建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-2  藤井武のキリスト者の復活論②

 また藤井はこう続けている、
 「元来《血気の体》に適用せらるるべく起りし今日の生理学が《霊の体》を説明しうるはずがない。我らはただ新約聖書のなかの僅少なる暗示を握るのみ。『こう聖書に書かれている<第一の人間アダムは生きたものとされた>[創世記二・七]。<最後のアダムは生命を与える霊とされた>」(第一コリント一五・四五)。「第一の人間は地から出た、地上的なものであり、第二の人間[キリスト]は天から来た。地上的なものが地上的なものの性質をもつように、天的なものは天的なものの性質をもつ。また私たちが地上的なものの形をとったように、私たちは天的なものの形をとるであろう』」(第一コリント一五・四五~四九)。我らの現在の肉体がアダムの肉体に似たると同じ程度において、我らの未来の形はまた復活のキリストに似たるものであるに相違ない。ゆえにキリストの復活体に関する聖書の記事は、キリスト者の霊体の実質を説明すべき最良の資料である」。
 そして藤井はいう、昇天後のイエス、すなわちパウロがダマスコ途上で昼の日よりも強い光としてみたイエス[行伝九章]、ヨハネ黙示録のヨハネエーゲ海の小さな島パトモス島で、七つの金の燭台の間にいますのを見たその姿こそ[黙示録一・一二以下]「我らが未来の姿の典型であろう」。言い換えると、永遠の世におけるキリスト者の霊的生活を完全に実現せしむべき「不朽にして強健にして光栄ある機関」と。
 そしてこのような「機関・霊の体」は、そこでの生活が「完全にしてかつ有効なる《活動的生活》」に不可欠のものだという。したがって「来世は楽しく静かなる永違の安息の世でなくてはならぬ」「天国の生活といえば、清き岸辺に親しき者と声をあわせて讀美歌を歌い続けるような生活」との見解は、誤解である。藤井によれば、来世でこそ、自分の利益のためではない活動、ある目的を達成するための手段として働くのではないような活動、愛のためにその身を献げて他の人に仕えること、つまり活動そのものが目的であり、歓喜であり満足であり、幸いである活動が実現される。
 「休息」は活動の停止による疲労困憊の治療であり、安息の一部にすぎない。「安息」の主要な要素は力より力に進む純なる活動にある。「この世の活動については休息、しかしながら、神への奉仕については没頭、かくのごときが真の安息である。…来世においては我らはこの世的の活動より休息するであろう。しかしながら来世生活の主たる要素は休息ではない、活動である。神のためにする没頭的活動、わが思想と行動との全部を名残りもなく直接に神に献げて行なう不断の活動、それが来世におけるわれらの生活である」。
 これと関連して、藤井は「天職」はキリスト者の死後においても続行される、と説く。「我らが神から授けられた天職の遂行は、死と共に終らない。天のパラダイスまで我らはそれを携えていく。あすこへいってから悦びをもってそれを継続する」。その聖書的な根拠として藤井は黙示録一四・一三をあげた。
 「また私は天からの声が言うのを聞いた『書け、今から後、主にあって死ぬ死者たちは幸いだ』。み霊は『しかり』と言う。『彼らはその労苦から解放されて憩うであろう。彼らの業は彼らについて行くのだから』」(佐竹訳)。
 藤井は述べる、彼らの「労役」(kopon=煩労、苦痛、悲嘆)は墓の入り口で行きどまる。主にある死者はこれを止めてやすむ。しかしその「業」(erga=事業、活動、行為)は彼らに随うのだ、墓を超えてどこまでも死者についてゆくのだ。…この世において我らの経験する苦しみはみな除かれて、あすこでは活動即歓楽だ、行為即安息だ。詩人、学者、芸術家、その他一切の事業が、形こそ変えるが、各自の性質をもってさらに祝福されながら天の世界で限りなく継続される。それだから「今より後、主にありて死ぬる死者は幸福」なのだ。ただ労役を休むからばかりではない、業が彼らに随うからだ。召されし者の幸福は主のもとにおいて彼のみ顔を見ながらその天職を遂行しうることにある。
 「聖書がギリシャ哲学の如く霊魂の不滅について語らずして、くすしき未来の身体を説くは、さらに大なる恩恵を意味する。身体問題は霊魂の完全なる活動の問題である、すなわち霊的生活完成の問題である。この一事の確かめらるるありてキリスト者の前途にたぐいなくさいわいなる希望が輝きわたる。…もし歓喜にみつる来世生活が死なる出来事を抜きにして、ただちに現世生活に接続することあらば如何。これを笑うべき空想というもの[者]は誰か。死は必ずしも人の必然の運命ではない、キリスト者は何びとも死を経過せずして光栄ある来世生活に移りうるべき可能性を有すると聖書はここかしこにおいて明言する」。
 藤井はここで旧約聖書における天に移されたエノクの例、ヘブル一一・五「エノクは死をみないよう
に移された」、詩七三・二四「やがて私を栄光へと《移される》」などを想定している。他方で藤井はここで「キリスト者の変容」をも想定している。
 「我らが霊体を賦与せらるるは、いつともはかられざるキリスト再臨の時であって、その時現に生存せるキリスト者はこの新しい体を着せられんがために必ずしも古き肉の体を脱ぐ(即ち死する)に及ばず、いわば古き体をまとえるままその上に新しき体を着せらるれば足りる。しからば死すべきものが死するの暇なくして、そのまま生命にのまれ、死せざるものと化するのであるという[第一コリント一五・五一~ 五五]。これまた信ずるにはなはだ骨の折れる啓示である。誰が今日の科学をもってかかる事実を説明することができよう。…況して原理からすれば、罪を贖われし者は死の束縛より解放せられた者であるがゆえに、死を経過せずして永違の生活に入ることこそ、むしろ当然であると言わねばならぬ。…かくのごとき事実は今はキリスト者の多数さえもさながら迷信のごとくにしてこれを嘲笑する。しかしそはたまたま彼らの来世観の不徹底と不熱心とを表明するのみ。来世を慕とうてやまざりし初代キリスト者にありては、歓喜あふるる未来の生活が死を飛び超えて直ちに現在の生活に接続しうべき事を少しも疑わなかったばかりでなく、彼らがこれを慕い求むるこころは、あたかも重荷を負えるが如く切なる歎きとして現われたのである(第二コリント五・二~四)」。
 「いかにして死に処すべきか」
 藤井は、では来世を約束されたキリスト者にとって死はいかなるものかを問い、そして聖書がこれについて語るのははなはだ稀であると述べている。数少ない箇所の一つとしてピリピ一・二一~二三を取り上げている、
 「というのは私にとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。ところで肉において生きること、それは私にとっては働きという賜物である。どちらを選ぶべきか私にはわからない。私はこの二つのものの板はさみになっている。私の切望するのは(世を)立ち去って、キリストと共にいることである。その方がはるかに善いからだ」(ローマイヤー訳)。
 この箇所について、 藤井は述べている、
 「あたかも人をして《死の讚美》をきくの思いあらしめる。…そはもとより生の厭わしきがゆえでなくして、死が生にまさるの生たるがゆえでなくてはならぬ。まことに彼にとって「生くるはキリスト」であった。…彼の原動力がことごとくキリストであって、しこうしてキリストこそは彼の歓喜中の歓喜であった。しかるに彼はなお附言して曰う「死ぬるは益なり」と。その語勢よりすれば『死ぬるは生くるよりもさらに益なり』との意味たるを疑わない。ゆえに曰くこれ「[生に別れを告げること]遥かにまさるなり」と(二三節)。…怪しむべきは生の謳歌者より出づる死の高調なる讃美である。しかしてこの大なる謎を解くものは唯一あるのみ、即ち《死は生にまさるの生である》との事実これである。何人にも大いなる悲痛の原因たる死、多くの勇者すらもその前に当りて思わず戦慄する死、未来信者すらも、自ら畏縮を禁ぜざる死、それが生にまさるとは!よし死は生命の絶滅ではないとするも、果して意識なき永き睡眠ではないか。もしまた何らかの意識ありとせば、かえって最も苦痛多き陰鬱なる状態ではないか。いずれにせよ死はいかに良くこれを見積もるとも、健全なる生活にとりて何よりも望ましからざる最後の休憩所ではないか。 《死は肉体を脱ぎていまだ霊体を着けざるいわゆる裸の状態にある点において [第二コリント五・一以下]確かに不完全なる変態たるを免れない》。しかるににもかかわらず、何ものをもってしても代うべからざる《恩恵》のこれに伴うあるがゆえに《死は意識なき睡眠状態にあらず、陰鬱なる苦痛の生活にあらずして、かえって生にまさるの生たらざるをえないのである。恩恵とは何か。キリストとの偕在[かいざい]これである》。『願うところはむしろ身を離れて主とともにおらんことなり』[第二コリント五・八]。主とともにおるという。もっとも親しい人格的交流関係に入ることである。…この一事においてキリスト者の死は現在の生活よりも遥かにまさるのである」。
 さて藤井の本書で一番印象的であったのは、第六(章)「沙洲を超えて」の(一)今日我と共にパラダイスに(二)生くるはキリスト、死ぬるは益なり、の一五ページほどの部分であった。
 藤井はまず、テニスン(一八〇九~一八九二、イギリスの詩人、亡き友への挽歌「イン・メモリアム」が有名)の辞世の詩「沙洲を超えて」(死の数年前に書かれ自ら辞世の詩に選んだもの)を引用する。

  日没、明星、
  そして私を呼ぶ一つの明らかな声!
 どうか《沙洲の歎き》がないように、
  私が海へ漕ぎでる時。

 しかしぐんぐん動く潮も眠っているように見えるのだ、
  響きや泡を立てるには餘りに充ちているから、
 限りなき深みから出て来たものが
  また家に帰る時には。

 薄明、晩鐘、
  そしてその後に暗やみ!
 どうか《告別の悲しみ》がないように、
  私が乗り込む時。

 なぜなら時や場所などという私たちの小河から
  さし汐が私を遠く連れて往くにしても、
 私は《私の水先案内》[キリスト]にまのあたり遇うことを望んでいるのだもの、
  私が沙洲を超えるとすぐに。

 この詩について、藤井は述べている、
 「ここに現われている思想は、一つの確かな実験的真理として、無条件に共鳴を促すではないか。『沙洲を超えて』はたしかに霊魂の実験の聲だ。それはテニスンのものであると共に、また私のものだ。私自身の告白だ、讃美だ、祈りだ」。
 藤井はこの詩を解釈している、人生の日没、厳粛なる時だ。宵の明星。そして今、明らかに私の名を呼ぶ声が聞こえる。ああ召しの声だ、いよいよ時がきたのだ。もちろん大いなる寂しさを打ち消すわけにはいかない。がしかし、自分は悲しんでもらいたくない。それはお別れには違いないが、いわゆる《告別の悲しみなるもの》は何としても私にはふさわしくないのだ。なるほど私は今さし潮に引かれて、はかり知れぬ大洋の沖へ速く連れていかれるだろう。しかしその私の望みの鮮やかさ、楽しさ。私は《私の水先案内》-誰よりも慕わしい彼[キリスト]に、目のあたりに遇うとしているではないか。何という明るい体験《何という望みに満ちた船出》だろう。
 キリスト者の死後のテーマについての、 藤井の来世研究は前人未到の先駆的研究であるといえる。
 藤井の研究で評価される点は、このように「来世におけるキリスト者のありよう」を聖書に基づいてスケッチしたことにある。この点に関しては従来欧米の研究においてもほとんど取り上げられることがなかった。しかしながらほんの数年前からやっと取り組まれ始めた。一九九五年のモルトマンの「神の到来」、九六年のヴィルケンスの「死にさからう希望」である。この文献の前半でキリストの復活を、後半で「キリスト者の復活」を取り上げている。最近の欧米の神学の視点からもう一度藤井の研究を検証してみていくつかのポイントをあげてみたい。
 第一に、藤井の研究は、カール・バルトの復活研究「死人の復活」(一九二四)と同時期になされたものであるが、キリストの復活を「歴史的な事実」とみなしている点ではいまだ「素朴過ぎる」と評価すべきである。「歴史的事実」というものは、認識、承認すればいいものであって、けして「信仰のテーマ」とはなりえないからだ。ヘブル一一・一「信仰は希望をいだいていることに対する担保であり、見ていない事柄を実証することである」(ミヒェル訳)によれば、信仰はいまだ実証されずに希望に属している事柄に対する神の保証を受け入れること。「歴史的事実」は目に見えるものであり、「場合によっては写真にとれるものである」から承認、認知で十分で、信じるものではない。宗教改革の時代には、キリストの復活は聖書にかかれているとおりに起きたと信じられていたが、すでにみたように(「復活の史実性の問題」)現在の「復活をめぐる論議」においては、復活の史実性に対して強い疑いが提起されて、史実的には確証できない出来事「歴史的事実でない出来事」をどう把握するが焦点となった(バルト、ブルトマン、モルトマン、パンネンベルクなど)。したがって私たちは復活の出来事を単純素朴に「キリストの復活を歴史的事実である」とはいえないのだ。 パウロの書簡の復活の史実性を認めているパンネンベルクにしても、福音書の復活記事、特にルカ二四章、ヨハネ二〇章の顕現記事には強い疑念を示している。
 第二に、藤井の研究においては、「キリスト者の死後のありようを明らかにした点」が高く評価される。これはバルトの問題意識に欠落していたポイントであるようだ。モルトマンなどの最近の研究の、ほぼ八〇年も前にこのテーマを手がけて成果をあげている。その意味で藤井はこの分野で前人未踏の道を切り開いた先駆者であったといえる。
 第三に、私たちは「先に亡くなった愛する者たちとどこで再会できるのか」、この点について、藤井は来世であえると明言している。
 「我らが先にいった愛する者とまた会うことのできるのはいつか。復活の日にその喜びが我らにゆるされることはいうまでもない。けれども復活のときまで我らは待たねばならぬのか。…[死後において] 我らがキリストをまのあたりに見出す時に、またすべて我らの愛する者を見出すのだ。彼らは我らと一緒にいる、彼らはそこで我らを待っている。ああ再会の悦び!その実現の日は近い。必ずしも復活の朝まで待つに及ばない。我ら各自が委ねられし戦いを終って、父のみもとに凱旋するその時、彼らは歓び勇んで我らを迎えてくれるだろう」(前掲書、沙洲を超えて、二)。
 むろん藤井は、亡き愛する喬子(のぶこ)夫人のことを常に念頭においてこのことを書いたものと想定できる。妻や夫、わが子に先立たれることのない人々には気がつかない重要な問題意識があってこそ、探求できたテーマである。