建司の書斎

「キリスト者の希望」、「愛を学ぶ」等の著者、故相澤建司の遺稿説教原稿・聖書研究など。

Ⅶ-キリスト者の復活への希望-3 キリスト者の復活②Ⅰコリント15章(2)

 五四節の旧約聖書の引用箇所「死は勝利に飲みつくされてしまった」は、ヘブル語聖書のイザヤ二五・八「主は永遠に死を滅ぼされる」(周知のように、ここは第一イザヤ白身よりのちの後期ユダヤ教の時期のイザヤ黙示録の一部)。パウロの引用はこれとも七〇人訳とも異なっている。
 「死は勝利に飲みつくされた」 についてのルターの解釈。

 「『死は勝利に飲みつくされてしまった』、このことはまだ起きてはいない。しかし起こりつつある。やがてここに書かれているとおりになるであろう。《『勝利』とはキリストの復活である》。われわれにおいてはいまだ実現していないが、勝利は確かにある。洗礼と福音とによってそれはわれわれのものとなる。…死はわれわれを屈伏させわれわれに勝利し、われわれを地中に送り込む。にもかかわらずゲームは逆転する。われわれを殺し、埋葬する死は、再び殺し葬ることはない。われわれは生命の中に、生命はわれわれの中にとどまり、反対に死を追放する。今死は主人であり、支配者であるが、《その時には》死は駆逐され、葬られてしまう。特に洗礼を受け、キリストを信じる人々にとってはこうなるのである。われわれの力によってそうなるのではなく、われわれに与えられたキリストの勝利によってそうなるのである。…」(「講解」徳善訳)。
 イザヤ二五・八で約束された事柄、死への嘲笑は、パウロの場合もいまだ実現してはいない。現に死は今なお刺をもっていてその刺が抜かれるのは将来のことである。「死への勝利の歌」がすでに今歌われ、コリント教会員に歌って聞かせられるとしたら、その歌、死の嘲笑は、死者たちのよみがえりの《将来》 の先取りである。「聖書の言葉が《成就されるであろう》」の動詞の《未来形》が意味するのはそのことである。しかも死が、もはや口をつぐむのではなく、むしろ決定的な『飲み込まれた』によって、すでに今死の支配力はそがれ始めている。キリストの復活という死への勝利をもってである」(シュラーゲ)。この「死が飲み込まれてしまった」との比喩の意味は、けして明白とはいえない。 「猛獣によって餌が飲み込まれるように」との解釈もあり、他方「海の渦に引き込まれるように」との解釈もある。どちらかというと、ここでは、死が引き込まれ滅び去る、海の渦に飲み込まれるようにとの、比喩的解釈のほうがよい(シュラーゲ)。死はついに勝利に飲み込まれて、完全に征服させられて、完全に抹殺されてしまう。死ぬべきものが生命に引き込まれ、その結果が死に対する決定的な勝利となる。「死ぬべきものとして、見よ、私たちは生きている」(第二コリ六・九)といった信仰告白がなされているうちは、死への勝利はいまだ獲得されてはいない。死がその力を終局的普遍的に失った時にはじめて、死への勝利は獲得される。
 ここで、キリストによる「死の征服」の意味を明らかにする必要がある。「キリスト・イエスは《死を征服し》福音をとおして生命と不死とを明らかなされた」(第二テモテ一・一〇)。パウロもテモテ書もキリストの復活が《死に対する決定的勝利》であったことを告げている。しかしながらこの勝利は《死の滅亡を意味していない》。この世にはいまなお厳然として死は存在しているからだ。死の最終的な滅亡は、終末の時に起きる。「それから終末…。最後の敵として死が《滅ぼされる》」(第一コリ一五・二四、二六)。「滅ぼされる」は神的受身形で主体は、キリストではなく、むしろ神である。「究極的に死を滅ぼす主体は神ご自身であり、かつ神のみである」(シュラーゲ、注解)。したがって五四~五五節を読み進む場合、この区別「キリストによる死の征服」と終末時における「神による死の滅亡」との区別をふまえておくことは重要だ。
 五五節の旧約聖書からの引用は、ホセア一三・一四。ヘブル語聖書では「死よ、おまえの呪いはどこにあるのか。陰府よ、おまえの滅びはどこにあるのか」。七〇人訳では「死よ、おまえの罰はどこにあるのか。陰府よ、おまえの刺はどこにあるのか」。パウロの引用はこのいずれでもない。パウロはここで「死」を人格化している。「刺」は行伝二六・一四に「刺の棒」とあり、体罰、拷問のためのもので、死の支配と力の象徴である。ここではこの刺は「罪のことである」。「死の刺は罪である」(五六節)。罪は戒め(律法)をとおして機会をえて人間に働きかけ、人間に罪を犯させる。人間は罪を犯したゆえに死ぬ。罪の報いは死であるからだ(ロマ六・二三)。この二つの旧約の引用によって、パウロが意図しているのは「死への敗北宣言、死への嘲笑」である。この「死への嘲笑」は、人間の側からは実現できない。
 ルターの講解は、現代の注解書がふれていない内容を展開しているので引用したい。
 「その時には死に障害がおかれる。死は永遠に飲込まれてしまった、五四節。今死はわれわれに逆らって歌う、私に刃向うがよい、おまえが逃れうるかどうか見ていようと。しかしその時になると逆転が起きる。『死は勝利に飲込まれてしまった』。すなわちキリストの復活に飲込まれてしまうのである。おまえはどこを剌せるというのか。陰府よ、おまえはこれ以上勝つことはできない。キリストにおいて事は始まったのである。キリストはご自分の体において死を根こそぎになさった。これが、キリストを信じる者にお与えくだった勝利であり、こうしてわれわれはキリストが復活祭に獲得なさったと同じ勝利を終りの日のその時もつに至るのだ」。ルターは続ける、
 「『死の刺は罪である。しかし罪の力は律法である』(五六節)における『とげ・刺』によってパウロは何をいおうとしたのか。死は刺をもつかのように描かれる。パウロはそこに罪と陰府と律法しか見出さない、と言おうとしたのだが、これはあいまいな表現である。ギリシャ人やローマ人はこれを理解しない。罪は死の針、銃、よろい、武器であり、それによって死は強力であると言ったのだ。同じように死は手中にしている力、強さ、勝利を律法から得ている。これは来るべき生命を求め、来たるべき復活を待っている人々のためのものである。他の人々には関わりがない。…彼ら[キリスト者でない者たち]は死や罪には決して気づくことがない。キリスト者たちは死がどのような刺をもち、罪がどのような力をもつかを感じる。パウロは、死の刺とは罪の剣である、罪がなければ死はその針をそのままにしておくしかない、と言おうとする。しかし死がわれわれを殺すというのは、罪がなすのである。罪がわれわれを死なしめるのである。《したがって死に対して勝利を得ようとすれば、死に先立って罪に対して勝利を得なければならない》。なぜなら罪こそ(人間に)勝利を得て人間を死へと追いやるからである」。
 ルターはロマ七・七~一二の「罪と死の弁証法」を想起している。ルターは続ける、
 「罪は死の刺である、すなわち良心がまずもって恐れる時、心の中を死の刺、罪が通りぬける。この罪は心と体を互いに分かつ。罪はこのように有毒なものであって、一瞬のうちに人間を取り去る。まずもって罪がなかったとしたら、死はなにものでもないであろう。《罪が来ると人間は死ななければならない。死はどこから来るのか、罪からである。罪こそが人を殺す》。今やパウロは、罪について語る。罪は人を死に至らせるほどの力をどこから手に入れたのか。『罪の力は律法である』(律法からである、五六節)。律法によって罪が認識されて[ロマ七・七]、その罪がのちにわれわれを殺す・死に至らせる。律法がその働きを始めると、罪は一瞬のうちに強力となる。律法は人に罪を認識させるばかりではない、人の中で罪を強めるのだ。律法が説かれる(読まれる)と罪が目覚めさせられ、罪は体と魂を分離して、あなたを殺すことになる。これが『刺』である。律法が罪をもたらすのではなく、光を点じて心の中を照らす。するとあなたは罪でいっぱいになる。その時あなたは多くの槍(刺)が自分に向けられていて、死ぬほかないと自覚する。あなたに不当なことが起こっているのではなく、律法は聖であり、死もあなたに権利をもっていて、正当なこととしてあなたを喰い尽くす。…それでは私はどうなるのか。そこでキリストはわれわれの罪をその首に担って言いたもう『律法よ、私は人間がしたことは何でも、罪よ、人間が獲得したものは何でも、これを空にした』と。…キリストは咎のない方であるのに、しかも罪を犯された、すなわち人間が犯し、そのために死ななければならない罪を、私がやった、と言ってくださる。そこで罪がやってきて彼を殺す。すると彼は墓から出てきて言いたもう『罪よ、律法よ、死よ、なぜおまえはおまえの主人を殺し罪人にしてしまったのか、立ち止まれ。おまえはもはや私を恐れさせ、殺し、裁き、埋葬することはない。逆に律法よ、おまえを、神の子を断罪し殺し葬ったとして告発しよう。おまえの首はすつ飛ぶのだ』。…それだから律法があなたを告発しようとすれば、こう言えばよい『私は一人の人の名によって洗礼を受けている、この方はキリストと呼ばれ、死に勝利なさった。私はこの方を信頼し、この方の勝利におすがりする。この方の勝利は私の勝利である』と。…」(「講解」)。

 ルターが「講解」において、とにかく律法、罪、死の連関とキリストの復活によるそれへの勝利を執拗に展開した点は前代未聞の業績であると感じる。

 さてバルトの講解をみてみよう。
 「実際人生にまとわりついている死に<停まれ>が命じられるためには、人間に最後終極的に目標を差し込む神の奇跡が必要である。<そこからして>死が嘲笑されうるし、嘲笑されねばならない。…何が《復活の現実》を停滞させているのか、何がわれわれを五四節の、《その時》[よみがらされる時]から《分離している》のか、をわれわれはちゃんと知つている。すなわち『死のとげは罪である』(五六節) ことを。われわれはアダムの子らとして彼の《堕罪》に彼の神への《謀反》にわれわれの全実存をもって参与しているがゆえに、またわれわれの現存在だけでなく、それをもってわれわれが神との差異性においてある自己自身を肯定する意志が(ロマ五・一二以下)、行為としてのわれわれの生活が、あの二元論[ロマ七・二五、一方では神の律法に仕えつつ、他方では罪の律法に仕えている]を基礎づけているがゆえに、《死が勝利するのだ》。…われわれには何が残っているのか。それは『神に感謝せよ』(五七節)ということだけである。『われわれの主イエス・キリストによって』神はわれわれに勝利を《与えてくださっている》。勝利を《与えてくださっている方に》という《現在形》に注意せよ。神の賜物として勝利《復活の現実》は現在なのである。この《勝利》がわれわれには神の賜物であり、『われらの主イエス・キリストによって』《希望》においてある現在であり、かつそうであり続けるということにいっさいがかかっている」(強調、バルト)。
 バルトが指摘した、五七節の「主イエス・キリストをとおして私たちに勝利を《与えてくださっている》方」における「与えてくださっている」が現在形であるポイント。
 この現在形はむろん《未来の事柄を意味している》と把握することはできる。パウロのいう《勝利》はイエスの復活を指していた(ルター)。したがってイエス・キリストの復活においてはこの死への勝利は「すでに」実現したといえる。しかし私たちキリスト者にとってはこの勝利は「いまだ」実現されていない。この「すでに」と「いまだ」との関連をどう把握するかがパウロにとっても私たちにとっても眼目となる。死への勝利の歌(「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか」五五節)の歌声が響く時には、死に対する決定的な勝利がもたらされている、とパウロは考えていた印象がある。しかしこの勝利はいまだきていない。この勝利は「死のとげ」すなわち罪が究極的に征服され、死のとげが引き抜かれた時に初めて、完成される。しかしながらここでパウロが述べているのは死への勝利の、単なる「先取り」ではない。むしろこの死への勝利はいまだ実現されてはいないが、「死への将来的な究極的な勝利の現実が《現在すでに》提供されている」と解釈できる、シュラーゲ。