建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死後キリストと共に4  ピリピ1:23

2001-51(2001/12/16)

死後キリストと共に4  ピリピ1:23

 第三に、クルマンは、第二コリ5:1以下に言及している、「私たちが(地上的な)衣服[体]を脱いでも《裸でいる》ことにはならないであろう。なぜなら私たちは[グノーシス主義者のように地上的な体を]脱がされることを欲しているからではなく、むしろ[霊的な体を]上から着せられたいと欲して、現在の幕屋の中でに激しくうめいているからだ」(3~4節、ブルトマン訳)。そしてこの箇所にある《裸でいる存在》をクルマンは死後の中間状態「体をもっていない《内なる人間・innere Menschen》の状態」とみなしつつ、この裸の存在がすでに《キリストのもとにある》との大いなる確信をパウロはいだいていた、とみる。「私たちは体を脱いで、主のもとに住むほうを選ぶ」(7節)。死後キリストのもとにあるとの確信は《裸の存在、内なる人間、死者たちがすでに聖霊によってとらえられている》との根拠に基づいている。このポイントを明確にしたのはクルマンの功績である。
 聖霊は生命の力、神の創造者的な力であり、私たちのうちにあって、内なる人間をすでに変容させ、彼の内にとどまっている。死はこの聖霊には何の手出しできない。それゆえキリストにある、つまり聖霊を所有している死者たちには、ある種の変化が起きているのだ。それで死において神から見捨てられることも、切り離されることももはや存在しない。この聖霊が存在するからだ。それゆえ新約聖書は、キリストにあって死んだ者たちは、見捨てられたのではなく、《キリストのもとにあること》を強調しているのだ。パウロは第ニコリ五・五で、中間状態における体をもっていない死者たちが「不死の、霊の体を上から着せられる」出来事の確実さの「保証・手付け金・アラボーン」として聖霊を与えられている。「神はみ霊という手付け金を私たちに与えてくださった」と述べた。
 第四に、クルマンは、第二コリ5:8「私たちはむしろ体を捨てて、主のもとにおることを欲している」、ピリピ1:23「私は死んで、キリストのもとにあることを願っている」を取り上げて、こう述べている、
 「死者たちが、聖霊を所有しているならば、《肉体的な体・Fleischleib》がなくても生前の時期以上にキリストとの親密な交わりをもっている。…死者たちは《肉体の体》はすでに脱いだが、いまだ《霊の体・Geistleib》を着せられてはいない。中間状態における死者たちは、聖霊を受けて以後、終未の先取りに与っているので、終末時の復活の特に近いところにおるのだ」。「体を脱がされた内なる人間たちは、生きている時期からすでに聖霊によって変容されている。またすでに復活によってとらえられている(ロマ6:3以下「もし私たちが、キリストの死と同じ姿と結びつけられるならば、彼の復活と同じ姿とも結びっけられるであろう」。ヨハネ3:5~7「人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。…霊によって生まれた者だけが霊である。あなたがたは新しく生まれなおさなければならない」)。ただし内なる人間が『霊をとおして新しく再生させられる』ならばである。《聖霊は死によっても失うことのない》神の賜物である。死によってもその者を捨て去ることのない、神の創造者的な力、復活の構成要素である。《キリストにあって死んだ者は、彼がいまなお『眠っていて』も、いまなお体の復活を待ち望んでいたとしても、聖霊をもっている。かくてこの中間状態においては、死がなお実在していても、死の恐怖はなくなる。かくて『幸いなるかな、今よりのち主にあって死ぬ死者たち』(黙示録14:13)と讚えられるであろう。死者たちは、肉体を欠いているが聖霊をとおしてキリストの特に近いところにおるのだ。死に対するパウロの勝利の叫びは、今や死者たちにも妥当する。『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか』(第一コリント15:55以下)。『生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものである。キリストは生ける者と死者たちの主である』(ロマ14:8~9)」。

 モルトマンも《この立場》である。
 「キリストとの交わりの中にある死者の実存は、まだ『死人の中からの復活』では《ない》。ただ『キリストと共にある存在』である。パウロは言っている『世をたち去ってキリストと共にあることを私は願っている』(ピリピ1:23)と。死者は神から切り離なされたのではない。眠っているでもない。彼らはまだ復活させられてはいない、むしろ彼らは《キリストのもとに・bei Christus》ある」(「神の到来」)。