建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-3 キリスト者の復活③ピリピ1章(2)

O・クルマンの解釈
 クルマン(フランスの新約学者、著書「キリストと時」「ペテロ」など)はけして《死者たちは死後ただちに復活するのではない》と述べている、
 「ピリピ一・二三におけるパウロの言葉を考えよう。『世を去って、キリストと共にあることを私は願っている』(クルマン訳)。ここでパウロは、まさにキリストの再臨以前に死ぬ人の《中間的状態》に関して、確信にみちている。『キリストと共にあること』がすでに霊の体を獲得することとして解されたことによって、この箇所の理解に至る道は閉ざされてきた。しかし、キリストにあって死せる者が『キリストと共にあること』を、そのように解釈すべきことは、これらの箇所のどこにも《暗示されていない》。…使徒パウロはすでにキリストの再臨の以前に、『世を去りてキリストと共にあることを願っている』(ピリピ一・二三、第二コリント五・八)。『キリストと共にあること』は《いまだ体の復活を意味しない》。しかしそれは聖霊の復活の力によって実現された、キリストとの一層深い結合をすでに示している」(「キリストと時」一九四八、前田護郎訳)。クルマンはさらに「霊魂の不滅か死人の復活か」(英語版一九五七、ドイツ語版一九八六、邦訳は入手できなかった)においては、改めて「死者らの中間状態」について論述している。
 第一に、クルマンは「死者たちの状態」について、死者たちの《体の変容》は個々人の死の後、ただちに生じるのでは《ない》という。この見解はバルトの立場、肉体的体の変容が個々人の死の瞬間に生じるとの立場に対するクルマンの批判でもある。この論拠としてクルマンは次の箇所をあげている。第二テモテ一・一〇「キリストは死を《征服し》、生命と不死性とを明らかになさった」。ところでここの「征服する・カタルゲオー」の意味は少し厄介である。というのはこの「死の征服」は決定的な死への勝利ではあっても、いまだ最終的な勝利は到来していない。「死は《征服されてはいる》が、しかし終末の時はじめて《死は滅亡させられる》」からだ(クルマン)。終末において最後の敵として死は滅亡(廃棄)させられる」(第一コリ一五・二六)。死の滅亡について黙示録も語る「死は火の池に投げ込まれた」(二〇・一四)「もはや死は存在しない」(二一・四)。
 第二に、クルマンは、ピリピ一・二三「私が願っているのは、死んでキリストのもとにいることだ」を取り上げて、この箇所は《体の復活は個々人の死後ただちに生じるとは言つていない》と解釈している。黙示録六・九以下では「(天上の)祭壇のもとにいる」殉教者たちの霊魂が「主よ、いつまで血の復讐を地の人々に対してなさらないのですか」と叫ぶと、「殉教者の数が満たされるまで、しばし休んでいるように」すなわち《待っているように》と彼らは告げられたとある。ピリピの箇所もこの黙示録の箇所も、さらに乞食ラザロが死後移された「アブラハムのふところ」(ルカ一六・二三)も、キリストにあって終末以前に死んだ死者たちの状態、死とキリスト来臨の間の時期、いわゆる《中間状態》について言及して「アブラハムのふところ」「祭壇のもとに」「キリストと共に」と、《その死者たちが特に神の近くにおる》と表現されている。彼らは《すでにといまだ》との間の緊張関係にあるという。
 第三に、クルマンは、第二コリ五・三~四で言及している、「私たちが(地上的な)衣服[体]を脱いでも《裸でいる》ことにはならないであろう。なぜなら私たちは[グノーシス主義者のように地上的な体を]脱がされることを欲しているからではなく、むしろ[霊的な体を]上から着せられたいと欲して、現在の幕屋の中で激しくうめいているからだ」。そしてこの箇所にある《裸でいる存在》をクルマンは死後の中間状態「体をもっていない《内なる人間・die innere Menschen》の状態」とみなしつつ、この裸の存在がすでに《キリストのもとにある》との大いなる確信をパウロはいだいていた、とみる。「私たちは体を脱いで、主のもとに住むほうを選ぶ」(七節)。死後キリストのもとにあるとの確信は《裸の存在、内なる人間、死者たちがすでに聖霊によってとらえられている》との根拠に基づいている。このポイントを明確にしたのはクルマンの功績である。
 聖霊は生命の力、神の創造者的な力であり、私たちのうちにあって、内なる人間をすでに変容させ、彼の内にとどまっている。死はこの聖霊には何の手出しもできない。それゆえキリストにある、つまり聖霊を所有している死者たちには、ある種の変化が起きているのだ。それで死において神から見捨てられることも、切り離されることももはやない。この聖霊が存在するからだ。それゆえ新約聖書は、キリストにあって死んだ者たちが、見捨てられたのではなく《キリストのもとにあること》を強調しているのだ。パウロは第二コリ五・五で、中間状態における《体をもっていない死者たち》が「不死の、霊の体を上から着せられる」出来事の確実さの「保証・手付け金・アラボーン」として聖霊を与えられている、「神はみ霊という手付け金を私たちに与えてくださった」 と述べた。
 第四に、クルマンは、第二コリ五・八「私たちはむしろ体を脱いで、主のもとにおることを欲している」、ピリピ一・二三「私は死んで、キリストのもとにあることを切望している」を取り上げて、こう述べている、
 「死者たちが、聖霊を所有しているならば、《肉体的な体・Fleischleib》がなくても、生前の時期以上にキリストとの親密な交わりをもっている。…死者たちは《肉体の体》はすでに脱いだが、いまだ《霊の体・Geistleib》を着せられてはいない。中間状態における死者たちは、聖霊を受けて以後、終末の先取りに与っているので、終末時の復活の特に近いところにおるのだ」。「体を脱がされた内なる人間たちは、生きている時期からすでに聖霊によって変容させられている。またすでに復活によってとらえられている(ロマ六・三以下「もし私たちが、キリストの死と同じ姿と結びつけられるならば、彼の復活と同じ姿とも結びつけられるであろう」。ヨハネ三・五~七「人は霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできない。…霊によって生まれた者だけが霊である。あなたがたは新しく生まれなおさなければならない」)。《聖霊は死によっても失うことのない》神の賜物である。死によってもその者を捨て去ることのない、神の創造者的な力、復活の構成要素である。《キリストにあって死んだ者は、彼がいまなお『眠っていて』も、いまなお体の復活を待ち望んでいたとしても、聖霊をもっている。それでこの中間状態においては、死がなお実在していても、死の恐怖はなくなる。かくて『幸いなるかな、今よりのち主にあって死ぬ死者たち』(黙示録一四・一三)と讃えられる。《死者たちは、肉体を欠いているが聖霊をとおしてキリストの特に近いところにおるのだ》。死に対するパウロの勝利の叫びは、今や死者たちにも妥当する。『死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか』(第一コリント一五・五五以下)。『生きるにしても、死ぬにしても私たちは主のものである。キリストは生ける者と死者たちの主である』(ロマ一四・八~九)」。
 モルトマンも《この立場》である。
 「キリストとの交わりの中にある死者の実存は、まだ『死人の中からの復活』では《ない》。ただ『キリストと共にある存在』である。パウロは言っている『世をたち去ってキリストと共にあることを私は願っている』(ピリピ一・二三)と。死者は神から切り離なされたのではない。眠っているでもなぃ。彼らはまだ復活させられてはいない、むしろ彼らは《キリストのもとに・bei Christus》ある」(「神の到来」一九九五)。
 シュヴァイツアーの解釈によれば、パウロがピリピ一・二〇以下で述べている事柄は、使徒パウロ、地上にあってパラダイスに移された特別の体験をもつ人にのみ、また殉教者にのみ妥当する《特殊な復活への希望》であって、キリスト者一般には適応しない希望となる。しかし、パウロが自分の復活を、主の来臨の時点ではなく、むしろ《自分の死後ただちに起こる出来事と想定した》との指摘は卓見であるが、根拠がない。眼目となるのは、キリスト者がやがて迎える死がパウロがこの箇所で想定している「殉教」ではなくて、通常の死の場合にも《自分の死後ただちによみがえらされて、キリストのもとに移される》との解釈ができるかどうかである。殉教ではなくて、通常の死の場合には、むろんシュヴァイツアーの立場は成立しなくなる。
 初代の《異邦人キリスト者》は、ユダヤキリスト者から、なじみのない最後の審判、人の子の来臨、死人の復活などの後期ユダヤ教の黙示文学的思想を引き継いで、受け入れた。私たち現代の日本のキリスト者もそうすべきである。特に日本のキリスト者は、原始教会が採用した黙示思想になじみがうすいためか、あるいはまた、コリント教会の異端的な少数派が考えていたように、キリストの復活は認めるが、自分たちキリスト者の復活はどうでもよいと考える二律背反に陥っているためか、将来的なキリスト者の復活への希望のポイントが希薄であるようだ。
 原始教会の伝統を引き継いだパウロは、キリスト者の将来的な復活を「キリスト来臨の時」とみなした(第一テサロニケ四・一三以下、第一コリント一五・五〇以下)。しかしキリスト者の復活がキリスト来臨の時点であるとすれば、私たち自身の死のほうが先にやってくると、人々は想定するかもしれない。だとすれば、自分たちの復活への希望の実現は「はるか彼方のものとしてぼやけてしまう」事態が起こるであろうし、私たちが「キリストの来臨を忘れる」事態が当然のこととして起こってきはしないか(後述)。