建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

「呪われた死」からの解放  第一コリント15:57

2001-29(2001/7/8)

「呪われた死」からの解放  第一コリント15:57

 パウロは人間の死を、老衰や病気、不慮の事故によるものとはみていない。もっと大きな定めとしてみている。「罪の報いは死である」 (ロマ6:23、民数27:3)。人間はさまざまな罪を犯し続けて、その報いとして死に至る、「私たちが (かつて) 肉にあった時には、律法によって呼びさまされた罪の激情が私たちの肢体に働いて、私たちは死という結実を実らせたのだ」 (同7:5)。この関連でユンゲルが「死」を神喪失を含めて「関係の喪失」と把握したのは卓見である。「死は罪の総計であり、神との関係の破壊に対応した関係喪失へと人を追いやる」(「死」)。
 パウロはこの関係喪失からの解放、呪われた死からの解放を述べている。
 「私は内なる人間に関しては、喜んで神の律法に同意している。しかし私の肢体には別の律法が見える、この律法は私の理性の律法と闘っていて、私の肢体にある罪の律法の中に私をとりこにしている。私は何とみじめな人間なのだろうか。誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか。私たちの主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」(ロマ7:22~25)。
 パウロのよく知られた嘆き「誰がこの死の体から私を救ってくれるのであろうか」に対して、パウロ自身が回答を出している。それが次の25節「主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」である。
 ここを、よく知られた内村鑑三の「ロマ書の研究」は「死の体から救ってくれる」存在として「それはほかでもない主イエス・キリストによってである。神は感謝すべきかな」と25節を読み変える。 この読み変えは《無理である》。しかし意味内容的には内村の解釈は的中しているといえる。7章における「二律背反」のパウロの姿を内村はキリスト者の「現在の姿を表現したもの」とみなし、このパウロの姿を「嘆きつつ凱歌をあげて走る人」と把握している。
 律法の下で救いようもなく失われた者の「死の体から救う」ことができるのはまさしく神ご自身である。神こそがキリストの贖いの死と復活によって、このことなしてくださった(ヴィルケンス、注解)。そのことが真に認識されるところでは神への感謝、神讚美が起こらざるをえない。これが起きるのは、パウロもそして私たちも神の恵みの行為を体験する、すなわち「神の麗しきを見る」(詩27:4)時である。これがパウロの回答である。