建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-3 キリスト者の復活②Ⅰコリント15章(1)

第一コリント一五・五〇~五七
 「兄弟たちよ、このことを私は言いたい、肉と血は神の国を受け継ぐことはできない、滅びゆくものは不滅のものを受け継ぐことはできないと。見よ、私はあなたがたに奧義を告げる。すなわち私たちすべてが眠りにつくのではなく、私たちすべてが変容されるであろう。最後のラッパの折りに、たちまち、瞬時に。実際ラッパは鳴るであろう。すると死者たちは不滅のものとしてよみがえらされるであろう、また私たちは変容させられるであろう。というのはこの滅びゆくものは《必ずや》不滅のものを、この死ぬべきものは不死なるものを着せられるであろうからだ。しかしこの滅びゆくものが《必ずや》不滅のものを、この死ぬべきものが不死なるものを着せられ《ねばならない》時、その時(聖書に)書かれた言葉が成就される《であろう》、『死は勝利に飲みつくされた。死よ、おまえの勝利はどこにあるのか、死よ、おまえのとげ(刺)はどこにあるのか』 [イザヤ二五・八、ホセア一三・一四]。しかし死のとげは罪である。しかし罪の力は律法である。しかし神に感謝せよ、私たちの主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を与えてくださっているお方に」 (シュラーゲ訳)。
 ここではパウロは一五章全体のテーマ「現実としての復活をあるがままのものとして証している」(バルト「講解」)。
 五〇節。「血と肉」とは被造物としての生れながらの、死ぬべき人間の本性を形成しているが、そのような存在は、生者にしても、死者にしても、み国に入ることはできない(シュラーゲ)。五一節の「奧義・秘密・ミュステリオン」は、「終末時の秘密」のことで、人間の理性では把握しきれない預言的な啓示を意味する(シュラーゲ)。具体的にはこの奧義とは来臨における《すべての者の変容》を意味する。
 五二節、「私たちすべてが眠りにつくのではない」は、私たちすべてが来臨以前に死ぬのではなく、来臨の時点で生き残っている人々がいる、という意味。パウロは自分をその一人だとみている。
 「変容される」(受身形)は、「私たちすべての者」死者たちのみならず、生きている者たちすべてに関わる。パウロが言おうとしているのは、この変容が「キリストの来臨の時点で生きている者のみ」に関わる出来事だ、というのでは《なく》、むしろ死者にも関わるということである。パウロにとって死はあらゆる者にとって終末論的救いに与かる不可欠条件では《ない》のだ。エノクの例を引き合いに出して「移行」について述べた藤井武はこの点を正しく把握していた。死者が生者よりも《有利な存在として》それ自体では「神の国を受け継ぐことはないこと」(五〇節)、不死性を獲得することはないこと、を正確に把握したのは、バルトである。生者はむろん死者よりも有利な存在ではない点は(たとえそれがキリスト者であってもそれ自体では)パウロが五〇節(および第一テサ四・一五)で明らかにした。この「変容の出来事」は、通常の死者と生者との隔絶、障壁を引き裂いて、死者と生者の双方に《同時的に》一つの出来事を引き起こす。「生者と死者との二つの集団が基本的に同一の運命をたどるとパウロはみなしたのだ」(コンツェルマン、注解)。「パウロの場合、生き残った者たちの変容は、死人たちのよみがえりと共に《ただちに》起こる」(シュラーゲ、注解)。「復活は人間の生と死とを縦に貫いて起こる」(バルト)。これが「変容の出来事」である。
 五二節ではこれはいつ起きるのかを取り上げている。「突然介入してきて、すべての時代を《縦に引き裂くこの危機》」(バルト)。これについては、三つ語られている。すなわち「瞬時に、またたく間に、最後のラッパの折りに」と。このラッパは「神のラッパ」であって、黙示録八章のみ使いらのそれのように、世にカタストロフ・崩壊をもたらすものではなく、天からの主の来臨を告げるラッパである。「瞬時に」も「またたく間に」もこの出来事が「突発的な事件であること」を述べている(バルト)。新しい創造の奇跡的性格を表現している。つまり、これは通常の歴史の流れのカテゴリーでは把握できないものであって、ここでは「通常の時間表象・概念は拒絶される」(コンツェルマン)。「歴史の漸進的な、あるいは破局的な諸発展において来るような出来事ではなく」むしろ、この出来事・変容は他のもろもろの歴史を貫いて独自の道を進みゆく救済史である(バルト)。「最後のラッパの折りに」(第一テサ四・一四では「神のラッパ」)。これこそこの危機の決定的な標識である。五二節中段にはもう一度「ラッパは鳴るであろう」との「未来形」がでてくる。この未来形に着目してバルトはいう、ここでの眼目は「復活の未来」「永遠の未来」であるから、この聖句の引用は必ず未来形でせよと。
 さてその時、何が起きるのか。それが「変容の出来事」である。この「変容」をパウロは同じ用語で二つの意味で用いている。第一に、包括的な意味。それが五一節「すべての者が、死者も生者も変容されるであろう」。五二節では、この変容は、同時的な二つの出来事に「区別」される。死者たちの場合の変容は、復活「復活させられるであろう」と表現され、他方「私たちは変容されるであろう」すなわち生き残る者らの場合の変容は、変容と表現されている。
 死者の復活は「死人は不滅のものによみがえらされるであろう」とある(五二節)。これは後期ユダヤ教の復活理解とは決定的に異なっている。
 まずそこでは、死者たちは義人にしても罪人にしても、死んだ時と同じ姿でもどってくる(シリア語バルク黙示録五〇・二以下、旧約偽典に属すこの文書は新約聖書時代のもの)。第二に、定められた時間がたった後に初めて、復活させられた両者、義人と罪人の双方に(変化が起こる)。義人のみが「彼らの顔形が変化して輝き、死することなき世界を受け取るであろう」(前掲書五一・一以下)。
 次に五二節における「変容」は、これと異なって、死者のよみがえりをもって《ただちに》起こる。自分や他の人々が死んだ時のままの姿でまいもどってくる(シリア語バルク)のではなく、ここでのポイントは、神が創造者的にこの変容を実現なされ、死者たちをよみがえらされることにある。すなわち死者のよみがえりは《同時に彼らの変容である》。五二節後半における「《そして・カイ》死者たちはよみがえらされ《そして・カイ》私たち[生き残っている者たち]は変容させられるであろう」において「そして・カイ」が死者たちの変容に関与していることは明らかだ。死者たちはよみがえりに至るまではなおも「滅びゆくもの、死ぬべきもの」であるが(五三~五四節)、その時初めて「不死なるもの」としてよみがえらされる(五二節)。したがって彼らは以前の「魂的な体」と新たな「よみがえりの体・霊の体」(四四節)とを交換するのではない。死者のよみがえりはその変容と《同時的に起こるもの》であって、生き残った者たちもこの変容に組みこまれている(シュラーゲ)。
 五三節「というのはこの滅びゆくものは《必ずや》不滅のものを着せられ、またこの死ぬべきものが不死なるものを着せられ《なければならない》からである」。
 ここは復活の意味、変容の意味を説明している。その意味とは「不滅性、不死性を着せられる」と説明されている。ここの「滅びゆくもの・フタルトン」は、「滅びゆくもの、腐朽すべきもの、過ぎ行くもの、朽ちるもの」などの意味(ロマ一・二三「不滅の神と滅びゆく人間」、第一コリ九・二五、第一ペテロ一・二三参照)。翻訳ではルター訳「移ろいゆくもの」、「腐朽するもの」バウアー、バルト、コンツェルマンなど。協会訳、前田訳「朽ちるもの」。次の「不滅のもの・アフタルシア」は、後期ユダヤ教の偽典、第四マカベア九・二二では敬虔な若者の殉教との関連で「不滅の生命へと変えられる」、一七・一二「つきることのない不滅の生命」として出てくる。「不死なるもの・アタナシア」は旧約外典の知恵の書三・四「不死性への大いなる希望」、一五・三「あなた(神)の力をわきまえることこそ、不死のもと」に出てくる(このほか第一コリ一五・四二、五〇、また五二では「復活の体」の意味で)。
 ここで復活の出来事は「不滅のもの、不死なるものを着せられる」と表現されているが、この「新しい身体性を着せられる出来事」 がどのようにして起きるかについては次のように述べられている。
 四二~四四節「死人の復活もこれと同じである。《滅びゆくもの》で蒔かれて、不滅のものによみがらされる。恥ずかしいもので蒔かれて、栄光によってよみがえらされる。弱いもので蒔かれて、力によってよみがえらされる。一つの《魂の体》で蒔かれて、一つの霊の体によみがえらされる。一つの魂の体がある限り、一つの霊の体もある」。
 どのようにしてこの出来事が起こるのかについて、次の箇所ではこうしるされている、第二コリ五・四「私たちは現在の幕屋の中で苦悶しうめいている。この幕屋を《脱がされたい》からではなく、むしろ《天にある永遠の家を上から着せられたい》からである。それは死ぬべきものが生命に飲みつくされるためである」(ブルトマン訳)。ここでも地上的な身体性「死ぬべきもの」が復活の身体性「天にある永遠の家」を与えられる出来事を「上から着せられる」(神的受身形)として述べている。
 先の四四節では「魂の体と霊の体」の対比が述べられ、復活は「霊の体によみがえらされる」と表現されているが、この対比は「アダム-最後のアダム(キリスト)」「魂的なもの-霊的なもの」とさまざまに述べられている。特にプラトンの「霊魂不滅説」に対するパウロの反駁はここでは顕著である。人間の精神的な側面をつかさどる「霊魂・プシュケー」をプラトンらは不滅のものとみなしたが、その影響下にあった異邦人キリスト者の一部もあるいは (地上的な存在様式において魂が今すでに聖霊をうけたものとして)不滅であろうと想定したらしいが、パウロのこの対比論でそれを「魂的」と規定し、「恥、弱さ」と特徴づけ(四三節)、決定的に「滅びゆくもの」(四二節)「死ぬべきもの」(五三節)と規定しているからである。協会訳、前田訳の「肉の体」からは、パウロの言わんとした「魂と霊との鋭い対立」は読みとりにくい。
 「復活にはどういう意味があるのか。変容(「変えられる」五一、五二節)とは何を意味するかを五三節が説明している。すなわち死人にとっても、生ける者にとっても、アフタルシア(不滅性)とアタナシア(不死性)とを《着せられること》。…復活とは、アダムのキリストにおける救贖、ソーマ(身体生活)の述語化における激変である。つまり魂的生としては《いまここで》ということだが、霊的生においては《かの時》[復活の将来]ということである。…どうかあなたがたはもう一度あの『このこと』(「奥義」五〇節)を全緊追性において注目してください。これこそ<キリスト教的希望>をかくも緊迫したもの、かくも如実なものとなすものであるから、この<キリスト教的希望>は徹頭徹尾、人間のいわゆるより善き部分に、一つの精神的なものそれ自体だけに関わりがあるのではなく、彼が体をもちかつ生きているがままの人間に、《この》滅びゆくものに、《この》死すべきものに、関わりがあるのである」(バルト、講解)。
 復活の出来事は「不滅のもの、不死なるものを上から着せられる」出来事である。この出来事は《神的な定め・摂理のもとにある》とパウロは述べている。それを示している用語が《終末論的な必然・デイ・必ずや…なければならない》である。
 [この用語はイエスのいわゆる受難予告にも出てくる、マタイ一六・二一。これは神ご自身がイニシアティブをとるみ業であることを意味している。イエスの受難、復活において、さらにキリスト者が天的衣服・霊の体を着せられる出来事においても、ある意味で神の姿は隠されているように映るが、神の行為をはっきり示しているのが、この用語であり、かつ「着せられる」との神的受身形である]。
 「着る」のは「不滅の、不死の《天的な衣服》」であり、同時に「キリスト者の将来的なありよう・実存」をも示している(コンツェルマン注解)。バルトの解釈では、この天的な衣服を着せられる出来事は「生がもはや《肉と血》とではなく、死がもはや滅びゆくもの(五〇節)ではなく、むしろ両者が神の権能のみ手にあり、今は隠されている《霊の体》が顕わとなり、今現に見える《魂の体》が《霊の体》を上から着せられる」出来事である。そしてこの「死ぬべきものが不死なものを着せられる」出来事は、ここでは「死の滅亡」(二六、五四~五五節)と関連づけられている。後述。