建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、信仰と希望 アブラハム3  ロマ4:17~18

1997-11(19973/16)

アブラハム3  ロマ4:17~18
 ユダヤ教に対してパウロはまったく対立的な立場を主張する。それによれば、アブラハムは「アブラハムの信仰の足跡をたどる人びと」「アブラハムの信仰に基づく人びと」すなわち異邦人キリスト者の父である。重要なのは、アブラハムへの「約束」はアブラハムのすべての子孫、ユダヤキリスト者と異邦人キリスト者に「妥当する」という点である。信仰の人アブラハムのテーマとして重要なのは、17節後半以下の「無からの創造」である。
パウロにとって「救い」は過去の複数の咎の清算ではなく、 現実に力をふるっている罪の力(単数)からの解放である。
 ロマ4:17~18 
 「アブラハムは、死人を生かし、存在しないものを存在することへと呼び出す神のみ前で信じた。彼は、(地上的な希望に逆らって、しかも希望によって)信じた。そして彼は『あなたの子孫はあのように大いなるものとなる』との御言葉にしたがって、『多くの異邦人の父になった』」ケーゼマン訳
 17節後半では4:3における創世記15:6の引用アブラハムの信仰義認の実態がより詳細に展開されている。アブラハムが「何を」信じたかが具体的に述べられる。その内容とは
(1)「死人を生かし、存在しないものを存在へと呼び出す神のみ前で信じた」17節後半。
 「死人を生かす神」は表現上はユダヤ教の「18の祈り」の二番目「ヤハウエ、死人を生かしたもうお方」にすでにある。しかしパウロはここでそれを引用したのではなく、19節における「枯死したような自分の体」と「サラの枯死したような胎」を精確にふまえて、すでに子供をもうける出産能力を失った老いた夫婦から、神は約束を果たされるために、約束の子供・子孫を誕生させることがおできになる、それが「死人を生かす神」と解釈できる。さらに「死人を生かす神」はキリスト者共通の信仰告白「主イエスを死人からよみがえらせたお方を信じる」(24節)の意味で、アブラハムの信仰が《復活信仰の先駆的なもの》であったといっている。
 「存在しないものを存在へと呼び出す神」は「無からの創造」の箇所として知られている。ここの「呼び出す」は、神の圧倒的な創造の業を意味する(イザヤ48:13)。ユダヤ教のバルク黙示録48:8にはこうある、「あなたは言葉をとおして、存在しないものを生命へと呼び出す」。ユダヤ教の学者フィロンも「まことに彼・神は、存在しないものを存在へと呼び出す」(特殊法)という。キリスト教の文献第二クレメンス書1:8にも「彼は存在しないものである私たちを呼び出し、私たちが無から生成されることを決意された」とある。アブラハムにとってこの「無からの創造」とは直接的には、実子のいない彼が「多くの子孫の父」になること、それが神による「無からの創造」であった。
 パウロがこの「無からの創造」をどのような意味で語っているかは明らかである。一つには彼にとっての眼目は、神なき者の義認、自らは決して義をもっていな者《義という点では無である者に義を創造すること》であった。無からの創造は義のない者に義を創造するという意味である。もう一つは、無からの創造は「死人を生かす」という意味で、死人のよみがえりの先取り、第一の創造の反復という意味もある。18節は翻訳が難しい。第一に「地上的な希望にさからって、しかも希望によって」のポイント。ここは翻訳では「人間的な期待に逆らう希望をいだいて」(ミヘル)、ケーゼマンも同じである。                        
 ここは「希望」とは何かを述べている。すなわち希望とは人間的には絶望である、いかなる望みもつきた状況で希望をいだくことである。「目に見える希望は希望ではない」(8:24)。「人間的期待」とは「目に見える希望」である。あるいは「人間の側の努力」が希望の実現に何らかの意味で「役立つ」ような希望の形である。しかしながら「希望にさからう」とは人間の努力や知恵、可能性(「一縷の希望」とはかすかな希望の可能性のことだ)が全く絶えた状況で生まれる希望の形である。パウロのいう「目に見えないものに希望を抱く」(8:25)である。「希望の根拠なしに、アブラハムは神の約束の言葉に希望を見出した」(ヴォシュッツ)。キリスト教の本来的な希望の形についてキルケゴールは語った。
 「その時精神は希望を、もっとも厳密なキリスト教的意味での希望、希望にさからう希望をもたらす。直接的な希望はどのような人間のうちにもあるからだ。しかし、死という希望のない状態の中では、そのような希望は死に絶え、絶望に変わる。この絶望の夜の中でやがて人を生きいきさせる精神があらわれ、希望を、永遠という希望をもたらす。これは希望にさからう希望である。なぜならあの単なる自然のままに希望することにとって、もはや希望はなかったからである。したがってこの希望は希望にさからう希望である」(キルケゴール「現在の自己吟味のために」)。
 同様に「死に至る病」においても「人間的にいえば、死は一切のもの最後であり、人間的にいえば、生命がある間だけ希望があるにすぎない。しかしキリスト教的な意味では、死は決して一切のものの終りではなく、死もまた、一切のものをつつむ永遠の生命の内部における一つの小さな出来事にすぎない。単に人間的にいって、生命があるというばかりでなく、この生命が健康と力とに満ち満ちている場合に見出されるよりも、無限に多くの希望が、死にうちにあるのだ」とキルケゴールは述べた。
 第二に、アブラハムにおける信仰と希望との関連である。アブラハムは一切の人間的な希望にさからって、 信仰的な希望によって信じたととれる(ヴォシュッツ)。翻訳上難しいのは、一つは「自分が多くの異邦人の父となる」という不定詞の句を、「信じた」の目的語ととって「自分が多くの異邦人の父となる、と(信じた)」と訳す(松木、ミヘル、アルトハウス)。もう一つは、その不定詞句を結果と訳す(ブルトマン、前田、ヴォシュツツ、ケーゼマン)。この場合「信じた」の目的語はなく、ただ「信じた。そして彼は多くの異邦人の父となった」と解釈する。この点でユリヘルの翻訳は味がある。「彼は何にも希望をいだくことができないところで、希望に満ちて、あえて信じた」。
 いずれにしても、パウロの解釈によればアブラハムの信仰においては、希望が大きな役割を果たしている。創世記におけるアブラハムの信仰が未来的であった点はすでにラートが指摘した。ここでは「人間的な期待が絶えた状況で」言い換えると、未だに自分には実子がいないのだが、しかも老齢に達しているのだが、にもかかわらず、彼は神の約束に着目し、神が約束したのだからたとえ人間的には実現不可能に見えても、神は必ず、この約束を実現なされるのであろう、これが「人間的な期待にさかって希望をいだいて」である。この不可能を可能にされ、無から存在を創造される《神への希望が先に立っていって》、この希望が「人間的な期待」の瓦解した「人間的な算定可能な次元(目に見える希望の次元)から脱出して神の約束、御言葉によって打ち開かれる、神の救いの御心のもとにある未来の地平」を真実なものとした。