建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-4 コリント教会の復活否定論②

二、彼らがグノーシス主義者との解釈
 リーツマンによれば、「彼らはおそらく《ユダヤ教的な(死人の)復活の教説》につまづいて、ギリシャ的な《霊魂不滅という教説》を強調したのだ」(前掲書)。周知のように、ギリシャ人にとって復活という教説はなじみのないものであった。行伝一七・三二はパウロの、死人の復活の宣教に対するギリシャアテナイの人々の冷ややかな「あざけり」を述べている。リーツマンの解釈は要するに、論敵らが「身体の復活に異を唱えた」という点にある。
 ショットルフもこう主張した「論敵らは二元論的、グノーシス的人間論をもっていて人間の全体的復活を拒否した」(一九七〇の論文「信仰する者と敵対的世界」、コンツェルマン注解)。
 だとすれば、ポイントは《復活させられたキリストの身体性の否認》にある。パウロの復活理解においては、復活した方と将来復活させられるキリスト者らの新しい、非地上的な身体性「霊の体」「死なないもの」「朽ちないもの」が強調されているが(第一コリ一五・四二、四四、五二、五三)、他方福音書においては、復活のキリストの《身体性・肉体性》が際立って強調されている。パウロ福音書編集以前の時期において(後五〇年代)《復活の身体性を疑う見解》と対決したように、福音書の記者、特にルカは《キリストの復活の身体性に対して異を唱える見解》に反駁した。その反論の方法はパウロとは異なって、「地上におられたイエスの身体性のままの生き返りという形での身体性の強調」という方法であった。それほど福音書編集の時期(後七〇~九〇年代)においても、復活のキリストの身体性を否認する《霊魂のみの復活論》がはびこっていたと想定できる。
 バルチは、キリストの来臨における出来事(「死人の復活」と)それを生きている間に迎えるキリスト者の《変容・メタモルホーゼ》(「私たちは変えられるであろう」第一コリ一五・五二)に焦点をあて、「論敵ら」は「復活の身体性に異を唱えたのではなく、むしろ『朽ちるものと朽ちないもの』(四二節) 『地上的体と霊の体』(四四節)『死ぬものと不死なるもの』(五三節)というふたつの身体性の相違に異を唱えた。彼らは《死を経ることなく、直接的に新しい存在様式へと変容する》と考えた。これに対してパウロはこの変容には《死をくぐりぬけること》が不可欠だと証示したという(第二コリント五・一以下、コンツェルマン注解)。しかし、パウロが、生きているキリスト者の来臨における変容のありようを、死を媒介としない場合も考えていた、「私たちはみな眠りにつく[死ぬ]のではない。終りのラッパに際して、たちまち、瞬時に、みなが変えられるであろう」(第一コリ一五・五一)。また「朽ちるものが朽ちないものを着せられる」「死ぬものが不死なるものを着せられる」(五三~五四節)の表現からは「死をくぐりぬけること」は前提とされていないようだ。
 べールソンは「死人の復活を否認する者たちは、地上的な存在(魂的存在・Psychiker)が霊的な(pneumatische) 存在へと復活させられることに異を唱えた」という。
 ブルトマンは、パウロの論敵らが《グノーシス主義的見解》をもっていたと解釈する。またコリントの教会員が『死によってすべてのものが終ってしまう』と教えた点で、パウロが彼らのことを誤解していた、とみる。
 コリント教会のグノーシス主義者に言及されているのは、第一コリント一五章よりも、第二コリント五・一以下である。
 「私たちの地上的な幕屋がこわされると、天には神からの住居、手によって造られたのではない、永遠の家を私たちは得る。それゆえ私たちはうめいている。天からの住居を着たいと憧れ求めているからだ。(地上的な)衣服を《脱いだ》あとも、私たちは《裸でいる》ことにならない。私たちは現在の天幕で苦悶しうめいている。それを脱がされたいからではなく、むしろ上から着せられたいと欲しているからだ。それによって死ぬべきものが生命に飲み込まれるためである。しかし私たちにこれを仕上げてくださるのは神である。神は私たちにみ霊という手付金を与えられたのだ。だから私たちは常に上機嫌である。私たちが体にとどまっている間、主から離れておることを知っている。私たちは実際見ることにではなく、信仰に歩んでいる。私たちは上機嫌であり、そして《主のもとに住むことができるように、むしろ体を脱ぐほうを選びとりたい》」(五・一~八。ブルトマンの「注解」訳、一九八七。三節の通常「着る」という協会訳、前田訳、ルター、リーツマン、ヴェントラント訳の読み方「それを着たなら裸のままではいない」に対して、ブルトマンは「脱ぐ」という写本の読み方を採用した。パウロはここで「地上的な衣服を脱ぐ・体を脱ぐ」死と死後のありよう「裸」を問題にしているのであるから、協会訳は意味不明な訳だ。なお八節はピリピー・二三との関連で取り上げる、後述)。
 第二コリ五・ 一以下において「地上的幕屋・住居・オイキア」(一節、二回)「天にある住居・オイコドメー」(二節、二回)はいずれも「体・ソーマ」(六、八節)を示している。人の身体を「天幕」と比喩的に表現している。パウロと論敵、すなわちコリント教会の「グノーシス主義者」(ブルトマンの注解)との対決点は、この三~四節の部分で先鋭化するようだ。「ここでは明らかに地上的な身体・ソーマからの解放としての《裸であること》へのグノーシス主義的な希望は、天の被服(不死のソーマ)を上から着せられることへの[パウロの]希望と相関概念をなしている」(「注解」)。
 パウロはむろんここでグノーシスの説「人間は死において地上的な衣服(体)を脱いで、裸となる」すなわち身体から解放された「裸」、霊魂的、脱身体的存在として昇天して救いにあずかる、との見解と対決している。ブルトマンによれば、パウロはコリント教会のグノーシス主義の言表から、グノーシス主義者が「地上的な体を脱がされることへの切望と地上的な体からの離脱・裸への希望のみを聞き取った」ようだ。とにかく「裸」という中間状態(死と主の来臨の間の状態)に対してパウロは不安を感じていない。来臨の前の時期では地上の身体を《脱がされること》(第二コリ五・四、八)は死に際して起きるが、天的な被服・新しい体を《着ること》は来臨の際にはじめて実現するはずである。したがってここでの《裸であること》は墓の中で眠りについた人のことだと想定できよう。裸であることに希望をいだいているグノーシス主義者が、自分たちは「信仰のほかに《見ること》を所有している」と主張したのに対して、パウロは「私たちは《見ることによらず》信仰によって歩んでいる」と反駁した(第二コリ五・七)。
 論敵らは「身体を脱いで、裸・霊魂的存在でいること」に希望をいだき、それを切望しているが(「地上的な体を脱がされたいと欲している」四節)、しかしパウロは真のキリスト者が、身体からの解放、非身体的霊魂的存在でなく、むしろ天的な衣服すなわち《新しい体》を待ち焦がれる、とみた。このようにグノーシス主義者は地上的天的「身体性」双方を敵視し、身体性を自己の霊魂的存在の救いをはばむ障害物とみなした。ブルトマンのこの注解を第一コリント一五・一二以下のパウロの論敵の立場とみなすことができる。
 私は、ブルトマンの解釈に同意する。プラトンの霊魂不滅説の支持者とパウロは対決したと考えるからだ。この点で「ソーマ・プシュキコン・地上的な体」(第一コリ一五・四四)に対する協会訳「肉の体」という翻訳はまずい。ドイツ語訳の「魂的体」がよい。プラトンの支持者と闘う戦線は「魂的存在」か「霊的存在」かであるからだ。