建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

キリスト者の死1  ロマ6:20~23

2000-25(2000/7/16)

キリスト者の死1  ロマ6:20~23

旧約聖書のイザヤ38:18以下のヒゼキヤの祈りでは 死者が神との絆が断ち切られているとみている
 「陰府はあなたを讚美せず、 死はあなたをほめたたえない。墓にくだる者はあなたの真実を待ち望まない。生ける者、生ける者のみ、今の私のようにあなたをたたえる」(関根正雄訳)。
 ここでは死者は神との関係を喪失した存在と述べられている。つまり死は神との、他の人間との、あらゆるものとの関係の喪失を意味する。詩6:5、115:7「死においてあなたを覚えることはなく、誰が陰府であなたを讚美しうるであろうか」、詩88:12「あなたの義は忘れの国(陰府)で知られるであろうか」。
 このテーマについて「創世記(ヤハウィスト)は人類の原初史(1~11章)を理想的な神関係が劇的な状況において破壊されていくという視点で描いた」(フォン・ラート「旧約聖書神学」一巻)。
 アダムをとおして罪が人類に侵入してきた。「一人の人(アダム)をとおして罪がこの世に入った」(ロマ5:12)。この罪の侵入は「善悪を知る木からは[その実を]食べてはならない」(創世2:17)との神の戒めを破って、アダムがその実を取ったことから始まった(3:6)という。
 「神は知識の領域においては、神と入間との間に限界をもうけておく必要があると考えられた。『善悪を知る木』の、『善と悪』は、ここでは一方的に道徳的意味ではなく、『あらゆること』の意味で理解すべきだらだ。したがって人間は、自分の被造物としての限界を超えて神のような生命を得よう、神のようになろうと試みることによって、神に対する服従という素朴さから抜け出してしまったのだ。そうすることによって、人間は神に近い楽園での生活を棒にふってしまった。彼に残されたのは、労苦の中の生活、疲労困億させる謎に満ちた生活、悪の力との希望なき戦いに巻きこまれ、最後には無条件に死に陥るのだ」(フォン・ラート前掲書)。
 旧約聖書では民数記27:3のみがこう述べている「コラは自分の罪のゆえに死んだ」と(コラは荒野の放浪の時モーセに背いた人物)。
 パウロは繰り返し「罪と死との関連」について述べている。「またその罪をとおして死がこの世に入り込んできたように、死がすべての人間に広がった。すべての人が罪を犯したからだ」(ロマ5:12~14)。後期ユダヤ教のアダム論をふまえて、パウロは人間はアダムの堕落のゆえに死ぬのではなく、個々人が犯した自分の罪のゆえに死ぬのだ、とみた。「一人の人間をとおして死がきたのだから。…アダムにあってすべての人が死んだように。…」(第一コリ15:2~22)。パウロの結論はこうである「罪の報いは死である」(ロマ6:23)。
 人に関係喪失を引き起こすものこそ人間のもつ罪である。これが死である「死とは人をこのような関係喪失へと追いやることの総計である」(ユンゲル「死」、蓮見和男訳)。
 これと異なってパウロの生死観では「生と死の相対化」が際出っている(ユンゲル)。「私が渇望し、 期待しているのは…キリストが生によってであれ、死によってであれ、私の体において公然と栄光をうけることである。というのは、私にとって生きることはキリストであり、したがって死ぬことは益である。ところで肉において生きること、それは私にとって働きという賜物である。私が[生と死と]どちらを選ぶべきか私にはわからない。私はこの二つのものの板ばさみになっている。私が切望するのは、[生に]別れを告げてキリストといることである。そのほうがはるかによいからである。しかし肉にとどまることは、あなたがたのゆえにまさに必要である」(ピリピ1:20~23、佐竹明訳)
 パウロにおいては「死」は人間を死の力、黄泉に引き渡すことを意味してはいない。キリストが生きている彼を支配している、そればかりではない。死後も彼はキリストの支配のもとにある。「キリストは死者と生者との主となるために、死んで生き返られた」(ロマ14:9)。旧約聖書において決定的に示された、人間の「あらゆるもの、神との関係を喪失させるものとしての死」という見解がパウロにおいては打破、突破されている。
 「というのは私はこう確信しているからだ、すなわち、死も生も、天使も軍勢も、現在のものも将来のものも、いかなる権力も、高きものも深きものも、そのほかいかなる被造物も、私たちの主イエス・キリストにおける(キリストにおいて私たちに対して働いておられる)神の愛から私たちを引き離すことはできない、と」(ヴィルケンス訳、カッコはヴィルケンス自身のもの)。ここでは死も神の愛から私たちを引き離せない、死人はキリストを主として仰ぐ(14:9)、とある。

キリスト者の過去における死
 パウロは、キリスト者が生前すでに自分の死「礼典的な死」を体験しているという。「キリスト・イエスへと洗礼された私たちは、みなキリストの死へと洗礼されたのだ。実に死への洗礼によって私たちは彼と共に葬られたのだ。それは、父の栄光によってキリストが死人から復活させられたように、私たちも新しい生命の現実に歩むためである。もし私たちがキリストの死と同じ形に彼と結びっけられるならば、キリストの復活とも同じ形にそうされるであろう。(私たちが知つていることだが)私たちの古き人間は(キリストと共に)十字架につけられ、それによって罪の体(に属す)の彼が滅ぼされた。私たちがもはや罪に仕えることがないためである」(ロマ6:3~6、ヴィルケンス訳、「同じ形・ホモイオーマ」は二つのもの同質性ではなく、異質のものの類似性を意味する)。すでに過去において「自分の礼典的な死」を経験したキリスト者は、では自分たちの生死観が変わるのであろうか。先のピリピ1章のパウロの言葉においては、イザヤ38章の死観、死を神との関わりを断ち切られたものとみなす見解とまったく異質な立場「死は益である」が表明されている。眼目となるのは、パウロはどのようにしてこの旧約聖書とは異質の、新しい死観をもちえたのか、である。

「呪われた死」からの解放
 パウロは人間の死を、老衰や病気、不慮の事故によるものとはみていない。もっと大きな定めとしてみている。「罪の報酬は死である」(ロマ6:23、民数27:3)。人間はさまざまな罪を犯し続けて、その報いと死に至る、「私たちが(かって)肉にあった時には、律法によって呼びさまされた罪の激情が私たちの肢体に働いて、私たちは死という結実を実らせたのだ」(同7:5)。この関連でユンゲルが「死」を神喪失を含めて「関係の喪失」と把握したのは卓見である。「死は罪の総計であり、神との関係の破壊に対応した関係喪失へと人を追いやる」(「死」)。
 パウロはこの関係喪失からの解放、呪われた死からの解放を述べている。
 「私は内なる人間に関しては、喜んで神の律法に同意している。しかし私の肢体には別の律法が見える、この律法は私の理性の律法と闘っていて、私の肢体にある罪の律法に私をとりこにしている。私は何とみじめな人間なのだろうか。誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか。私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」(ロマ7:22~25)。
 パウロのよく知られた嘆き「誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか」に対して、パウロ自身が回答を出している。それが次の25節「主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」である。律法の下で救いようもなく失われた者の「死の体から救う」ことができるのはまさしく、神ご自身である。神こそがキリストの贖いの死と復活によってこのことなしてくださった(ヴィルケンス、注解)。そのことが真に認識されるところでは神への感謝、神讚美が起こらざるをえない。これが起きるのは、パウロもそして私たちも神の恵みの行為を体験する、すなわち「神の麗しきを見る」(詩27:4)時である。これがパウロの回答である。