建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、みじめな人間 2  ロマ7:24-25

1997-24(1997/6/14)

みじめな人間 2  ロマ7:24-25

 17世紀の敬虔主義者。先に取り上げたアウグスティヌスやルタ一の見解をふまえつつパウロの言葉を読んでみると、例えば次の箇所「あなたがたはキリストの体をとおして死に至らしめられた。それはあなたがたが他のお方、死人からよみがえらされたお方のものになるためである」(ロマ7:4「あなたがたが立っているのは、罪のもとではなく、むしろ恵みのもとにであるからだ」(ロマ6:14)を読むと、どこかパウロとルターらの見解とは「違う」ように思える。この「違い」はおそらく、パウロにおいては「霊と肉とのリアリティー」が同じ重みをたもっているのに、ルタ一らにおいては「罪の赦し」より「罪の現実」のほうが重みをもってきてしまう。「ここには(ルタ一の見解には)罪からキリストへの大いなる転換、かつてと今との対立が欠落している。ここでは罪は本質的に過去のものではなく、むしろ現在のものとして登場してきており、キリスト者の立場に存続したままである」(アルトハウス、注解)。ルタ一らにおいてはキリスト者におけるみ霊の支配、罪の赦しの現実が少し希薄に映るという点である。
 このような印象をもったのが、実は17世紀のドイツの敬虔主義者たちであった。すなわちキリスト者の生活は、日々これ罪の懺悔であって、キリスト者の生活にはただ罪のみが見い出され、罪の赦し、義認は単に告知されるだけという状態、あるいはキリスト者に罪が見い出されるという事実によって、罪が密かに正当化されてしまって、他方では罪との闘争が具体的になされているとの経験が消滅しているような危険性、あるいは「救いの経験」があまりに抽象的なものと化して、キリスト者の生活を積極的に規定していくような経験とならないような危険な状態が生まれる。そこで敬虔主義者らはキリスト者の生活をすべての受洗者らの《初めの時期の生活の形》と、その後の《再生・生まれ変わった》時期の生活の形とを区別した。そこでは霊と肉との闘争は転調されて、キリスト者は《事実上存在する罪と絶えず新たな告知においてのみ現実となる義との闘争》によってきわめて苦痛に満ちた不安に陥り、やがては現実の《悔い改め》へと導かれ、この悔い改めに対して、神はそれにふさわしい《聖化》という具体的な奇跡をもってお答えになる。かくして敬度主義者A・H・フランケ(1663~1723)はロマ7章を洗礼は受けたものの《未だ再生をしていな者たちの経験》と解釈した(ヴィルケンス)。
 さて20世紀においては、ロマ書7章における「私」をキリスト者のものととるか、それともキリスト者以前の、古い律法のもとの人間の状態を述べたものと解するか、真二つに割れている。前者に属すのは、ニーグレン、バルトら、後者にはアルトハウス、ブルトマン、ミヘルらがいる(松木、注解)。
 ブルトマンはいう、ロマ7章においてパウロの眼目は、安価な洞察、つまり事実上の罪に道徳的な意志が勝てないという点ではなく、むしろ《歴史的存在の二つの可能性》すなわち人間の意欲は本来《人間の実存一般の超主体的な傾向》として生きるという点に向けられる、しかし人間は自分の行為すべてにおいてこの目的、つまり《前もって自分自身の本来的な意図に向けられているものを欠落している。それが分裂である》。いまや《罪》は 事実上の律法違反の意味を超えて、人間が《生命に至らせる》神の戒めを誤解して、自分の実践として律法の成就をしようと挑戦し《この律法の実践をとおして人間が自分の本来性を自ら創り出そうと欲する点にある。まさしく自己実現というこの欺きの意志をとうして人間は自分の本来性、つまり真の生命を失つている》。プルトマンによれば、ロマ7章における眼目は、人間における物質的なものと非物質的なものとの対立(19世紀のバウアーの見解)でも、感覚性と道徳性との対立(カント)でもなく、むしろ次の問いである。すなわち人間が自己自身によって、自分の実践により生きるのか、それとも、生のための意志にふさわしく、自己でありたいとの意欲を棄てて、神の賜物として、神のみ霊の授与として真の生に到達するかという問いこそ、眼目である。 ロマ7章は第一の可能性(自己自身によって生きる可能性、罪の働き)を、8章は第二の可能性(自分の生を神の賜物として受け取る)を述べている 「ロマ書7章とパウロの人間学」1929)。ブルトマンの解釈は、罪とそれからの解放という対立、24節のあの叫びの内容からかなりずれている、と感じられる。またブルトマンは「新約聖書神学」(1961)におけるパウロの神学の項で、ロマ7章における「私」についてこう解釈している、「(ロマ7章では)主体である《私》人間の本来的な《私》はそれ自身の中で分裂してことが示されている。この《私》は『私のうちに宿っている罪』(17、20節)と区別されているが『肉的なるもの、罪のもとに売られている者』(14節)と呼ばれている。…14~24節において《私》(意欲の主体)と《私》(行為の主体)とが戦っている、すなわち分裂していること、自分自身と一つになっていないこと、これが《罪のもとにある人間存在の本質》なのである」。この見解は、2~3世紀におけるオリゲネスなどの解釈と同類のものである。
 ルタ一派の神学者アウトハウスの見解。アルトハウスは、ロマ7章の眼目はあくまでも善への認識、意欲と対立する誤った行動との矛盾だとみる。現代人の自意識においては罪はもっぱら良心をその場所としているので、その結果多くの人間にとって《罪は咎の意識と同一視され》また罪の赦しは宗教的な内面性の領域における一つの感情に過ぎないものとなる。また罪の赦しの機能は咎の意識の克服という救いの過程をとおして強固な自己を得ることとはっきりとは区別できなくなる。神学的な解釈において罪が告白すべきものとして、また目にみえないものとして主張される場合、それにふさわしい《罪の赦しは完全に抽象的な性格をおび、その結果罪の赦しの機能はどうでもよいものに思われてくる》。ここで聖書におけるきわめて具体的な罪理解に対して重要な修正が起きてくる。ロマ7章において実存的に省察しぬかれた罪人の危急は、ある人間が咎の感情の危機的な叫び(24節 に規定されているということにではなく、むしろその人間の善への意欲がその行為を引き起こさせたものの現実に及ばないという点にある。罪のもたらす悪は、決してこの叫びにあるのではなく、むしろ私を規定している事実的な現実(欲している善を行なわない)にある。その結果私は最善の意志をもってそれをなすことができない。したがってロマ7章の私は、自分の事実上の状況を知らなければならない。すなち私が自分で実現しようと欲しているまさしくその事柄において私は救いようもなく破滅するということを。さらにまた私はこの危急から《解放されている》、《キリスト》が私をそこから《すでに 解放してくださったからだ、との信仰者の認識もそれにふさわしく具体的である」(「人間についてパウロとルタ一」1951、ヴィルケンス)。
 アルトハウスは、明らかにルタ一とパウロの相違をふまえ(ルタ一にはパウロにおける罪のもとから恵みのものとへの転換が欠落している)他方先の敬虔主義者らの見解をふまえたものである。
 バルトの「ロマ書講解」(1921)。特に7:24~25前半を彼は「宗教的な人間の悲惨さ、みじめさ、不幸」と解釈しつつこう展開している。
 「宗教的な人間は『生きている間の人間』(1節)である、すなわちこの世の、この人間であり、人間に可能な人間である。そしてそれがわれわれの知つている唯一の人間である。《このような》人間においては、その現実の姿はあるべき姿と一致せず、そのあるべき姿は現実の姿と一致しない。《このような》人間は、その死ぬべき体と無差別、不可分離的に一体をなしているという意味で、自分は死の虜であるという記憶を持ちまわっている。宗教の現実に関するどの確認事項によっても《この》人間が何をなしうるかについて最も根本的な疑惑を抱かざるをえない。まったくのところ、彼はその具有する敬虔のために、かえって天地の間を彷徨する。しなしながら私は現にこの人間であり、いかに心理を