建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、律法の義の実現  ロマ8:3後半~4

1997-27(1997/7/26)

律法の義の実現  ロマ8:3後半~4

 「神はご自身の御子を罪の肉と同じ姿で、罪の贖いとして派遣され、肉において罪に死の判決を宣告された。それによって律法の義の要求が、肉に従ってではなく、み霊に従って歩む私たちそのものにおいて、実現されるためである」 ヴィルケンス訳。
 内村鑑三はこの3~4節がロマ書の中で最も難しい箇所だと言っているが、そのとおりだと感じる。3節後半は前回やったが、少しだけふれたい。
 特に「肉において罪に罪あるものと宣告された」の部分。前回は「肉における罪を・・」と訳した。しかしここは「肉」を「死の判決を宣告する」につなげるほうがよい。バルトはここを「神はご自身の御子を《罪に支配された肉という比喩の姿で》、罪の絶滅のために派遣し《肉の真中で罪に死の判決を宣告したもうた》」 と訳す。
 「肉において罪に死の判決を宣告した」において「肉において」は「キリストの肉において」であって、神はこのキリストの肉において、あらゆる罪に対して死刑判決を下された、これが「罪の贖いとしての」(3節)キリストの死である。
 カール・バルトの解釈「《肉はキリストにおいて止揚された。すなわち肉はその他者性を剥脱され、そしてまさにそのこによってその創造者なる神に復帰せしめられた》。肉はその嘆きである深刻な混乱と可滅性とを暴露せしめられ、そしてまさにそのことによってその待望する希望と救済とを開示せしめられた。肉はその偉大さとその重要さと光輝とを審判せられ、そしてまさにそのことによって神の被造物というその意味を救助せられた。そのために神はその御子を罪に支配された肉の真中に遣わしたもう。すなわち肉の真中で罪すなわち神への人間の反逆が審判のうえ撃滅せられ、そして比喩以上のものたらんとする肉の意欲、その偽りの絶対性、その実際の壊敗、その死の呪いなどという罪の諸結果が除去せられるようにというわけである」。
 ここのキリストにおける肉の止揚、「肉の救済」すなわち肉の創造者への復帰というバルトの解釈は、みごとである。
 4節の「律法の義の要求」は、(1)神への真実な関わり(2)それを実現化したものとしての「行為」を意味している。そしてこの「行為」は、むろんトーラーの祭儀的な戒め(割礼、動物犠牲の儀式)を排除するものであって、キリスト者の人生における「愛の戒め」に集約される、ロマ13:8~10、第一コリ13章など。しかしながらこの「律法の義の要求の内容」が、旧約聖書ユダヤ教をふまえた、「どの部分」がキリスト者にも要求されたものとして採用され、どの部分が切り捨てられているかを確定することは、なかなかやっかいなテーマである。
 例えば、マタイ22:34以下にある「もっとも大切な戒め」として「神への愛」と「隣人愛」とが示されているが、前者は申命6:5、後者はレビ19:18の引用、すなわち旧約聖書の戒めが即、キリスト者の戒めとして採用されている。ではパウロにおいてはどうなのだろうか。パウロの信仰義認の立場が、キリスト者を「あらゆる律法から解放したのだ」と解するならば、それは決定的にパウロを誤解することとなろう。というのはロマ3:31においても、「私たちは信仰によって律法を廃止するのだろうか。とんでもない。むしろ律法・神の御心を立てるのである」とあり、13:8にも「他者を愛する者は律法を成就するのだ」とあるから。
 《キリスト者のもとで、律法の義の要求が実現される》とはきわめて重要な内容であるが(ディベリウスはこれをパウロの述べたもので最も重要なものの一つという)、これはどのように解釈すべきなのか。「8:4においては『律法なしに、義とされる』(「人間は律法の業なしに、信仰をとおして(のみ)義とされる」3:28)が《決して律法の全廃を意味しないこと》」は確かである(ヴィルケンス)。「キリスト者のもとで律法の義の要求が実現される」とは、(1)キリスト者の《実践》が律法の義の要求を実現する・成就するという意味ではあるまい。「まずもって眼目となるのは、私たちがなすことではなく、むしろ神がキリストを死に至らしたもった時に、神がなさったことである」(ケーゼマン)、(2)4節の「それによって」は明らかに3節の「罪の肉と同じ姿での御子の派遣」 と「罪の贖いのための御子の死」(「肉における罪に罪の宣告をなさった」)を指している。したがってどう読んでも、ここの「義の要求の実現」は直接「キリストの贖いの死によって」実現した、という意味であろう。
 (3)「キリストの贖いの死によって」実現したとは、キリスト者に「肉に従って歩むのではなく、み霊に従って歩む」ことを実現したということ。すなわちキリストの死(と復活)によって「み霊の現臨」すなわち「キリスト者がみ霊に従って歩むこと」が実現した。キリストの死とみ霊の現臨は密接不可分である。「キリストはその死をとおしてみ霊の力を獲得されたのだ」(アルトハウス)。この3~4節においても、キリストの肉において罪に死の判決を宣告し、十字架で贖いの死をとげられたキリストの死(3節)とキリスト者における「み霊に従って歩むこと」み霊の現臨(4節)とは堅く結合している。この「み霊」は死人をよみがえらせた神のみ霊・力であり(8:11)、「キリスト・イエスにある生命のみ霊」である(2節)。このみ霊が「キリストの贖いの死の《働き》、私たちに対する罪の力の無力化を、キリスト者の具体的な生の現実においてリアルなものとする」(ヴィルケンス)。これが「律法の義の要求が私たち(キリスト者)のもとで成就する」の意味である。言い換えると、キリスト者が「肉に従ってではなく、み霊に従って歩む」、これが「律法の義の実現」である。
 み霊に従って歩む。「肉にしたがって一み霊に従って」における「従って、よって・ガタ」は、パウロにおいては「行動の根本的な方向を示している」。すなわちその人間の行為が肉に規定されているのか、それともみ霊に規定されているか、という鋭い二者択一をパウロは言っている。ポイントは明らかに「み霊に従って歩む」にある。同じ内容がガラテヤ5:25で述べられている、「私たちがみ霊において(あって、よって)生きているならば、み霊に従おうではないか」。
 バルトの解釈「われわれは神の御子の中に自分自身を再認識し、したがって御子の中にわれわれの肉が破却され、われわれの罪が審判され、われわれの罪が審判されるのを見る限り、また神の中に生きる新しい人間の実存が永遠に決定されて永遠に存在するするのを見る。その時われわれは、われわれ自身を問題化し、しかもこの設問によって(この設問は誰かほかの者がわれわれに向けて発した設問である)永遠の根底に突き当たるという未聞の境涯にあるのである。その時われわれはキリストと関係づけられ、神に把捉せられ認識せられるのである。その時われわれは『み霊に従って歩む』というすべての可能性を超えた可能性、すなわち不可能な可能性を所有するのである。…われわれの『歩み』、われわれの究極の中心的な規定、われわれの存在と属性の限定は神の御子を認識することによって『み霊に従って』なされる。神の御子、すなわちわれわれがその死に象ることによって(すなわちわれわれが死ぬことによって、6:5)その同類者(同じ姿)となるあの主一彼は反転であり、逆転であり、裁決であり、神の勝利である。彼は霊である(第二コリ3:17)。どうしてわれわれが霊を持つてはならないのであろうか。…しかり、もしわれわれが御子の派遣によって発っせられた究極の問いの中に巻き込まれ、またそれによってその答えの中に巻き込まれたとすれば、またそのような止めることも取り消すこともできない不可解な反転の中で行なわれる、われわれの『み霊による歩み』が、どうして反転以前にいとなまれるわれわれの肉の生を絶対的に制圧してはならないのであろうか。どうして肉がキリストにおいてその比喩的性格を、すなわちその滅ぶべき所与性とその滅びぬ希望とを闡明されながら、いまなお自主的にその道を進まなければならないのであろうか。そしてむしろみ霊にあって自由にされた人間の道に(希望によって)参加してはならないのであろうか」。
 4節のポイント「み霊に従う歩み」が5節以下で展開されていく。