建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅵーパウロの復活理解-3 後期ユダヤ教「死人の復活」

死人の復活を否認する人々
 原始キリスト教は、後期ユダヤ教の黙示思想(世の終末、最後の審判、死者の復活など)における「人の子の切追した来臨への待望」「世の終りにおける死者一般の復活への待望」を引き継いだ(ケーゼマン「キリスト教神学の起源としての黙示思想」)。マルタもラザロについて言っている「彼が最後の日に復活することは、私も知っています」(ヨハネ一一・二四)。ユダヤ教の内部では、サドカイ人は復活も天使も霊もないといったが、パリサイ人は義人の復活を信じていた(行伝二三章)。他方原始キリスト教、初代の異邦人キリスト者らは、後期ユダヤ教の黙示思想「死人の復活」という教理をユダヤキリスト者から引き継いで受け入れた。初代のキリスト者にとって死人の復活は初歩的な教理の一部とみなされた(ヘブル六・一以下)。

後期ユダヤ教における「死人の復活」
 旧約聖書、後期ユダヤ教における死人の復活について取り上げたい。以下は特にパンネンベルク「キリスト論要綱」の「死人のよみがえり」、ヴィルケンス「復活」の「ユダヤ教における死人の復活」の各章に依拠した)。
 旧約聖書ユダヤ教における死人の復活について三つのポイントにふれたい。
 第一に、死人の普遍的復活。ダニエル一二章、この文書は旧約聖書正典にあるが、前一六〇年ころ成立したので時期的には後期ユダヤ教に属す。
 「その時、あなたの民を支配しているミカエルが先頭に立つ。そして国ができて以来かってないような患難の時があるだろう。しかしこの時に、書にしるされているあなたの民はみなこれを脱するであろう。また地の中に眠っている者のうち多くの者は生き返り、永遠の生命に至る者もあり、恥辱と永劫の罰に至る者もあるだろう」(ダニエル一二・1~二、ポルテウス訳、「多くの者」はすべての者を意味する)。
 「地の中に眠っている者の多くの者は生き返るであろう」とあるように、ここでは終末時におけるすべての死者の復活「死者の普遍的な復活」が述べられている。しかしながら復活した者らを待ちかまえているのは、神による最後の審判であって、永遠の生命に至ることができるか、それとも永劫の罰を受ける運命にあるか、自分がどちらにいくか、けして明らかではない。この復活は、いわば「最後の審判への復活」である。
 新約聖書の黙示録二〇・五は「残りの死者たちは千年が終るまで生き返えらなかった」とあって、「イエスの証言と神の言葉とのゆえに首をはねられた者たち」(二〇・四)殉教者たちの復活(四節「彼らは生き返り」)の千年後に、殉教者以外の《普遍的な死者の復活》がある、と述べている。さらに「死者たちは書物にしるされていることにより、彼らのわざに基づいて審かれた」(二〇・一二、一三)とあって、彼らの復活が最後の審判への復活である、と述べている。
 「義ならざる人々にとっては、死者の普遍的な復活はむしろ恐怖の表現である。彼らにとっては死んだままのほうがよいのだ。しかし義人にとってはそれは《不確かな希望》である。何人も自分が義なる者であるとは確信をもって言うことができないからだ」(モルトマン「十字架につけられた神」)。
 第二に、「義人のみの復活」イザヤ二六章。ここはイザヤ黙示録と呼ばれる箇所に属し、後期ユダヤ教の時期にイザヤ書に付加されたもので、次のような神への希望がしるされている。
 「あなたの死者たちは生き、復活するであろう(auferstehen)。ちりに住む者らは、覚めて歓呼するであろう。あなたの露は光の露であって、地は暗闇にある者たち[死人たち]を生まれ変えさせるからだ」(イザヤ二六・一九、訳はヴィルケンスの「復活」による)。
 ここでは「神に依り頼み」(四節)「神を待ち望む」(八節)神の民は敵によって圧追され苦しめられている。彼らを苦しめる敵はここではすでに救われがたい「死者」とみなされた、「死者は再び生きることはない。亡霊は生き返らない。それゆえあなたは彼らを罰して滅ぼし彼らの記憶をことごとく消し去られた」(一四節)。苦しむ民は「主よ、悩みの時、私たちはあなたを求めた。あなたのこらしめにあい、苦しみのあまり私たちは叫んだ」と告白した(一六節)。地上における不当な苦しみに対する神の正しい裁定・審判への希求とそれに対応する神の側からの回答、すなわち神義論のテーマがここでは登場している。「神の審判が地に現われる時、地に住む者らは義を学ぶ」(九節)。権力によって不当に追害された人々の権利や名誉は後になって「名誉回復」よって実現するが、「死後の名誉回復」によっては回復できないその人の生命・死への償いはどうなるのかという問題が未解決のままだ。旧ソ連の文学者ポリス・パステルナーク(著名なシェークピア研究者、小説「ドクトル・ジバコ」の著者、ノーベル文学賞に決定したが政府に妨害された)らの「名誉回復」などはその典型的な例だ。人間の存在と行為に対する裁定は、その者の生前の時期や死によってはいまだ決着がつかない。それは死後における神による最終的な判決を待たなくてはならない。これは死人の復活のテーマと関連する。
 イザヤ二六章の死人の復活のテーマ「あなたの死者らは復活するであろう」は、本来神義論への回答である(ヴィルケンス「復活」)。神義論への回答として復活を理解したのは、マルクス主義の哲学者エルンスト・ブロツホであった(「希望の原理」、後述)。モルトマンも復活のテーマを神義論、神の正義の実現のテーマと結びつけた(「十字架につけられた神」)。
 さらに「義人の復活」をしるしたものとして「これらののちアブラハム、イサク、ヤコブはよみがえる。…悲しんで死んだ者は喜びによみがえり、主のために死んだ者は生命に目覚める」(偽典、一二族長の遺訓四男ユダ二五章)。
 「聖なる、大いなるお方がすべてのことに日を定めておられる。義人らは眠りから覚めて立ちあがり、義の道を歩む」(偽典、エチオピア・エノク九二・二一三)。
 「その後メシア滞在の時が満ちて、彼が栄光のうちに帰還される時、彼に望みをつないで眠りについた者はみな復活するであろう」(偽典、シリア語バルク黙示録三〇・一)。
 第三に、死人から復活した者たちの「存在様式」。
 「そして賢者らを導いた者らは明るい大空のように輝き、多くの人々を正しい道に導いた者たちは、いつまでも永遠に星のようになるであろう」(ダニエル一二・三)。
 「その時、聖者たちと選民たちに《変貌》が起こり、日の光が彼らの上にとどまり、彼らは栄光と栄誉のなかにある」(エチオピア語エノク五〇・一)。
 復活した者の「変貌のテーマ」についてもっとも意識的に述べたものは、後一世紀後半(新約聖書時代)にしるされた偽典「シリア語バルク黙示録」である。
 「あなたの日に生きる者はどういう形で生きるのでしょうか。またそののち彼らの姿はどういう形で残るのでしょうか。その時、今のようなこういう形をとり、この桎格の肢体をまとうのでしょうか(シリア語バルク黙示録四九・二以下)…その時、地は今受け入れてあずかっている死者をまちがいなく、返すであろう。私(神)が彼らをそれに引き渡したそのままの姿で、地は彼らを復活させるであろう。その時には、死んだ者が生き返り、去った者がもどって来るのだ」(五〇・二以下)。
 ここでは死者の普遍的復活を前提とし、変貎も罪人と義人双方に起こるものとされ、またこの変貌は復活後ただちに起こるものではない。
 「定められたその日が過ぎたのち、罪人とせられる者たちの姿、義人とせられる者たちの栄光が《変化する》であろう。今、不義を行なっている者たちの姿は、彼らが拷問に耐えられるように、今よりもっと悪くなるであろう。同様に、今私の律法に照らして義人とされている者たち、その生涯において叡知を獲得した者たち、その心に知恵の根を植えつけた者たちの栄光も《彼らの顔も変化して輝き、彼らの顔形は彼らの栄えの光に照らされて変わり》、彼らに約束された《死することなき世界》をわがものとして受け取るであろう。…今でこそ下積みになっている者たちがその時には、自分たちがより上になり、栄誉を得て、互い(罪人と義人)の位置が逆転しているのを見る。一方は《天使の姿》に似る[マルコ一二・二五のイエスの言葉「死人の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、ちょうど天使のようである」を想起させる]。他方は幻に驚く。…自分の行いによって救われた者、今律法を望みとし叡知を希望とし、知恵を堅固な土台とした人々には、定められた時に不思議が姿を見せるであろう。彼らは今彼らにとって《不可視の世界を見、今彼らの目に隠れている時を見る》であろう。もはや時は彼らを《老いさせない。彼らはその世界の高みに住み、天使に似たものとなり、星と肩を並べ、自分の好きなように姿を変え、美から華麗へ、光から栄光の輝きへと変わり、彼らの眼前で楽園の境界は押し広げられる》」(五一・一~一二)。