建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-3 キリスト者の復活①Ⅰテサロニケ4章 

キリスト者の復活
 現代のキリスト者の問題の一つには「死後のテーマ」がキリスト者の意識から脱落している点があるようだ。しかもこの脱落は自覚されることも少ない。自分たちの人生の終局、死によって私たちが「圧倒されている」からなのか。
 従来キリスト教信仰の中心テーマである「キリストの復活」については、真剣に精力的に研究されてきたが、「キリスト者の復活」については、付録的、第二義的にしか取り上げられない傾向が強いと感じられる。この傾向が是正されてきたのは、やっと五、六年前の、一九九五年ころからだ。
 さてキリスト者の復活についてしるした聖書の箇所をみたい。
 第一にふまえなければならないのは、新約聖書においてキリスト者の復活についてしるした箇所は、すべて《一つの基盤》に基づいている。それは若干の表現上の変化があるにしても、「神はイエスを死人の中からよみがえらせたもうた」という基盤である。この基盤をぬきにしては、キリスト者の復活もありえないのだ(ヴィルケンス「死に逆らう希望」)。「主イエスをよみがえらせた方が私たちをもイエスと共によみがらせて、あなたがたと共にみ前に立たせてくださるでろう」(第二コリント四・一四)、「神は主をよみがえらせたもうた。そのみ力をとおして私たちをもよみがえらせてくださるであろう」(第一コリント六・一四)とあるとおりである。
 イエスの復活への信仰があいまいになったり、それへの疑念が多くなればなるほど、キリスト者の復活への希望もぼやけたもの、あいまいなものとなる。現代のキリスト者にとってキリスト者の復活への希望が、もしリアルなものでないとすれば、その一因はその人々の復活信仰のあいまいさに起因していると考えられる。コリントの教会員の一部の人々のように(第一コリント一五・一二以下)、キリストの復活は信じているが、キリスト者の復活については拒否の態度をとるという行動は、現代のキリスト者にはけして無縁ではない。
 特に「死人の復活」に関してなじみのない初代の「異邦人キリスト者ら」が、死人の復活、世の終わり、人の子の来臨といった《後期ユダヤ教の黙示思想》を「ユダヤキリスト者ら」から引き継いだ事実(ケーゼマン、パネンベルク)を想起すると、コリント教会におけるパウロの論敵らのような逸脱から、現代の私たち日本のキリスト者はどのようにして護られるかが重大なテーマとなる。キリスト者の信仰、希望はけして自分が生きている間だけの事柄に限定されることはない、自分たちの死後における出来事、自分たちの来世における「キリストと共にある生」(ピリピ一章)、不死の体を着せられること(第一コリント一五・五〇以下、第二コリント五章)、自分たちの復活への希望を含むものである。キリストの復活は信じているが、自分たちの復活は信じない、どうでもよい、という事態に陥ることだけは避けなければならない。

キリスト者の復活についての新約聖書の箇所
 キリスト者の復活についてしるした箇所を取り上げたい。(一)第一テサロニケ四・一三以下。(二)第一コリント一五・五〇以下。(三)第二コリント五・一以下(幾度も引用したので省略)。(四)ピリピ一・二〇以下。

第一テサロニケ四・一三~一七
 「しかし兄弟たちよ、あなたがたが《眠りについた人々》について無知のままでいないように私たちは欲している。まったく希望をもっていない他の人々のように、あなたがたが悲しむことがないためである。イエスが死んで復活したと、私たちが信じるならば、神は眠っている人々をもイエスをとおしてイエスと共に上へと導いてくださるであろう。私たちは主の言葉によってこう確信している、
 すなわち主の来臨の時点に生き残っている私たち《生きている者》たちは、眠っている人々に先んじることはけしてないであろう。なぜなら合図のもとに、すなわち天使の頭の声と神のラッパのもとに、主ご自身が天からおりて来られるからだ。そして《まず》キリストにあって眠っている人々が復活するであろう。《それに続いて》私たち、生き残っている生きている者たちが、同時に、彼らと共に、空中で主を出迎えるために雲に引き上げられるであろう。かくて私たちはいつも主との交わりの中にあるであろう」(ホルツ訳)。
 ここでパウロはテサロニケ教会員らに慰めの言葉を述べて、こう言っている、キリストの(死への)勝利は、キリストにあって眠りについた者たちを栄光へと導いていく、と。
 ここでは「眠っている人々」(一三、一四、一五節)は死者一般ではなく、教会員の中ですでに亡くなった人々を意味している。一六節の「キリストにある死者たち」と同じ意味である。一三節の「まったく希望をもっていない他の人々」は少し厄介である。「まったく希望をもっていない」の意味内容がポイントである。キリスト者以外の者らはそもそも希望をもっていない、という意味には解釈できない。ここでの「いかなる希望ももっていない他の人々」とは「キリストに根拠づけられた希望をもっていない」人々、すなわち教会に属していない人々のこと(ホルツの注解)、言い換えると「もしキリストがよみがえらされなかったとしたら、キリストにあって眠った人々は滅んでしまったことになる」(第一コリント一五・一八)とのパウロの見解を受け入れない「異邦人」のみならず「ユダヤ人」が含まれる。「彼ら」は「死によってすべての希望がついえ去る」「死人にはいかなる希望もない、将来もない、まして彼らの復活もない、死者には希望がない」と考えている。さらにコリントの教会と同様に、テサロニケ教会の人々は、キリストの来臨の時の救いの出来事は、その時点で生きている人々だけが与れるもので、すでに死んだ教会員らはその救いから除外されてしまう、救いについては生けるキリスト者のほうがすでに亡きキリスト者らよりも圧倒的に有利である、だとすればすでに亡きキリスト者は「滅びてしまった」と誤解していたのかもしれない。
 このような誤解に対してパウロは立ち向かっている。パウロが明らかにしようとしたのは、死人には希望がない、という立場はキリスト者のとるべき態度ではない、死人たちの将来に対する待望はいったいどのようなものか、についてである。
 そしてパウロが根拠としたのは「信仰告白伝承」である「主の言葉によってこう確信している」 (一五節)。一四節の「イエスが死んで復活した」は、彼がすであった伝承から直接引用したらしい。「イエスが死んで復活した」という箇所は、非パウロ的であるからだ。パウロ的な表現によれば「キリストは死んだ方、むしろそれ以上によみがえらされた方」(ロマ八・三四)などのように、キリストの死と復活の表現方法は「受身形の動詞・分詞」がほとんどであり、この箇所のように「能動形で復活した」という表現(他にマルコ一六章の付加部分)はないからだ。むろんパウロは一四節前半におけるイエスの死と復活の「主語がイエスとなっていること」をふまえて、後半においてはわざわざ主語を神として、イエスの死と復活の出来事の主体はイエスと神と双方でありうることを示している。「イエスがなしたことは、まさしく神の業の遂行である」(ホルツ)。
 しかも一四節後半は、すでに亡き教会員「眠りについた人々」に対する神の行為について述べている。「イエスをとおしてイエスと共に彼らを導いてくださるであろう」と。その場合、眠っている人々の「復活」についてははっきりとは言及されずに、むしろイエスと共に彼らを「導く」神の行動について述べられている。パウロはまず神が働きかけられる「死んだ人々とイエスとの交わり」について語っている。眠っている人々は「イエスをとおしてイエスと共に」神によって上へと導かれるのだ。
 パウロはここでテサロニケの教会員が、すでに眠りについた教会員に対していだいている考え、キリストの来臨以前に亡くなった人々は救いに与れないとの「希望なき悲しみに陥っている」事態をふまえている(ホルツの注解)。
 パウロは「主の言葉による確信を表明している」一五節。すなわち「主の来臨のおりに生き続ける、私たち生ける者たちが、眠っている人々に先んじることはけしてないであろう」。一五節の「主の言葉」は、生前のイエスの「人の子の来臨についての言葉」などをふまえたものではなく、むしろ「挙げられた主の言葉」としてすでにパウロ以前に定形化されていたもの、具体的な内容は一五~一六節「天使の頭の声と神のラッパのもとに、主ご自身が天から降りてこられるであろう。そしてまずキリストにある死人たちがよみがえらされるでろう」などである。
 生きていて「主の来臨」を経験する者たちは、「私たち、生きている者たち、生き残った者たち」と三重に表現されている。このうち「生き残った者たち」は旧約聖書や後期ユダヤ教の黙示文学における、患難や戦乱などの破局をくぐりぬけてその終局に至り、救いに与る人々「残りの者」という考えに由来する。原始教会もパウロも後期ユダヤ教の黙示文学を受容しているのであるが、両者は「それ」を鵜のみにしてはいない。偽典・第四エズラ一三章に「生き残る者たち」との用語が出てきている
 「その日まで生き残った者は不幸です。しかし生き残らなかった者はもっと不幸です。彼らは悲しむでしょう。終りの日に備えられていることを知りながら、それに出会えなかったからです」。「主は私に答えて言われた、…かの時に危険をもたらす方は、危険のただ中でも力ある方に対して善き業と信仰とを持ち続ける者を守るであろう。(それゆえ死んだ者より生き残った者のほうがはるかに幸いである)ということを心得なさい」(第四エズラ一三・一六~二四)。
 だとすれば、この「生き残った者たちは死んだ者たちよりも幸いだ」との見解(おそらくこれはテサロニケ教会の人々の見解でもあったであろう)に対して、パウロは決定的な《反対命題》を提起したことになる。一五節後半で「生き残る者たちは、眠っている人々に先んじることは《けしてない》であろう」と彼は述べたからだ。パウロは「生き残っている者たち」は明確に「主の来臨以前に眠りについた人々に対して救いにおいていかなる優位性もない」と述べて、教会員らを慰めている。彼は来臨に生き残るか、それともすでにその時点で眠りについているかどうかをまったく重要視しないのだ。同時に《すでに眠りについた教会員のための救いへの希望》を力強く語ったのだ。
 一六節「合図の言葉で、すなわち天使の頭の声と神のラッパのもとで、主ご自身が天から降りてこられるであろうからだ、そして《まず》キリストにある死人たちがよみがえるであろう」。この箇所も後期ユダヤ教の黙示文学的な伝承に由来するが、パウロがどこから受け継いだのか、どの部分がパウロが手を加えたものか、彼以前に原始キリスト教が採用したものか、はっきりしない。また後期ユダヤ教のものとの相違点もそれほど大きくはないであろう。結論的にはパウロは一六節以下で伝承を受け継いでいて、その伝承ではすでに死人たちのみならず、生ける者たちについても取り上げられていた。
 主の来臨における「出来事」については、「二つ」語られている。一つは「死人たちの復活」の出来事であり(一六節後半)、もう一つは「生ける者たちが、《復活させられた死人たちと共に》主と出会うために《移される》出来事である(一七節前半)。その時には死人も生ける者も救いを得るであろう。すなわち生き残る者たちが死人たちの優位にたつものではけしてなく、また教会全体はすでに救いを実現したのではなく、なおも将来的な救いを自己の前にもっているにすぎない。救いが将来的である点においては、死者にとっての救いへの希望と同様である。さらに死人はかの時の救いからもれることも除外されることもないのであるから、生ける者らは亡き教会員、死人らに対する希望をけしておろそかにしないように、パウロは述べている。
 一六節の「神のラッパのもとに」は、終末時における神の行動にともなうもので、この出来事の突如的な開始とその普遍性の意味も示している。メシアや神ご自身が、時の終りに天からおりてくるとの黙示文学的表象は、「その時、人の子が雲にのって来るのを、人々はみるであろう」(マルコ一三・二六、一四・六二)にも出てくる。この出来事の意味は主が地上において何か行動なさるために到来されるのではなく、むしろ一七節、空中で主と出会うために信仰者らが《移される》点にある。つまり主が近づきがたい天のみ座から登場されてご白身との直接の交わりを可能とされる、これが主の来臨の出来事である。
 むろんこの来臨によって「キリストにある死者たち」が復活する、一六節。その場合、パウロは亡くなったキリスト者と生きているキリスト者との運命を区別している。そして亡くなったキリスト者たちもキリストに属している。しかしこの「キリストにある」で、パウロはキリストに属していない「死者一般の復活」という考えを締め出している。
 来臨における第一の出来事は、死人の復活である、「まず」一六節後半。さて《それに続いて》生き残った者たちの運命については「移される」一七節。死者たちは復活させられるが、彼らについては「移される」とはいわれていない、「移される」のは「私たち、生きている者、生き残った者たち」のみである。
 「雲で」。雲は神顕現についての付属物で、ダニエル七・一三では人の子の到来も雲と結合されている。マルコ一三・二六。ユダヤ教の信仰では救われる人々は「雲で栄光のみ座へとあげられる」という。終末時の、信仰者の「移行」は、神の行動領域に属す出来事であって、救いに与る人々は雲で導かれて、天的な世界に受け入れられる(ホルツ)。
 この「移行」の目的は「主との出会い」である。ここの「出会い・アパンテーシス」という用語は、政治的な意味合いが強く、住人が国家の高位の人々におごそかに「会見・調見する」というニュアンス(マタイ八・三四)。主が天からおりてきて、移された人々が主に会う。むろん彼らは主と会う地点や彼のまわりに留まるのではなく、天からおりてくる途上で、彼を出迎えるのである。
 「空中で」はけして重要な意味合いをもっていない。空中は主と主に属す者たちが出会った後の、継続的な滞在の場所とは考えられていないからだ。むしろこの空中は、天と地との間の領域である。
 一七節後半。 パウロは移された者たちと主との結びつきについて述べている 「私たちはいつも主に結びつけられているであろう」。ここでは一六節後半の主語「眠っている者たち」と一七節の主語「生き残っている者たち、私たち」とは、共に主との交わりに究極的な救いを体験する者として《一つに結合されている》。つまり眠っている者たちは渾然として、信仰者らの交わりへと舞もどされる。
 ただし第一コリント一五・五三以下においては、ここでの「移される」に変わって「変えられる」、さらにこの変容は死人の場合には「復活」、生き残る者たちの場合には「変えられる」、すなわちこの箇所では生き残る者たちと復活させられる死人との区別がいまだ明白ではないようだ。
 「いつまでもキリストと共にある」(一七節後半)、これをパウロは後期ユダヤ教のメシア的救済待望から受け継いだにちがいない。エチオピア・エノク六四・一四にはこうある「義人たちと選ばれた民とはこの人の子(メシア)と共に住み、食事や寝起きを永違に共にするであろう」。パウロはむろんこのメシアの救済への待望をイエス・キリストとの交わりを究極の救済目標とする見解へと組み直している。
 「キリストと共にある」は、ピリピ一・二三「私が切望しているのは、世を立ち去って、キリストと共にあることだ」にも出てきている。ここでは「キリストと共に生きる」は、主の来臨の後の事柄、ピリピ一・二三では、死後の事柄としてパウロは語っているが、他方では「もし私たちがキリストと共に死ぬならば、キリストと共に生きるであろうと、信じる」(ロマ六・八)「私たちは、あなたがたに対しては神の力によって、キリストと共に生きるであろう」(第二コリント一三・四)では、確かに未来形の動詞を用いてはいるが、地上におけるキリスト者の生きざまとして述べている。パウロは「キリストと共にある」との終末論的待望をみ子における神の行動に関する包括的な問いによって現実化している。キリスト者の救いへの希望は、私たちが信仰において現実に体験する、キリストの生命に根拠づけられる。
 テサロニケ教会の人々は《死をくぐりぬけた限りない生命への希望》が実現しうることを理解していなかった。パウロは彼らに主の来臨をきわめて近いものとして提示した。主の来臨についてのパウロの見解は、事実超越的な希望に対する強固な土台である。死は生命を絶やすものであり、同時にあらゆる将来をも絶やすものである。死は、私たちのおよそあらゆる救いの体験をものともせず、最高度に強力に私たちの生に定められた滅びを思い起こさせる。これに対してパウロは、原始教会の黙示文学的な伝統に依拠して、主の来臨における死人のよみがえりの出来事について語り、今は亡き教会員らの将来的な復活と生ける教会員らがもろともになっておくるキリストと共なる生活を説いた。
 さてこの箇所のテーマは《死をかいくぐった限りなき生命への希望》をいだくことにあるが、この箇所でその基礎となっているのは、歴史の限界、すなわち主の来臨についての正しい認識である。この限りない生命への希望をテサロニケ教会のキリスト者はもちえなかったらしい。それは彼らが歴史への展望、主の来臨についての見解が念頭になかったからだ。しかしこの希望は主の来臨への正しい認識によらないでは成立しえないものだ。言い換えると、原始キリスト教パウロとが、後期ユダヤ教の黙示思想から受け継いだ主の(人の子の)来臨と死人の復活の思想、主の来臨のおりに死人が復活させられるという思想(第一テサ四・一六)においては、いまなお生ける者にとっての死をくぐり抜けた限りなき永遠の生命への希望は、主の来臨の出来事と緊密に結びついていて、その出来事に基礎づけられている。それゆえ主の来臨をカッコにいれて、どうでもよいものとして捨て去って、他方で死の彼方の限りなき永遠の生命のみをつまんできて重視するという立場は成立しない。テサロニケ教会も、他の異邦人教会も、日本のキリスト者も、主の来臨とそのもとでの死人の復活との双方を受け入れるのでなければ、パウロが説いている「死をくぐりぬけた限りなき生命、いつもキリストと共にある」との(自分たちにピンとくるような)見解だけを恣意的にすくい上げる、ということはできないのだ。「死人の復活がなければ、彼らは滅び去つてしまったことになる」(第一コリ一五・一八)。このテーマがこの第一テサ四・一三の背景を形成しているが、これはパウロが現代のキリスト者につきつけた問いかけであり、かつ主の来臨において、亡きキリスト者らが優先的に復活させられて、いつまでもキリストと共にある、これがその問いかけへのパウロ自身による回答である。