建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

ロマ書、み霊の働き  ロマ8:9~11

1997-28(1997/7/13)

み霊の働き  ロマ8:9~11

 「実際神のみ霊があなたがたの内に住んでいるなら、あなたがたは肉にあるのではなくみ霊にあるのだ。しかしキリストのみ霊を持つていない者はキリストに属していない。しかしキリストがあなたがたの内におられるならば、なるほど体は罪のゆえに死んでいるが。み霊は義のゆえに生命である。イエスを死人の中からよみがえらせたお方のみ霊があなたがたの中に住んでいるならば、キリストを死人の中からよみがえらせたお方は、あなたがたの内に住んでいるご自身のみ霊をとおして、あなたがたの死ぬべき体を生かせてくださるであろう」。
 (1)み霊の働きについて。み霊がどのようにして与えられるかについては「あなたがたがみ霊を受けたのは、信仰の聴従によってか」(ガラ3:2)においては、み霊の授与は《使徒的宣教を受け入れること》と結合とされる。行伝10:44~45「ペテロがまだこのことを話している時に、聖霊が御言葉を聞いているすべての者にくだった」でも。第一コリ12:3では(朗読)主告自を可能にする力が聖霊である、とある。さらに「み霊によって」は「恵みによって」と同意語であリ、第二コリ1:12「肉の知恵によってではなく、神の恵みによって行動する」。ロマ8~4の「み霊に従って歩む」においても、またみ霊は神の愛を人間に注ぐ手立てでもある(ロマ5:5)。そしてキリスト者を「聖霊によって新たにする」(テトス3:5)との働きは重要である。
 み霊は、便徒的宣教やそれへの聴従をとおしてばかりでなく《洗礼によっても与えられる》。第一コリ6:11「主イエス:キリストのみ名と私たちの《神のみ霊によって洗われ》」では、み霊の授与は強く「洗礼」と結びつけられている。第一コリ12:13「一つみ霊において私たちすべてが一つ体へと洗礼された」は、み霊と洗礼と教会共同体との強い結びつきを述べていて注目すべきである。先のテトス3:5も洗礼と聖霊と結合している「再生の洗いを受け、聖霊によって新たにされる」。またみ霊は神の子らとなる身分を授ける霊である(ロマ8:15)。「主の霊のあるところには自由がある」(第二コリ3:17)において自由は、死と罪からの解放を実現するみ霊の働きを述べている。8:2「キリスト・イエスにある生命のみ霊の法は罪と死の法からあなたを解放した」。
 パウロがここで「あなた方の内でのみ霊の内住」という場合、「あなたがたの内に」とのみ霊の内住は個々のキリスト者(ガラ2:20「あなたがたの心に注がれている」ロマ5:5は神の愛と聖霊の両方を受けている)ばかりでなく、キリスト者共同体に内住すること、集合人格的にという意味と、キリスト者同士の「間に」という意味。第一コリ12:13、「あなたがたの体はあなたがたの中にある聖霊の宮である」(同6:19)と解することができる。マタイ18:20も参照。
 (2)8:9以下の「み霊の働き」。「み霊」(9節)は、「キリストのみ霊」(10節前半)、「キリスト」(同後半)と言い換えられる。「キリストのみ霊」では、3節の「贖いの死をとげられたキリスト」をとおしてキリスト者が「み霊に従って歩む」ことが実現した点についてはすでにふれた。すなわち「キリストのみ霊」の働きは、罪の贖いとみ霊に従う歩みを実現したことである。
 10節「しかしキリストがあなたがたの内におられるなら、なるほど体は罪のゆえに死ぬが、《霊》は義のゆえに生命である」について。「体は罪のゆえに死ぬ」は死が罪の帰結であることを言っている、6:21~23。他方「キリストが私たちの内におられる」(前半)洗礼を受けた者がキリストの贖いと復活に与かることで、「私たちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた」「この罪の体が滅ぼされた」(6:6)。10節における「体」は「罪の体」(6:6)「死の体」(7:24)「罪の肉」(8:3)「死ぬべき体」(11節)の意味である。次に「体は死んでも」は、霊と肉の「二元論」つまリプラトンの死についての見解「死は体の拘束からの霊魂の解放である」との見方(「パイトン」)から解釈すること「体は死んでも、霊・魂は生きる…」というようになるが、このような理解は許されない。「体が死んでも」は「体の死」ではなく「罪の体の死」すなわち私たちが罪の体に属していることが《克服・止揚されることを意味している》。また「罪のゆえに」は「神が罪を肉において死の判決を宣音された」(8:3)ことに基づいて、人間に死をもたらす力が、私たちにではなく(代わって)キリストの身に作用・移行した。その結果私たちは「罪と死の律法から解放され」(8:2、11)、私たち自身「罪に対して死んで、キリスト・イエスにあって神に対して生きている」(6:11)存在となった、ことを述べている。
 後半「霊は…」は難しい。この「霊」を「人間の霊」(第一コリ2:11「人間のことは人の中にある霊以外に誰が知つていようか」)を手がかりに「信仰者の主体」と解する人もいるからだ(松木)。そうすると、先のプラトン的な二元論、体は死んでも、死後において霊・魂は生きるといった霊魂不滅説的な奇怪な解釈が起きる。しかし、ここでの眼目はキリストの贖いと復活をとおして与えられた義であり、この義の帰結が生命である点である。ここでの《霊》はキリスト者の自己ではなく「イエス・キリストの生命のみ霊」(8:2)が考えられていて、このみ霊は罪に属す、罪の肉、罪の体を贖い、罪の支配から解放する。たとえ罪の体が死んでも「罪に属さない魂は生きる」というのでは断じてなく、その死ぬべき体にみ霊は作用して、死ぬべき「この死の体」(7:24)からの救いすなわちその体から「罪への所属性」「死への足どリ」、体の「死の刺」(第一コリ15章)を除去する、「み霊をとおして体のもくろみを殺す」(13節)こと、を言っている。パウロはここで明らかに「魂の救済論」は展開していないのだ。むしろ彼の眼目はあくまで「体の救い」(7:24、8:11、23節)である。
 翻訳上「み霊は義のゆえに《生きる》」というのが多いが(松木訳、協会訳)、この翻訳は先の二元論的解釈に道を開いてしまう。ミヘル、ケーゼマン、ヴィルケンス訳は「み霊は義のゆえに生命である」、洗礼をとおしてキリスト者はみ霊の賜物を与えられていて、そのみ霊は生命をもたらす作用をもつこと、6:23「神の恵みの賜物は、キリスト・イエスにある永遠の生命である」ことを言っている。このみ霊が作用するのは、決定的に人間の罪、すなわち《体》に対してである。これを11節が述べている。
 11節「しかしもしイエスを死人の中からよみがえらせたお方のみ霊が、あなたがたの内に住んでいるなら、キリストを死人の中からよみがえらせたお方は、あなたがたの内に住んでいるそのみ霊をとおして、あなたがたの死ぬべき体を生かしてくださるであろう」
 「み霊は生命である」(10節後半)の意味が、ここで明らかにされている。この「み霊」は救済の出来事、キリストの復活を決定的にふまえて「キリストを死人の中からよみがえらせたお方、そのお方のみ霊」と二回繰り返され、死人のよみがえりを実現したお方に由来する。その点でこの「み霊」は死人をよみがえらせる霊、霊の力である。そしてその作用もまた「死人をよみがえらせ、死人に新しい復活の生命を与えるもの」これが「あなたがたの死ぬべき体を《生かしてくださるであろう》」の意味である。未来形「生かすであろう・ゾエーポイエオー」はそういう意味である。この動詞の主語は神とキリストのみである。「最後のアダムは生命を与える霊となった」(第一コリ15:45)。
 キリストの復活との相違点は、体に生命を与えるこのみ霊がキリスト者の《間に》すで現臨するようになっている、キリストの内に住む、点であり、またキリストの復活は完了形であるが、ここの動詞の未来形はキリスト者の体の贖いが将来の約束に属す点である。キリストの復活との共通点、関連は、洗礼において私たちの身体的な存在「体」がキリストと結合されたが(「復活と同じ姿になる」)、今や「生命を与えるみ霊」としてのこの「み霊」は、現在の地上的な存在である私たちを復活したお方と結合する点である。