建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-1 パウロが受けた復活伝承③

五〇〇人以上の兄弟への顕現
 第一コリ一五・六。パウロはこの「五〇〇人以上の兄弟」で原始教会のメンバーを考えていたことは確かである。この箇所は元来定形的伝承にあったものではなく、パウロ自身が書いたものだ。
 これはいつごろの時点のキリスト者集団を指しているのか。行伝一・一五「そのころ、ペテロは兄弟たちの真ん中に立って、語った。集まった人々の群れはおよそ一二〇名であった」は、エルサレムの原始教会の初期の段階の集団の数をいっているらしい。復活のキリストについての、使徒たちによる新しい使信、復活のキリストについての宣教(三~五節)の結果生まれたのが、この五〇〇人の集団である(グラースは五〇〇人への顕現はマタイ二八章にあるガリラヤの山の出来事と解釈した)。この顕現が起きた時、教団はすでに五〇〇人よりも大きくなっていた。この五〇〇人について、ヴィルケンスは「生前のイエスに帰依した人々」、ニコライネンは「ガリラヤ全体での弟子集団」と解釈した。キリストが当時五〇〇人もの教団全体に顕現した、とパウロは言っていない。むしろこの教団の特定の大部分が主の顕現に出会った。 これはおそらく礼拝の集まりの時であろう。
 ドブシュッツ(「復活祭と聖霊降臨」一九〇三)以来、五〇〇人への顕現は、行伝二章の「聖霊降臨」と同一視されてきた。しかしこれに対して、グラースは五〇〇人への顕現は聖霊降臨の前ではなく、むしろそれより後に起きたという。一二人・使徒たちには世界伝道の委託がなされたが、この五〇〇人以上のキリスト者への顕現には《何の委託も与えられなかった》点は注目すべきである。
 この五〇〇人のキリスト者について、パウロは述べている「彼らのうち大部分は今なお生きているが、しかし数人の者は眠りについた」と。ポイントは前半の「大部分は今も生きている」にではなく、後半の「数人は眠りについた」にある (コンツェルマン注解なども同じ)。復活顕現に出会ったこのキリスト者集団は生き証人としていつでもどこででも証言できる、というのがパウロの言いたいポイントでは《ない》。では五〇〇人以上の顕現の目撃証人のうち「数人が眠りについた」という点にポイントがある、ということはどういうことなのだろうか。聖書学的な研究や注解はこの点をあまり突っ込んで掘り下げていないようだ。これに対して、カール・バルトはこのポイントに「神学的解釈」をしている。少し長いが引用したい。
 「それはなんと顕著なことであろうか、主を見た人々が死んだという事実である。彼らはイエスの死が神の力によって見い出した答[復活]を見ていたが、彼ら自身の死に対する答を見てはいなかった。これはどうにも我慢ならない状態ではないだろうか。もし彼らがイエスのよみがえりにもかかわらず、やはり『眠りにつく』[死ぬ]ほかなかったのなら、ほかの五〇〇人兄弟やそのほかの証人たちも、彼らの時が来れば、実際単純に『眠りにつく』以外にないとすれば、その場合、復活した方の顕現は、彼らにとってはその他多くの体験のうちの一つであり、やがては死とともに実に決定的に片づいてしまう、数多くのいわゆる人生体験の一つであったのか。それがこういうものであるとしたら、もしそうであるとすれば、もしイエスの復活がただ一回限りの奇跡にすぎず、神が人間に対してなす奇跡の啓示でなかったとすれば、もし『キリストはよみがった』といわれるべきだけで『死人の復活』といわれるべきでないとすれば、その場合には実際あの奇跡も真実ではないし、キリストもよみがえられなかったし、その時私たちが今こんなに親愛の情をこめて『眠りについた者たち』と呼んでいる人たちも実際滅んでしまっているのであろう(一八節)。なぜならその場合生も死もひとしく無意味であるからだ」(バルト、前掲書)。
 従来の聖書学的研究ではここまでポイントを掘り下げてはいなかった。パウロはたとえキリストの復活顕現に出会った者といえども、キリストの来臨以前に「眠りについた・死んだ」という事実を指摘することで、コリントのキリスト者に彼らの死の事実と死人のよみがえりの希望を指し示すことで、眠りについたキリスト者がやがて「死人からよみがえる希望」をもあわせてここで強調した、とバルトは解釈した。この解釈をみて聖書学的な解釈・注解の不十分さを私は痛感した。

ヤコブへの顕現
 パウロがこの伝承を引き継いだ三三年ころから、パウロがこの手紙を書いた五六年ころの二〇数年の間には、ハルナックが指摘したような、ペテロとヤコブの衝突は起きていたようだ。エルサレムの原始教会において初めのうち、ペテロの優位は決定的である。それを権威づけたのは他でもなくこの復活伝承である「キリストはケパに現われ」五節。パウロの回心の三年後の最初のエルサレム教会訪問においても(三六年ころ)、パウロが訪問した相手はペテロであり、主の兄弟ヤコブとの会見は二次的に言及されている。「それから三年後にエルサレムに上がってケパ(ペテロ)を訪ね、彼のもとに一五日間滞在した。しかし使徒のうち主の兄弟ヤコブのほか会わなかった」(ガラテヤ一・一八~一九)。パウロはこの時期ペテロを教会の筆頭者と見ていた。しかしながら、一二年後のエルサレム使徒会議においては(四八年ころ)、ペテロの優位には決定的な変化が起きている。ヤコブの位置がペテロを凌駕したのだ「柱と思われているヤコブとケパとヨハネは、私とバルナバに協力の握手をした」(ガラ二・九、ペテロとヤコブの順位が逆転している)。このヤコブの優位の理由は必ずしも明らかではないが、一つにはヤコブの律法遵守(特に割礼)を厳しく守り、異邦人キリスト者との会食を避ける立場が、律法に対してより自由なペテロの立場よりも教会の中で支持された点(クルマンの「ペテロ」もペテロが律法主義からの自由の点でパウロに近かったとみている。ルカの行伝一〇・四四以下で「割礼のない異邦人ら」に洗礼を授けるのはペテロである)、ペテロが伝道旅行のために教会を留守にしたことがあげられる、グラースの解釈。かくてアンティオキア教会でペテロに不名誉なスキャンダルが起きた「ケパ・ペテロは《ヤコブのもとからある人々》が来るまでは、異邦人キリスト者と食事を共にしていたが、彼らが来ると《割礼ある人々》(ヤコブ派のユダヤキリスト者)を恐れて異邦人キリスト者から引き下がって離れていった」(ガラ二・一二)。ペテロのこの不甲斐ない行動はパウロによって批判された。
 主の兄弟ヤコブは初めから新しい教団に所属していたのではなく、むしろ教団がすでに大きな集団を包括していた時、はじめてそれに所属したようだ。考えられるのは、ヤコブへの顕現は回心の意味を持つていなかった点だ。むしろ彼は教団に入って後に、あげられた自分の兄弟イエスを知つたのだ。行伝一・一四「彼らはみな女たちとイエスの母マリアと彼の兄弟たちと心を一つにしてひたすら祈っていた」。家族がイエスの生前、息子で兄を理解することなく、対立していた点は福音書のいくつかの箇所で明らかだ(マルコ三・三一~三五など)。ヤコブについては行伝一五・一三の、使徒会議で演説をし、議長をつとめるなど彼はすでに原始教会において指導的役割を演じている。ヤコブが早い時点で最高の地位に到達したことは、先の引用(エルサレム教会の)「柱と思われているヤコブとケパとヨハネ」(ガラ一・九)からも明らかだ。
 ヤコブへの復活顕現はパウロの回心前であるが、その顕現はおそらく復活祭の最初の月ではなかったと推定できる。その顕現を時間的に復活祭とパウロの回心の中間に設定しようとすることは、とにかく第一コリ一五章とは矛盾しない。
 ヤコブへの顕現については、偽典「ヘブル人福音書」も述べている、
 「しかし主は、ヤコブのところに行って彼に姿を現した。主の杯を飲んでしまってから、主が眠っている者たちの間から復活するのを見るまでは、パンを食べないと誓っていたからだ。しばらくたって主は言われた『食事とパンを持つてきなさい』。そして主はパンをとり祝福して裂き、義人ヤコブに与えて言われた『わが兄弟よ、君のパンを食べなさい。人の子は眠っている者たちの間から復活したのだから』」(へブル人福音書一七、「新約聖書偽典」より)。

すべての使徒たちへの顕現
 七節「さらにすべての使徒に現われた」は解釈が難しい。カール・ホルは「すべての使徒」を一二人とヤコブとみなした(グラース)。しかしそのような解釈はかなり広い集団を示唆する「すべての使徒」にとっては、小さすぎるようだ。
 まず《主の他の兄弟ら》をこれに加えるべきだ。パウロが第一コリ九・五「使徒たちや主の兄弟らやケパ」で「主の兄弟ら」をただちに使徒に結合せず、両者を並行的にあげている。
 おそらく《バルナバ》(クプロ島の出身のへレニスト・キリスト者、自分の地所を売ったお金をエルサレム教会の救済資金に献金した。アンテオキア教会の指導者の一人でパウロの先輩格。エルサレム会議にパウロと共に代表者として出席。後にパウロと共に伝道旅行をする、行伝四・三六以下、一三~一五章、ガラテヤ二章)は、七節のいう使徒の集団に属す。
 ロマ一六・七の換拶のリストでパウロは二人の、よく知られていない、使徒の中で際立った《わが同労で同囚の、アンドロニコスとユニアス》をあげた。この二人は顕現を与えられた使徒集団に属していたと推定できる。パウロはこの人々を彼より前に、おそらくエルサレムキリスト者になったとはっきり述べている。「彼らは私より前にキリストを信じていた」(同)。
 ペテロと一二人への顕現が《ガリラヤ》に基づき、その後のすべての使徒への顕現が《エルサレム》に基づくとの推定が正しいとすれば、これらの顕現は、二度にわたる別々の状況を前提としている。顕現の時点ではむろん教団はまだ存在していない。ペテロと一二人が顕現において伝道の委託を受けて、彼らが復活したイエスについて宣教・説教したことで、教団は成立した。

パウロへの顕現
 「なかんずく最後に、キリストは月足らずに生まれたも同然の私にも現われた。私は使徒たちのうちで最末席者で、使徒と呼ばれるに値しない。それは私が神の教団を追害したからだ。しかも神の恵みによって現在の私はある。また私に対するその恵みは無駄にはならず、むしろ私は彼らのすべての者よりも多く働いてきた。しかしそれをなしたのは、私ではなく、むしろ私と共にある神の恵みである」(第一コリント一五・八~一〇)。
 パウロ自身は他の箇所でキリストの復活顕現との出会いをこう述べた。「私は、私たちの主イエスを見たではないか」(第一コリント九・一)、「母の胎以来私を選び分かち、恵みをとおして召した方は、気が向いた時に、み子を私に啓示してくださった」(ガラテヤ一・一五~一六)。
 八節の「月足らず生まれ」は民数一二・一二では死産の子、ヨブ三・一六では流産の子。イザヤ一四・一九では月足らず生まれの子。この用語は、人間の無力、無価値であること、みじめさを意味している。一〇節には「神の恵み」が三回言及されていて、注日させられる。この恵みはパウロを教会・福音の追害者から使徒への人生的大転回をなさしめ、かつ使徒的活動を支えてきた。ここでの恵みは、使徒への召しを受けた者による宣教のための力である。「パウロは単に受身の対象ではないが、彼の働きの本来の主体は、彼自身ではなく神の恵みである(一〇節後半)。いずれにしろパウロの伝道活動は、キリスト出現の際に彼に与えられた恵みの現実性と効力、同時にイエス・キリストのよみがえりの現実性と効力とを証している」(シュラーゲ)。パウロの述べる「《最後に》キリストは私に現われた」における「最後に」は、パウロへの顕現が最後でそれ以後顕現がなかったことを示している。
 ルターはここの八~九節についてこう解釈した。
 「神はその[宣教]ために、自信たっぷりの、思い上がった魂を用いようとは欲しない。そうではなくて以前には、いかにももみくちゃにされ、誘惑され意気沮喪させられていたような人々を用いようと欲する。彼らは聖パウロがかってそうであったように悪童であったこと、および神とイエス・キリストの敵として、神に対する正真正銘の大罪人と呼ばれてよい、そうした罪の重荷を背負わされていたことを、知りかつ告白しなければならぬ。それは彼らがいつまでも謙遜にとどまり、思い上がった振る舞いに出たり、自ら誇ったりすることがないためである」(「講解」)。