建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死人の復活2 第一テサロニケ4:13~17

2001-32(2001/8/5)

キリスト者の復活3  第一テサロニケ4:13~17

 パウロは「主の言葉による確信を表明している」15節。すなわち「主の来臨のおりに生き続ける、私たち生ける者たちが、眠っている人々に先んじることはけしてないであろう」。
 15節の「主の言葉」は、生前のイエスの「人の子の来臨についての言葉」などをふまえたものではなく、むしろ「挙げられた主の言葉」としてすでにパウロ以前に定形化されていたもの、具体的な内容は15~16節「天使の頭の声と神のラッパのもとに、主ご自身が天から降りてこられるであろう。そしてまずキリストにある死人たちがよみがえらされるでろう」などである。
 生きていて「主の来臨」を経験する者たちは、「私たち、生きている者たち、生き残った者たち」と三重に表現されている。
 このうち「生き残った者たち」は旧約聖書や後期ユダヤ教の黙示文学における、患難や戦乱などの破局をくぐりぬけてその終局に至り、救いに与る人々「残りの者」という考えに由来する。原始教会もパウロも後期ユダヤ教の黙示文学を受容しているのであるが、両者は「それ」を鵜のみにしてはいない。第四エズラ13章に「生き残る者たち」との用語が出てきている
 「その日まで生き残った者は不幸です。しかし生き残らなかった者はもっと不幸です。彼らは悲しむでしょう。終りの日に備えられていることを知りながら、それに出会えなかったからです」。「主は私に答えて言われた、…かの時に危険をもたらす方は、危険のただ中でも力ある方に対して善き業と信仰とを持ち続ける者を守るであろう。《それゆえ死んだ者より生き残った者のほうがはるかに幸いである》ということを心得なさい」第四エズラ13:16~24。
 だとすれば、この「生き残った者たちは死んだ者たちよりも幸いだ」との見解(おそらくこれはテサロニケ教会の人々の見解でもあったであろう)に対して、パウロは決定的な《反対命題》を提起したことになる。15節後半で「生き残る者たちは、眠っている人々に先んじることはけしてないであろう」と彼は述べたからだ。パウロは「生き残っている者たち」は明確に「主の来臨以前に眠りについた人々に対して救いにおいていかなる優位性もない」と述べて、教会員らを慰めている。彼は来臨に生き残るか、それともすでにその時点で眠りについているかどうかをまったく重要視しないのだ。同時に《すでに眠りについた教会員のための救いへの希望》を力強く語ったのだ。
 16節「合図の言葉で、すなわち天使の頭の声と神のラッパのもとで、主ご自身が天から降りてこられるであろうからだ、そして《まず》キリストにある死人たちがよみがえるであろう」。この箇所も後期ユダヤ教の黙示文学的な伝承に由来するが、パウロがどこから受け継いだのか、どの部分がパウロが手を加えたものか、彼以前に原始キリスト教が採用したものか、はっきりしない。また後期ユダヤ教のものとの相違点もそれほど大きくはないであろう。結論的にはパウロは16節以下で伝承を受け継いでいて、その伝承ではすでに死人たちのみならず、生ける者たちについても取り上げられていた。