建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-4 コリント教会の復活否定論者①

第一コリント一五・一二~一九
 「しかしキリストが死人たちの中からよみがえらされたと、宣教されているのに、あなたがたのうちの数人の者が、死人のよみがえりはけしてないと言っているのはどうしたわけか。しかし死人のよみがえりがないならば、 キリストもまたよみがえらされなかったのだ。キリストがよみがえらされなかったとしたら、私たちの宣教も根拠のないものであり、あなたがたの信仰も根拠のないものとなる。…キリストがよみがえらされなかったとしたら、あなたがたの信仰はむなしいものとなり、あなたがたはなおも罪の中にあることになる。そうだすれば、キリストにあって眠りについた者たちは滅びてしまったことになる。私たちがこの生涯においてのみキリストに希望をいだいているとすれば、私たちはすべての人間よりももっとみじめな者となってしまおう」(シュラーゲ訳)。
 一二節「キリストは死人の中からよみがえらされた」の「死人たち・ネクロイ」には冠詞がついていない。エレミアスによれば、パウロは一貫して、冠詞(ホイ)をつけない「死者たち」は死者一般を意味し、他方冠詞をつけた「死者たち」はすでに死んだキリスト者を意味するという(「アバ」、グラースから引用)。 「キリストに属す者たち《死人たち》」(二三節)「どういうふうに《死人たち》は復活するのか」(三五節)「《死人たち》の復活もこれと同じ」(四二節)「《死人たち》は朽ちないものによみがえり」(五二節)。
 「死人の復活を否認した」コリント教会の数人の者は、どのような立場に立つていたのか。彼らについてはさまざまに解釈されている(コンツェルマンの注解)。パウロが展開している主張からだけでは、彼の論敵の立っている宗教的な立脚点はかならずしも明らかではない。
 解釈の歴史をさかのぼって二つの解釈をみたい。
 第一に、ルターの解釈は、パウロの論敵は「死人の復活を否定したが、それだと、この否定によって神も聖書のみ言葉も、使徒の宣教も教会の存在もすべて否定する結果になるが、しかし神も教会も否定できない。それゆえ論敵の「否定は否定されなければならない」いわば「否定の否定による駁論」がパウロの批判だとみた。
 「《否定されていることが否定によって論証される》というのでは、異邦人の間では論拠として弱い。…『死人は復活しない。それだからキリストも復活しなかった』。《彼ら》[パウロの論敵ら]は否定していることをもって証明しようとしているわけだが、パウロは何をしようとしたのであろうか。…パウロが《弱い仕方で》[否定の否定の論理で]証明しようとしたことは明らかだ。…キリストが復活しなかったのならば、われわれも復活しない、と。キリストが復活したとしても、彼はひとりの人にすぎないのだから、すべての人が復活するということにはならない。それゆえパウロはこの論拠を確かにし、《部分と部分を互いにつなげて、不可能なことにここで正しく結論を引き出す。この条項を否定しようとする者は、それ以上のものを否定しなければならない》。すなわちあなたがたが信じていること、あなたがたが聞いたみ言葉が正しいこと、われわれが使徒であって真理を説教していることが本当であること、神が真実であり、神は神であられることなども否定しなければならない。《すべてはこのようにつながっている》。…パウロは、神、み言葉、使徒たち、信仰などを互いに結びつけてどの一つも偽りとすることができないようにする。こうしたものは偽りとすることができない。それだから死人が復活するということは真でなければならない。なぜならこれは使徒たちやイエス・キリストによって説教され、キリスト教会によって信じられ、受け入れられてきたからである。…使徒たちの説教や信仰が正しいということが確かであるのと同様に、死人の復活もまた確かである。…もし神が偽ることはないということが確かであれば、私が一〇〇年地下に横たわっていても、死人の中から復活するであろうことも確かである。復活は神の前では、たとえあなたがすでにここに横たわって、臭いはじめ、蛆に喰い始められていても、復活がすでに起きてしまったかのように確かなものである。…『死よ、私はあなたを食い尽くし、あなたの死となるであろう[ホセア一三・一四参照]。あなたが飲み込んだものを私は生かそう。そうでなければ、私は神でないことになろう』と言われる。…ここに横たわっている死人は復活するであろう、それは確かである。これを疑うならば、それは最大の罪である。なぜならこのような罪は、まさに神やキリストを否定し、福音や洗礼や礼典を撤回し、私は神やキリストを信じないというのと同じだからだ。…パウロに耳を傾けよう。自分の体が太陽のよりも美しく復活するであろうことを否定する人は、キリストの復活を否定し、さらに神が真実であられ神であられることを否定するものであると。《もし死人の復活がなければ、キリストも復活しなかったであろう。しかしこれは不可能であり、誤っている。それだから、死人の復活はないということも不可能であり、誤っている》。もしキリストが復活したのであれば、われわれは復活するであろう」(「第一コリント一五章講解」一五三三、徳善義和訳)。
 さすがにルターは「パウロの批判の論理」すなわち「否定の否定による論証」をよくとらえている。
 第二に、カール・バルトの「死人の復活」(一九二四)の解釈をとりあげたい。
 バルトはパウロの論敵の立場をこうみている「彼らは少なくとも表面ではキリストの復活を肯定している。彼らのもとではこの(復活)信仰にいかなる《原理的》意義も、生き死にを賭けるほどの意義も付されてはいない。復活信仰は、やむなくば無くて済ましうるものだったろう。それは《一部品》ではあろうが、けして《全体》ではない。彼らはすべてをそこから考えていない。われわれはいまだ成就の中にあるのではない。われわれは実際まだこの生を生きている。われわれはまだ時を知っているにすぎない。この時は、われわれを復活から分離する《いまだない》である。しかしわれわれはあの地平によって限界づけられた生を生きており、永違に達せんとして時の中に生きている。復活の希望に生きている。キリストの復活が、奇跡や神話やあるいは魂の体験としてではなく、むしろ神の啓示として理解されるならば、これ[いまだ実現していないが、復活の希望に生きること]は否定されえない事柄である」(強調、バルト、山本訳)。
 この部分はおそらくパウロの論敵に一番欠落していたポイントであったろう。
 とはいえ、ルターとバルトの解釈で共通しているのは、死人のよみがえりを否認するコリント教会のキリスト者の一部の人が、《どのような宗教的立場》に立っていたかについて取り上げていない点である。眼目となっているパウロの論敵「死人の復活を否認した人々」は《けして未熟な信仰者ではなく、かなり明確な宗教的背景をもち、その立場から死人の復活を否認した小グループらしい》。
 さて論敵らが「死人の復活を否認した」のはなぜであろうか。これについての従来の解釈は、大きく二つに分類できる。一、彼らが「終末論の点で熱狂主義者や異説をとなえた人々」とみる解釈。二、彼らは「プラトン的な霊魂不滅説の支持者、グノーシス主義者である」との解釈。

一、 彼らが終末論の点で熱狂主義や異説を、主張したとの解釈
 フォン・ゾーデンは、パウロの論敵らが終末論の点で《熱狂主義者》であったとみなした。「彼ら」はパウロの終末論「キリストの来臨への待望」(第一テサ四・一三以下)を第二テサロニケ二・二「主の日はすでに来た」へとねじ曲げた。この二・二の見解は、パウロが批判した一部の熱狂主義者の謬説である。パウロ自身は主の来臨は《まだ来ていないが》、他方では自分たちの生きている時期に主の来臨があると信じていた「主の来臨まで生き残る私たち」(第一テサ四・一五、第一コリ一五・五二)。またゾーデンは「彼ら・論敵らはみ霊によってキリスト者の復活を先取りして『《キリスト者の》復活がすでに起きた、と言った』(第二テモテ二・一八に出ている熱狂主義者の謬説)と説いた、と解釈した(一九三一の論文「パウロサクラメントと倫理」、コンツェルマン注解、一九八一)。
 アルバートシュヴァイツァーによれば、死人の復活の否認者らは「イエスの復活についてはまったく疑わず、むしろ《信仰者自身に起こると期待された復活》のみを疑った」とみなした(一九三〇「パウロ神秘主義」、武藤、岸田訳)。このポイントはリーツマン、コンツェルマンなどにも支持されている。「彼ら」は「[キリスト者の]復活というものは存在しないとの《超保守的な終末論》を主張した、と解釈する。彼らによれば、イエスの来臨に際して《生き残った者のみ》が、希望をいだいているもの[救い]を獲得する。それゆえ彼らは[死んだキリスト者らが]メシアの国[第一コリ一五・二三~二八]へとよみがえることも、永遠の至福へとよみがえることも否認する」[シュヴァイツアーは、この書でパウロが、来臨に生きているキリスト者らのメシアの国への復活と、死せるキリスト者らの(メシアの国の後にくる)永遠のみ国の至福への復活との《二種の復活》を想定している、と主張した]。シュヴァイツァーの解釈は、「代理洗礼」とは適合しない(代理洗礼は、信仰なくしてすでに死んだ人のために、その人になり代わって、キリスト者が受ける洗礼。第一コリ一五・二九「死人らに代わって洗礼を受ける人々は一体何をしているのか。もし死人らがまったく復活しないとしたら、彼らは死人らのためになぜ洗礼を受けるのか」。むろん代理的な受洗者は、死人の復活を願って洗礼を受ける)。リーツマンによれば、パウロの論敵ら、死人の復活を否認した者らは自分たちの永遠への希望を《生きていてキリストの来臨を迎えることだけに》結びつけていたようだ。このことは不可能ではなかった。「主の来臨まで生き残る私たち」(第一テサ四・一三以下)。この点で彼は、シュヴァイツアーの見解を引き継いでいる(一九四九、四版「注解」)。しかしパウロにおいて、眼目となっている「死人の復活」は、まさしく来臨における第一の出来事であり(第一コリ一五・五〇以下、生き残る者たちの変容はその次の、第二の出来事であるとされている)、「彼ら」は眼目である「第一の、死人の復活の出来事」を欠落させ、第二の生き残った生者の変容の出来事のみに望みをいだいたのだ。
 シュペールラインも述べている。「パウロの論敵らは熱狂主義者やグノーシス主義者ではなく、むしろ自分たちが世に生きている時に来臨を迎えるとの終末論的希望をいだいていた」(一九七一の論文「復活の否認」、コンツェルマン注解)。
 シュトルクは主張している、「コリント教会では熱狂主義が支配していたので、パウロは第一テサロニケ五章とは違って(五・二「主の日は夜の盗人のように来るであろう」、五・六「目を覚まして慎んでいよう」)、来臨との時間的隔たりを持ち込まざるをえなかったし、また死人らの復活が生ける者らの救いを包括することをも示さざるをえなかった。[生ける者らの移行論から変容論への]表象の新しい変化は、新しい状況と関連している[早期の移行論とは第一テサ四・一七「私たち生き残った者らは、復活した死人らと共に雲で移される」]。コリント教会における新しい状況にとって決定的な要素は、神のみ国の前に登場する《キリストのみ国》という考えである」(一九八〇の論文「パウロの終末論」)。
 マルクスセンの解釈。彼らは二元論的人間論に固執した《熱狂主義者たち》で、自分たちの魂がすでに救われていると思いこんでいた。「ところで復活は天国へと旅立とうとしている《魂を肉体という牢獄》(プラトンパイドン」)に再び引きもどしてしまうものとなる。したがって彼らにとって《復活を期待することがまさしく絶望の表現》となってしまう」。魂を再び肉体・牢獄へと閉じ込めることになるからだ。いわゆる「代理洗礼」の意味について(二九節)、パウロは「死人の復活がないならば無意味だ」とみなすが(二九節)、論敵らは「死んだ体のうちにある霊魂の救済のために」[ここではプラトンの「パイドン」とは異なり魂は死後もその亡骸にやどっていると想定されている]、死人のための代理洗礼は有効だと彼らは考えたようだ(「新約聖書緒論」渡辺康麿訳)。