建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

死人の復活1  第一テサロニケ4:13~17

2001-31(2001/7/22)

死人の復活1  第一テサロニケ4:13~17

 「しかし兄弟たちよ、あなたがたが《眠っている人々》について無知のままでいないように私たちは欲している。まったく希望をもっていない他の人々のように、あなたがたが悲しむことがないためである。イエスが死んで、復活したと私たちが信じるならば、神は眠っている人々をもイエスをとおしてイエスと共に(上へと)導いてくださるであろう。私たちは主の言葉によってこう確信している、
 すなわち主の来臨の時点に生き続ける私たち《生きている者》たちは眠っている人々に先んじることは決してないであろう。なぜなら合図のもとに、すなわち天使の頭の声と神のラッパのもとに、主ご自身が天からおりて来られるからだ。そして《まず》キリストにあって眠っている人々が復活するであろう。《それに続いて》私たち、生き続けている生きている者たちが、同時に、彼らと共に、空中で主を出迎えるために雲に引き上げられられるであろう。かくて私たちはいつも主との交わりの中にあるであろう」(第一テサロニケ4:13~17、ホルツ訳)。
 ここでパウロはテサロニケ教会員らに慰めの言葉を述べて、こう言っている、キリストの(死への)勝利は、キリストにあって眠りについた者たちを栄光へと導いていく、と。
 ここでは「眠っている人々」(13、14。15節)は死者一般ではなく、教会員の中ですでに亡くなった人々を意味している。16節の「キリストにある死者たち」と同じ意味である。13節の「まったく希望をもっていない他の人々」は少し厄介である。「まったく希望をもっていない」の意味内容がポイントである。キリスト者以外の者らはそもそも希望をもっていない、という意味には解釈できない。以前にはそのように解釈されていたが。ここでの「いかなる希望をもっていない他の人々」とは「キリストに根拠づけられた希望をもっていない」人々、すなわち教会に属していない人々のこと(ホルツの注解)言い換えると「もしキリストがよみがえらされなかったとしたら、キリストにあって眠った人々は滅んでしまったことになる」(第一コリント15、18)とのパウロの見解を受け入れない「異邦人」のみならず「ユダヤ人」が含まれる。
 「彼ら」は「死によってすべての希望がついえ去る」「死人にはいかなる希望もない」「死人にはいかなる将来もない、まして彼らの復活もない、死者には希望がない」と考えている。さらにコリントの教会と同様に、テサロニケ教会の人々は、キリストの来臨の時の救いの出来事は、その時点で生きている人々だけが与れるもので、すでに死んだ教会員らはその救いから除外されてしまう、生けるキリスト者のほうがすでに亡きキリスト者らよりも圧倒的に有利である、だとすればすでに亡きキリスト者は「滅びてしまったのか」と誤解していたのかもしれない。
 このような誤解に対してパウロは立ち向かっている。パウロが明らかにしようとしたのは、死人には希望がない、という立場はキリスト者のとるべき態度ではない、死人たちの将来に対する待望はいったいどのようなものか、についてである。パウロは教会員が死者に関して待望することをやめるようなことがあってはならない、と説いている、「あなたがたが悲しむことがないためである」。
 そしてパウロが根拠としたのは「信仰告白伝承」であるが、「主の言葉によってこう確信している」(15節)、14節の「イエスが死んで復活した」は、彼がすであった伝承から直接引用したらしい。「イエスが死んで復活した」という箇所は、非パウロ的であるからだ。パウロ的な表現によれば「キリストは死んだ方、むしろよみがえらされた方」(口マ8:34)などのように、キリストの死と復活の表現方法は「受身形の動詞」「受身形の分詞」がほどんとであり、この簡所のように「能動形での復活した」という表現(他にマルコ16章の付加部分)はないからだ。むろんパウロは14節前半におけるイエスの死と復活の「主語がイエスとなっていること」をふまえて、後半においてはわざわざ主語を神として、イエスの死と復活の出来事の主体はイエスと神と双方でありうることを示している。「イエスがなしたことは、まさしく神の業の遂行である」ホルツ。しかも14節後半は、すでに亡き教会員「眠っている者たち」に対する神の行為について述べている「イエスをとおしてイエスと共に導いてくださるであろう」。その場合、眠っている人々の「複活」についてははっきりとは言及されずに、むしろイエスと共に彼らを「導く」との神の行動について述べられている。パウロはまず神が働きかけられる「死んだ人々とイエスとの交わり」について語っている。眠っている人々は「イエスをとおしてイエスと共に」神に上へと導かれるのだ。
 パウロはここでテサロニケの教会員が、すでに眠っている教会員に対していだいている考え、キリストの来臨以前に亡くなった人々は救いに与れないとの「希望なき悲しみに陥っている」(ホルツの注解)事態をふまえているからだ。 続