」は旧約聖書における神顕現との類比において把握すべきである。創世一二・七「主はアブラムに現われた」の七〇人訳はこの用語オープテーを用いた。エチオピア・エノク六九・二九「かの人の子が現われて、栄光のみ座につかれた」においても。すなわち、この「現われた」は単に《目に見えるようになった現象》としてではなく、むしろ《啓示の出来事》として、神がそのようなものとしてご自分を啓示して人間をして復活させられた方に出会わせられたのだ。ミハエリス、シュラーゲ。この出現が《啓示の出来事》いえる根拠の一つは《神によってあらかじめ選ばれた証人たち》(五~八節)にのみ、この顕現が与えられた点である。「イエスは民衆全体に対してではなく、むしろ神によってあらかじめ選ばれた証人である私たちに対して出現された」(行伝一〇・四一)。すなわちこの顕現からある人々は締め出され、ある人々にはこの顕現が与えられ、神的栄光において生ける方としてご自分を開示された、この顕現はそのような出来事であった。
 これによってペテロの目撃証言の優位性は確実だといえる。ペテロへの顕現については、他にルカだけがしるしている「主はよみがえってシモンに現われた」(二四・三四)。ルカ伝はこの顕現がエルサレムで起きたことを前提としているが、グラースはむしろ顕現はガリラヤで起きたものとみなし、エルサレム中心主義をとるルカがエルサレムの状況にこの顕現をはめこんだとみる。 カンペンハウゼン、ブルトマン、ヴィルケンス、パンネンベルク、モルトマンなどもガリラヤ顕現説をとる。
 このほかペテロへの顕現をしるしたものには付加部分であるヨハネ二一章、偽典ペテロ福音書の末尾がある。ヨハネ二一・七には、愛弟子が舟から、夜明にガリラヤ湖の岸に立っている人物をみとめて「主だ」とペテロに告げたところ「主だと聞くと、シモン・ペテロは裸だったので上着を着て、湖に飛び込んだ」とある(二一・七)。ペテロが飛び込んだのは、むろん岸におられる復活のイエスのもとに、できるだけ早く誰よりも早く到達するためである。ここは印象的なシーンである。
 さらにルカ五・一以下のペテロの召命記事、マルコ九・二以下、山上の変貌、マタイ一六・一三以下「私はこの岩・ペテロの上に私の教会を建てるであろう」などは、ペテロへの復活顕現の状況の痕跡をとどめている、というのが定説となっている。
 ペテロへの復活顕現においては、イエス否認に対する彼の罪の告白「主よ、あちらに行ってください。私は罪人です」(ルカ五・八)、ペテロへの罪の赦しとしての使徒職、教団指導への召命「今から後、あなたは人間を生け捕る漁師になるのだ」(同五・一〇)、「またあなたが(信仰に)もどってきたら、兄弟たちを強めてやりなさい」(ルカ二二・三二)、「私の小羊を飼いなさい」(ヨハネ二一・一五)が含まれていたと解釈できる。顕現に出会ったペテロら弟子集団は《ラディカルな実存の変革をとげて》再びエルサレムにとって返した。そして最初の教会、原始教会はエルサレムにおいてペテロらの伝道によって形成された(行伝二・一四以下)。
 バルトの講解をみてみよう、
 「…<あの方>がなした<顕現>のみが、とにかく使信の内容である。それはパウロ自身が受け取ってさらに伝達し、コリント教会員らに思い起こさせようと欲した使信の中心的内容である。なぜならこの顕現は<啓示>としてだけ理解されるか、さもなくば<全く理解されない>かどちらかであり、終末にして始原、限界にして根源、神の救いを得させ、生命を与える言葉としてイエス・キリストがこれらの人間たちの視界の中に歩み込んだからである。そしてこの顕現、それだけが実際キリスト教の<証言・マルテュリオン>(一五節)の直接的な対象である。…<キリストは生きています>これこそ、最高級の人間的な諸経験・体験・洞察などとの連続線上で理解されうるものでは<けしてなく>、まさに教団の内部でこそキリストが生きたもうとの、復活節の使信として神の啓示の証言としてだけ理解されうるものである」。
 この伝承はその頭現の時期と場所については何もしるしていない。どのような状況で復活が起こり、ペテロへの最初の顕現があったかについて一度も述べていない。四節の「三日日に」は墓への埋葬の日から数えて「三日目によみがえらされた」の意味であって、けして「三日目にケパに現われた」とつなげて読むことはできない。その顕現の時と場所は、句と句の結合をとおしてのみ解明するしかない。
 「現われた・オプテー」は、挙げられたお方が《天から出現される》という意味合いをもっている(ミハエリス「復活した方の諸顕現」一九四四)、それゆえ埋葬されたイエスが「三日目に墓から出現した」という考えを排除する。すべての顕現がパウロの回心前に起きたことは確実である。
 「一二人」は生前のイエスの召命によって弟子となった一二弟子・使徒のこと。むろんイスカリオテのユダは死んでいないので、数では一一人だが、いわゆる一二弟子は固有名詞的に「一二人」とよばれた。彼らはイエスの十字架の死、埋葬に立ち合うことなく、エルサレムから逃亡してガリラヤにもどっていたと想定できる。付加部分のヨハネ二一・二~三において、ペテロが弟子仲間に「私は漁に出る」という言葉には、 彼がイエスの死後故郷のガリラヤにもどって元の漁師の仕事にもどったことをうかがわせる(偽典のペテロ福音書の最終部分も)。
 「福音書の叙述によれば、復活のキリストの黙示的幻視(vision)の現象は、ガリラヤへの《弟子たちの逃亡》を前提にしている。…(復活の)顕現は弟子たちの信仰からではなく、むしろ彼らの信仰がこれらの顕現から説明されるべきである。弟子たちはその師を裏切り、否認し、見捨てた。その理由は述べられていない。しかし彼らの恥ずべき逃亡はゼカリヤ一三・七によってこう説明されている『私は羊飼いを打つであろう。羊の群れは散らされるであろう』[マルコ一四・二七、むろん「私」は神、「羊飼い」はキリスト、「羊の群れ」は弟子たちを指している]。ヨハネ一六・三二はこう述べている『あなたがたは散らされて、おのおの自分のもの(Eigen)におもむき、私を見捨ててひとりだけにするであろう』。
 《おのおの自分のものにおもむき》は、おのおのが自分の道を見出す、自分の関心に従う、ことを意味するが、またおのおのが自分のガリラヤの故郷、自分の家族、自分の職業にもどることをも意味しうる。いずれにせよイエスの弟子たちは帰っていき、弟子であることをやめたのだ。しかし彼らはそこから、復活のキリストの黙示的幻視によって、予期に反して、エルサレムへと連れもどされるのである」(モルトマン「イエス・キリストの道」第五章、キリスト教復活信仰の成立と独自性、強調モルトマン)。
 弟子ガリラヤ逃亡説は、 グラース、 パンネンベルクらも採用している。他方カンペンハウゼンの見解、ペテロら弟子たちは、空虚な墓におけるみ使いの指示「イエスは死人の中からよみがえらされて、あなたがたより先にガリラヤへ《移動しておられる》[現在形]。あなたがたはそこでイエスに出会えるであろう」(マルコ一六・七)に促されて《秩序をもってガリラヤに移動した》、彼らはけして逃亡したのではないとの見解(「空虚な墓」)は、支持できない。カンペンハウゼンはペテロら弟子たちの、イエスへのつまづき、否認、挫折、絶望を、ルカ伝に依拠してあまりに軽く解釈しすぎている。またペテロら男性弟子たちがエルサレムにとどまっていたとしたら《彼らがなぜイエスの処刑や埋葬の場に立ち合っていなかったのか》が説明できない(グラース)。ペテロのイエス否認についても「ペテロは、外見的には挫折してしまった師に対して相変わらず忠実であり続けようとつとめたので、今なおその師を完全には捨ててしまってはいない」とカンペンハウゼンはみなしている。
 またルカ二二・三一~三二「イエスはシモン(ペテロ)に向って言われた『シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられた。しかし私はあなたのために信仰がなくならないように祈っておいた。だから一度信仰を失っても、またもどってくる。もどってきたらあなたの兄弟たちを強めてやりなさい』」について、ブルトマンはこう解釈した、この箇所は弟子たちがふるいにかけられて、ペテロを除くすべての者がイエスから離れたことを前提としている。ペテロの忠誠(信仰)だけが揺るぎないものであった。言い換えるとこの箇所はペテロの否認物語を知らないのだ(「共観福音書伝承史」)。
 復活顕現がペテロをまったく変えてしまったことは確かである。モルトマンはいう。
 根底から引っくり返えされるような体験の場合には、以前とは事態を全く異なって知覚することは、特別な度合いで妥当する。そうでないならば、サウロ(ユダヤ教のパリサイ人であったパウロ)がパウロへと変えられることは不可能となる。私たちがあることを《まったくちがったもの》として知覚するならば、その場合には私たち自身が根本的に変えられたのだ。…ここで語られたキリスト体験は、明らかに《実存変革の体験》である。その体験が自分の生命をまもるために、失望と不安から、エルサレムからガリラヤへと逃亡した《弟子たち》をエルサレムへともどっていかせて、キリストを《自由に》宣教するために、そこで自分の生命を危険にさらす《使徒》へと変えたのだ(前掲書)。
 アドルフ・フォン・ハルナックはかって次のテーゼを提起した、「パウロは、二つの定形伝承を関連づけた。一つはペテロと一二人への顕現(五節)、もう一つはヤコブとすべての使徒への顕現(七節)である。実際一二人への顕現は《すべての使徒への顕現と同一であった》」。その場合、ハルナックは七節後半の「《すべての・パーシン》使徒」のパーシンをパリン(再び)にかえて「それから《再び》使徒たちに現われた」と読む(ハルナック「イエスの変容物語」 一九二二、グラースから引用)。しかしこのテーゼは妥当性がない。「一二人」はイエスの生前からの弟子、他方「使徒たち」は必ずしも生前のイエスを知らない、ヘレニスト・ギリシャ語を話す、ユダヤ以外の出身の、ユダヤ人および異邦人キリスト者たちであったからだ。「パーシン(すべての)」を「パリン(再び)」に変える読み方も強引である。
 一二人への顕現がペテロへのそれのどのくらい後に起きたかという問いは、崩壊後の弟子集団の状況をどのように把握するかに応じて、さまざまに答が出せる。ルカ二四・三五以下では、キリストはその日(三日目)の夜には弟子集団に現われた。ヨハネ伝でも、弟子たちはイエスの死後エルサレムにとどまっていた「週の初めの日の夜、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる部屋の戸の鍵をしめていた」(ヨハネ二〇・一九)。この双方の記事とも「エルサレム顕現説」をとっているので、「ガリラヤ顕現説」(マルコ、マタイ、ヨハネ二一章)とは矛盾している。
 ヨハネ二一・二以下、一六・三二が暗示しているように、弟子たちがエルサレムから逃亡して故郷のガリラヤにもどって、もとの仕事をしていた時「よみがえったキリストはペテロに顕現された」。その後一二人は復活顕現に出会ったと思われる。復活したお方が一二人に委託された事柄について、パウロは何も語ってはいない。しかし復活顕現の眼目の一つはまさしくこの委託にあるはずだ。
 「一二人」に託されたのは世界伝道であった「行ってすべての国民を弟子とせよ、父と子と聖霊の名で洗礼を授けよ」(マタイ二八・一九)、「父が私を派遺されたように、私も全権をもってあなたがたを派遺する」(ヨハネ二〇・二一)、「罪を赦されるための悔い改めがその名においてすべての国民に説かれる」(ルカ二四・四八)。伝道の対象が「すべての国民」(マタイ、ルカ)とあるのは、注目に値する。異邦人伝道が前提とされているからだ。福音をユダヤに限定するとの見解は突破されている。