建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-4 希望に逆らう希望② 

アブラハムの範例
 私たちの信仰者の父、アブラハムの範例をみたい。アブラハムの信仰が神によって義とされたのは、いまだ子のいない、その彼の子孫が将来、夜空の星のように増大するとの神の将来的な計画・約束を彼が信じたことによる(創世一五・六)。
 「アブラハムは私たちすべての者の父である。『私はあなたを多くの国民の父と定めた』(創世一七・四以下)と(聖書に)しるされているように。神のみ前で、彼は、死者たちに生命を創造し、存在しないものを存在へと呼び出す方として神を信じたのだ。《希望に逆らって、希望をあてにして》彼は信じたのだ。そのために彼は『多くの国民の父』となったのだ」(ロマ四・一七~一八、ヴィルケンス訳)。
 用語的には「死者たちに《生命を創造する》」の「生命を創造する・ゾーオーポイエオー」は神のみを主語とする特別の用語で「復活の新しい生命を与える」という意味(他にロマ八・一一、第一コリント一五・四五「最後のアダム(キリスト)は復活の生命を与える霊となった」など)。「呼び出す」は神のみ言葉による創造行為のこと(創世一章)。神はいつも地上的には何も存在しないところでのみ、創造行為をなされる。無からの創造(creatio ex nihiro)である。神を信じることは、神のこの創造者的な力を信頼することである、ヴィルケンス。
「希望に逆らって・パル・エルピダ」は、「人間的な期待に逆らって」(バウアーのレキシコン)、「地上的な希望に逆らって」(ケーゼマン)、「あらゆる希望に逆らって」(ヴィルケンス)のニュアンスで、アブラハムには《人間的には不可能にみえる状況があったこと》をふまえた表現である。「信仰者は、地上に希望をつなぐものが何もない、まさにそのところにおいて希望をいだく。…信仰者を特徴づけるのは『不合理なるがゆえにわれ信ず』[二〇〇年ころの神学者テリトリアヌスの言葉]ではなく《不合理をわれ信ず》なのである。彼はあらゆる地上の現実に逆らって神の約束にあえて信頼し、死者を復活させる方にあえて身を委ねる」(ケーゼマン「ローマ人への手紙四章におけるアブラハムの信仰」佐竹訳)。アブラハムの人間的な不可能性とそれに対する彼の行動は、こうしるされている。
 「彼は一〇〇歳ほどで、体が枯死していること、サラの胎も枯死していたことに目をとめたが、不信になって神の約束を疑うことをせず、むしろ信仰において強められ、神に栄光を帰し、神は約束されたことをはたす力があると心から確信した」(ロマ四・一九~二一)。
 一〇〇歳の夫アブラハムの『枯死した体』すなわち生殖能力が失われ、妻サラの『枯死した胎』すなわち妊娠・分娩能力がないという不可能性を彼は一方では考慮したが、他方では完全にこの事実を排除してしまった。この希望なき状況で、にもかかわらず神の約束に信頼するということは、何に対しても希望をいだくことができないところで希望をいだくこと、言い換えると《神の創造者的な力、死者たちに生命を創造し、存在しないものを存在へと呼び出される神の力に彼が希望をおいたこと》を意味する。約束は一般的に何らの確実さもないものだ。
 「私はあなたの子孫を増やして、天の星のように、海の砂のようにしよう」(創世二二・一七)との約束は、人間的に見れば《実現不可能》であり、その点では「無からの創造も死者たちのよみがえりも」同様に人間的にはまったく《不可能なこと》にみえる。それゆえ、そのような約束の実現、死者のよみがえりは《地上的な希望に逆らっている》といえる。人間的な尺度によれば、すぐにもしぼんでしまうような事柄に希望をいだくには信仰の力が不可欠となる。しかしながらアブラハムは自分たち高齢の夫婦が子をもうける《不可能性》に目をとめつつも、信仰的に弱められることがなく、むしろ信仰において強くされた。彼の力は神から与えられたのだ。それゆえ彼は神に栄光を帰した。「希望は、幻想的に奇跡を待つことではなく、むしろ算定可能な領域から、み言葉によって打ち開かれる地平、神の救済意志のもとにある将来へのエクソダスである」(ケーゼマン、注解)。
 人間的な不可能性に十分に目をとめながらも、この不可能性を果敢に乗り超え突破していった、アブラハムの行動を私たちは学び取りたい。キリスト者の希望の内容「死後ただちにキリストと共に、そしてキリストの来臨を待ちつつ、自分たちが復活させられて、霊の体を着せられることに希望をいだく」。この希望の形も人間的な不可能性をまとわりつけているからだ。
 四・一八の「希望をあてにして・エプ・エルピディ」は「希望に基づいて、希望をあてにして、支えとして」という意味である。この一八節の読み方は難しい。「アブラハムが多くの国民の父となった」を希望の対象と把握して「自分が多くの国民の父となる《との希望に基づいて信じた》」との読み方も可能ではある(松木治三郎、注解)、しかしこの読み方にブルトマン、ヴォシッツ(「希望」の著者)が反対している。他方「自分が多くの国民の父となる」を「信じた」の対象(目的語を表わす名詞句)と把握して「自分が多くの国民の父となる《と信じた》」との読み方も可能であるが、これにはブルトマン、ケーゼマンが反対している。「多くの国民の父となる」を、彼らは結果を意味する不定詞の副詞的用法とみなす。「その結果として彼は多くの国民の父となった」と。アブラハムが「多くの国民の父」と言われているのは、ユダヤ民族の祖先「私たちの肉による父祖」(ロマ四・一)の意味ではなく、むしろ「信仰による者こそアブラハムの子である」(ガラ三・七)。すなわち信仰者の「父」のことで「改宗者の父」の意味である。特に「異邦人キリスト者の信仰の父」という意味をパウロはこめている(ヴィルケンス、注解)。
 アブラハムのこの範例は、人間的には不可能であるが、死者たちに生命を創造し、存在しないものを存在へと呼び出す神の力に希望をおく、との《希望のもち方》を私たちに示している。彼の希望の形は「地上的な希望」においては不可能に見える事柄に直面したが、けしてたじろがなかった。私たちの希望は「死の彼方に起きるキリスト者の復活への希望」であり、あらゆる希望にさからう希望、霊の体を着せられる、私たちの将来的な復活への希望である。アブラハムの範例に勇気づけられて、み霊の執り成しをとおして、私たちもこの希望をもちつづけることにしたい。